リンも安原も遠くはないが、方角が違う。それでもこれまでは関係者で護衛をまわしていたが、結局、最寄駅が同じなので、ゴールデンウィークが明けて麻衣が仕事を再開してからは、ナルが護衛を務めることになった。
ナルはただ、帰るだけ。その時間に麻衣が合わせればいいのだ。
駅からは方角が違うのだが、少し遠回りになるだけだからと、ナルがアパートの前までついてきてくれる。足のリハビリだ、と。
五月も半ばを過ぎたある晩、食べて帰ろう、と、麻衣はナルに誘われた。
麻衣はびっくりした。論文大好きなナルが必要以上の寄り道をするなんて。
しかし、ナルによれば麻衣は毒見役なのだという。
ナルが食べられる店探し、だ。
サラダメニューがありそうな店はとりあえず入って話を聞いて食べられるものを選ぶのだという。が、野菜だけのメニューがあるか不明の店には、入っていない。
「和食は当たればいい店もあるんだ」
ナルによれば、イタリアンなど洋食系はサラダメニューもあるが、肉メニューも強烈なので、匂いだけでうんざりすることもあるのだという。そうすると、安全な店は以外と少なく、飽きてきた、のだと。
「お酒飲むんだよね?」
「この時間だからな。おまえはどれだけ飲めるんだ?」
「サワー二〜三杯は全然平気。生中二杯くらいも大丈夫。日本酒なら一合は楽勝」
「じゃあ、つまみながら、調理法を聞いてみよう」
いかにもな地元居酒屋系に入ってみる。
元気なおばちゃんが、はい二名さまね〜! と、二人掛けの席を指さし、すぐにお手拭とお通しを持ってきた。お通しは菜の花の辛し和えとカボチャ。まずは合格だ。
「カボチャの味付けは?」
麻衣が味見をする。細かい味を気にしたことはないのだが、眉を寄せてよーく味を分析してみる。
「甘味はかぼちゃのだと思う。ぽくぽくで、水っぽくないし、出汁で煮たんじゃなくて蒸したんじゃないかな。味付けなし」
日本酒を頼みながら、野菜メインと思われるメニューの調理法を聞く。野菜の煮物は出汁をとるものは基本昆布出汁で、あとは塩や醤油、味噌などでシンプルに味付けしてあるのだという。肉や魚の料理には、それぞれ肉系魚系の出汁を使うのだと。
「合格?」
いくつか頼んだメニューをつまみながら杯を傾けるナルに尋ねる。
「ああ」
少し、機嫌が良さそうな声だった。
ナルの左の首には、まだ小さい湿布が貼られていた。治療のためというより、消えない痣を隠しているのだと、リンから聞いている。
ジョンのところにいるうちは、湿布で隠しきれないほど広範囲に黒に近い色で内出血が広がっていたのだという。今は範囲も狭まり、色もだいぶ落ち着いてきたが、もうしばらくは必要だろう、と。
まだ走ることもできないし、料理をつつくにも指の動きがぎこちない。右目を細めることがあるので、見え方も回復しきっていないようだった。
それでも、そんな原因を作った麻衣と食事をする気になってくれたことに、麻衣は涙が出そうなくらいうれしかった。そして、申し訳ない気持ちも募った。そんな気持ちが顔に出ないように料理やお酒を楽しみ、くだらない話をした。
ナルは、適当に相槌を打つ。話を聞いてくれていた。
おまけに奢ってくれて、麻衣の部屋へと送ってくれる。
「友達はみんな就職試験で忙しいんだあ」
「じゃあ、うちも就職試験だ」
「は?」
「無試験で採用されると思ってたのか? 一応試験がある」
「ええっ!?」
「一般的な教養と面接。すべて英語」
「ひぃっ!」
「教養は英国の、だ」
「えええっ!」
「英文学科なんだろ?」
「テーマはゴシックホラーですっ!」
「英文学と音楽とか文化、あとはイギリスの新聞を読んでいれば大丈夫だ」
「あ、だから、新聞・・・・・・」
大学に入ってから、イギリスの新聞まで切り抜きの仕事に加えられていた。日本の新聞もそれも全部読むよう言われて、何故か文学系と音楽系の文化面もスクラップするよう命じられて作業していたのだ。
「あちらに行けばあちらの文化や歴史がわかっていないと状況を把握できないことになりかねない。他のメンバーとの交流も、一般教養のレベルくらい一緒じゃないと良好な関係が築けないだろう? 麻衣の場合、現場能力はある程度保障されているから、試験はそれだけだ」
「なんか、ナルが言うと説得力ないんだけど、試験の理由」
「僕だって一般教養は怠っていない。スポンサー獲得には教養も話術もいるからな」
「じゃあ、あのスクラップ役に立ってるの? 私の試験勉強ってだけじゃなく」
「ああ」
「そっかあ。良かった」
麻衣の部屋に着く。また明日、と、麻衣が中に入って鍵をかけるところまで見届けてから、ナルは自分のマンションへと足を向ける。駅とこの二部屋は、ちょうど三角形を描くので、倍の距離を歩くことになる。
追体験で怪我をしてから、一か月以上経つ。痛みはもう残っていない。右目が見づらいのももうすぐ治るだろう。指や首、両足はこうしてリハビリをして回復させるだけの段階だ。ゆっくりならキーボードも打てるし、だいぶ長い時間、机に向かうこともできるようになった。普通のスピードで歩こうと思えば歩けるが、まだ早歩きは危なっかしい。
ゆっくり歩いて、もうすぐマンションが見えるというところで、携帯電話が鳴った。麻衣と別れてから十分ほど経っていた。足元が不安なため一時的に使っている肩掛け鞄から携帯を出すと、麻衣からだった。
「どうした?」
「誰か来たの。ピンポン鳴らして、ドアノックされて、無視してたら、今度は前庭の窓ノックしてる。カーテンで見えないけど」
ナルは、すでにUターンして歩き出している。
「鍵はかかってるな?」
「掛かってるはず。開けてない。閉めっぱなし」
「灯りを消して、靴を履いて玄関で待て。この電話を切ったらすぐ警察に電話しろ。僕も戻る」
「わかった」
スイッチを切ったりダイニングとの仕切りを閉める音が電話越しに聞こえた。
「じゃあ切るぞ。すぐ行く」
「うん。頑張る」
ナルは電話を切ると、できるだけ急いで足を運ぶ。足首がいうことをきかないので、急ぎ過ぎるとつまづきそうになる。あいにく、タクシーが通りかかるような道ではない。恐らく、玄関にまわったり前庭にまわったりを何度か繰り返して中の様子をうかがうはずだ。なので、すぐには押し入らないだろう。
半ば以上戻ったところで、携帯が鳴った。
「窓割ってるっ!」
「出ろっ、こちらへ走れ!」
「窓開いた、早く来て!」
玄関を開ける音がする。
「電話は切らずに走れっ」
「ん」
麻衣の元へはもう、パトカーが向かっているはずだ。通報時間が短くてすむように、事情を登録してあったのだから。
麻衣の足なら、ナルのところまで一〜二分で着けるだろう。こちらも少しでも近づいておかないと・・・・・・。
携帯電話から、男の怒声が聞こえた。実際にも、かすかに聞こえた。焦って動かした足が地面に引っかかり、ナルは膝をついた。転んでいる場合じゃないのに。
「!」
すぅっと、自分の体から、風が起きた。>
風が向かった方を見れば、自分が、驚いて自分を見返していた。駆け抜けようとしていたのを、踏みとどまって。
「行け!」>
ナルは叫んだ。はっと、ジーンはすぐに駆け出した。ナルも、すぐに塀を頼りに立ち上がり、足を急ぐ。少しでも速く。
直線道路の向こうに、麻衣が現れた。わずかな間で、男が曲がってくる。必死な麻衣の表情が見えるほど、すぐそこなのに。
自分は、間に合わない。
男が、麻衣の背後で手を振り上げる。包丁を持っている。
「ナルぅっ!」
すぐ背に相手を感じつつ、麻衣が、ジーンに手を伸ばす。振り下ろした刃は、麻衣には届かない。少しだけ、距離が足りなかったのだ。ジーンは麻衣をよけてそのまま走らせ、男に組み付き、そのまま一緒に地面に転がった。
その瞬間、ナルの右手に熱い痛みが走った。
「ナル!?」
前にも後ろにもナルがいて、麻衣がこんな状況の中、唖然と前後を見比べつつナルの元に駆け寄る。麻衣を背後に回して前を見れば、ジーンの姿はなく、男がよろめき立つところだった。
ここのところ警戒していた、廃病院の調査から麻衣につきまとっていた男、本田達也だった。
パトカーのサイレンが、意外と近くから聞こえてきた。焦っていたうえに、中層の建物が乱立しているせいで聞こえなかったのだろう。幸い、背後から来る。
「麻衣、パトカーの方へ走れ。誘導しろ。僕は走れない」
「わかった」
軽く背を押され、麻衣は走り出す。男が追って行こうとナルを迂回しようとする。ナルは、その手を狙った。
短い悲鳴がして、包丁が地面を滑る。包丁が手からはじけ飛んだことに驚き、たたらを踏んだ男に、ナルは体当たりして地面に相手を転がす。自分も、踏みとどまれずに転倒した。転んだついでに相手の体にしがみつく。足が踏み切れないので、押さえつけるのにうまい位置に飛びつけず、ただしがみつくしかなかった。そんな二人の目前に、赤いランプが急停止し、警察官が飛び出してきた。
せっかく、治りかけていたのに・・・・・・。
ナルは、止血されながらため息を落とした。
ジーンが男に飛びかかって負った傷が、ナルにきた。
その結果、衣服は傷ついていないのに、右の手のひらから手首の少し奥あたりまで切り傷ができた。かろうじて、衣服が傷ついていない言い訳が可能だった。しかし、手首の太い血管が傷ついたため、止血のため麻衣が指示されてナルの手首を両手で押さえている。最初に男に組み付いたのもナルだったことにし、すぐに立ち上がって数歩逃げてから麻衣を背にかばったことにしようと、打ち合わせは済んでいる。
二人、黙然と路上に座り込んでいた。
男はすでに、パトカーに押し込められている。
救急車と応援が来るのを待っているところだった。
(ナル、痛い?)
ジーンの呼びかけが聞こえた。鏡を媒介せず、昔のように。
(痛い)
(ごめん。まさかそっちにいくとは思ってなかった)
(今のおまえは僕の生霊同然だそうだからな)
(まあ、だからこそ止められたのかもね)
(ああ。でなければ、おまえはただ素通りしただけだろうな)
一人になる、と、自分が未来を告げたという。
近い将来、自分が自分だけではなくなる。
自分の予言が百%の確率で外れないとは知っているが、受け入れがたいものである。
今後、どういった過程を踏むものかはわからない。ジーンが『死霊』から『幽体離脱した霊』に変化したらしいが、どうしてそうなるのかもわからない。
ナルとジーンの深いつながりが、ジーンの成仏を妨げた。
長い年月のうちに、天に昇ることも奥に溶け込むこともなく、ジーンはナルに帰属する霊になった。
元々の成り立ちや繋がりから、ナルの一部へと変化した、というところか?
興味深いが、今後同様の事例が発生することがあるとも思えない。
(お前が出なければ、PKで最初から吹っ飛ばしていたんだがな)
包丁を。とはいえ、ナルが言ったのだ。ジーンに、行け、と。
(僕を吹っ飛ばさないでくれたってことだね)
(・・・・・・そうだな)
うっかり除霊してしまうところだった。
(それより今夜、麻衣はどうするの? 部屋の窓割れてるんだろう?)
(ああ。だれか・・・・・・、松崎さんは妊娠中だから無理か、原さんを呼べるかな)
(ナルの部屋貸してあげれば? ナルはソファで寝ればいいでしょ? 二人にベッド貸してあげて)
(僕が麻衣の部屋でもいいけれど)
(女の子はみられたくないものとかあるでしょ!)
(そういうものか?)
(ナルはにぶすぎ!)
右手を麻衣にまかせ、ナルは左手で鞄から出した携帯を操作する。うつむいている麻衣は気づきもしない。コール音がしだしてから、顔を上げた。その目から、涙がこぼれ落ちて麻衣はまた下を向く。麻衣のこんな泣き顔を、幾度見ればいいのだろう。
電話の相手は十回ほどのコールで出た。どこか飲み屋にいるらしい雑音が声に混じる。
「お暇なようですね?」
「あら、なんのお誘いですかしら? こちらは撮影後の打ち上げ中ですわ」
要件次第で抜け出せるということだろう。
ナルは簡単に状況を説明した。調査の関係者につきまとわれていることは、真砂子も麻衣から聞いて知っていた。話の途中で、タクシーを呼んでくれと頼んでいる。
「すぐに行きます。車が来れば、三十分くらいでしょう。麻衣は話せます?」
麻衣は俯いたまま、ただナルの右手首を握っている。ナルは、そんな麻衣の耳に携帯をぶつけた。いたっ、と驚いて、麻衣が身を引いた。
「話したいそうだ」
両手が塞がっている麻衣の耳に改めて携帯電話を添えてやる。
少し話して、麻衣がナルを見て頷いたので、携帯を取り返す。
「原さんが着く頃には僕はここにいないかもしれません。部屋の鍵を麻衣に預けておきますから、ご自由にどうぞ」
軽く打ち合わせて、驚いている麻衣を横目に通話を切った。
「窓が割れてるんだろう? ダンボールか何かで塞いだら、原さんと僕の部屋に行っていろ。好きにしていていい」
電話が終わったところに、警察の覆面パトカーが到着した。二人降りてくると、パトカーの方へ一度行ってから、一人がナル達の方へやってくる。その間に、ナルは肩にかけっぱなしだったバッグから部屋の鍵を出し、麻衣に渡した。
救急車の音も聞こえてきた。近づいてきている。
刑事から事情を訊かれ応答しているうちに、救急車が到着した。
「麻衣、おまえ、あの男から何か貰って持ってないか?」
刑事に男の尾行に気づかなかったのかと尋ねられ、まったく気づかなかったことを不審に思い、ナルは訊く。麻衣はふるふると首を振った。
「いつものバッグをよく見てもらえ。前にバッグをつかまれただろう? 何か落とし込まれてるんじゃないか?」
麻衣が顔をこわばらせる。盗聴器か、発信機が仕込まれているかもしれない。
救急隊員がやってきて、代わります、と麻衣からナルの右手を攫う。その際、試しに放すと、傷口から血がしみ出て流れ落ちた。それでも、当初は脈に合わせて吹き出すようだったので、だいぶマシだ。
争っていた時、痛みはあったものの出血は気にしていなかった。おかげで、犯人も自分も血まみれだ。止血が早かったので、失血でどうこうなるほどではない。普通に立って歩くことができた。
「大丈夫?」
麻衣がナルの背に声をかけてきた。そのかぼそく震える声に、ナルは驚いて振り返る。
麻衣は青褪めて震えながら、座り込んだままだった。
「どっちが? 僕は何針か縫われてくるだけだ」
ふと、思い至った。麻衣の母親は交通事故で、失血のためショックを起こして死んだのだと。
「これくらい献血の量より少ない。輸血もいらないレベル。余計な心配するんじゃない」
言っても、麻衣の様子は変わらない。足を止めたナルを救急隊員が促すのに、刑事もいいから行きなさい、とナルの背中を押す。やむを得ず、ナルは手短に小声で刑事に麻衣の母親のことを説明した。
「心配ないとよく言ってやってください」
刑事が心得た、と親指を立ててナルを送り出した。