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ごちそうさま(2000.5.31)

 8月初旬。夜も8時を過ぎたというのに、昼のうだるような暑さの名残りは消えていない。
(まだ、暑いな)
 ナルは、道玄坂をうつむきがちに下って行った。
 麻衣は大学の夏休み。本来なら、毎日事務所に詰めているはずだった。しかし、このひと月ほどは休みがちで、今日も1日出てこなかった。
 ナルは1人で渋谷駅の改札を抜ける。
 電車の冷房が強くて、火照った体の表面が急速に冷やされる。ほんの数分で下車し、外に出る。と、また空気が生暖かい。
 駅前のコンビニに寄るとまた涼しくて、会計を済ませて出るとまた暑い。
 ナルは、うんざりとため息を落とす。早く部屋に帰り着きたい。
 蒸し暑い夜になりそうだった。

「ただいま」
「おかえりなさーい」
 ナルが玄関から声を掛けると、想像していたよりは元気な声が聞こえてきた。廊下に上がる間に、ひょっこりと麻衣が顔を見せる。
 はじめ、ナルは無言で帰宅していた。
 が、麻衣に「帰って来たら『ただいま』て言うのっ。親しき仲にも礼儀ありって言うんだよ! 家族間の挨拶は大事なのっ」と躾られ、ようやく自然に口をついて出るようになってきた。
 すっかり忘れ果てていた、家族と暮らす生活の数々の習慣。2人で生活するうちに、だんだんとそれが思い出されてきた。それは、麻衣も同様らしく、少しずつ、『他人』から『家族』へと関係が変化していっていた。
「お疲れさま。あ、買い物ありがと」
 コンビニの袋を手渡すと、麻衣は廊下を戻りながら早速、中を覗いている。事務所を出る前に電話をした時に頼まれたものだった。
「ナルも食べるの?」
「いや、いらない」
 麻衣はキッチンに直行すると、コンビニの袋から出したシャーベット2つを冷凍庫に放り込む。それから、ナルの夕食を出す準備にかかった。ラフな服装に着替えてナルが戻ってくると、食事の支度がほぼ整っていた。1人分だけ。
「具合は?」
「んー。できればねぇ、炊飯器開けたくないんだー」
 しゃもじを持ったまま首を傾ける麻衣の言葉に、椅子に座りかけていたナルは体を起こす。キッチンへ行って麻衣からしゃもじを引き受けた。
「麻衣は? 食べたのか?」
「電話の前にちょっと。暑いせいか、なんかダメなの、すぐ吐いちゃって。シャーベットなら大丈夫かなと思って頼んじゃった」
 しゃべりながら、麻衣は小走りにリビングに避難する。御飯の匂いにつわりを誘発されてしまうのだ。
 ナルが食卓についてからも、麻衣はリビングのソファの一番奥に座って近づいて来ない。そうまでしてわざわざ御飯を炊いてくれなくてもいいのだが、食が細いなら細いで御飯くらいはしっかり食べなさいというのが麻衣の主張だ。
 料理に関しては基本的に麻衣が握っているので、あまり口が出せない。肉や魚類はダシまで気をつかって出さないでくれるし、量もおさえてくれるので、なんとか食べきれるものの・・・・・・。
(結婚すると太る理由がわかるな・・・・・・)
 別に、ナル自身はウエストがきつくなったとか、そういった兆候はない。
 けれど、綾子の夫の松崎氏は明らかに太った。
 去年の服が着られないと嘆いていたのも聞いた。
 そして、世間にはそういった男性陣が大勢いるのだとも。
「残すと寂しそうだし。なんか、食べれちゃうんだよ。少しくらい多くても。それに、少し多く作り過ぎちゃったからもうちょっとだけ食べて、なんて言われちゃうとね〜。ちょっとならって、食べちゃうんだよ。でもって、食べれちゃうんだよ、それが」
 嘆きつつも、松崎氏はにこにことそう語っていた。
 食べられるものを出されて、しかもそれが手間暇かかっていることがわかっていて、更につわりを刺激されるのも我慢して頑張って作ってくれているのだと知っていて、・・・・・・それで残すことなどできるものだろうか?
「今日は、なんか依頼あったの?」
 ソファの端っこから、麻衣が話しかけてきた。
「いや」
「全然?」
「体の具合が悪いから、なら1件」
「そっか。ごめんね、1日休んじゃって・・・・・・。あああ、お払いしたからって、つわりおさまるわけじゃないよね〜」
 麻衣はそう言いながら、クッションに顔を埋めてしまった。
 綾子によれば、麻衣のつわりは重い方らしい。近頃の麻衣は、食べると吐いて、静かだなと思って探すとどこかで寝ている。
 松崎氏によれば、綾子も妊娠してから寝ていることが多いという話だったので、そういうものなのだろう。
 一緒に暮らしてみると、これまでと違った一面が見えてくる。まあ、結局は麻衣なので、それはそれで興味深い。
 が、妊婦というのがまた、不思議な存在だなと、ナルは思う。
 あの皮膚の内側に息づく生命は、1つではなく、2つ。
 麻衣を腕に抱くとき、その下腹部にその存在を感じることがある。
 それは、ナルの特殊な才能による。確かに、そこにある。いる。存在する。
 ナルと麻衣の血を受け継ぐ子供。その子を腹の中で育んでいく麻衣・・・・・・。
 食事を終え、やけに静かだなと麻衣を見ると、クッションを抱えたまま眠っているようだった。
 ナルはそっと食器を下げ、それを片付ける。洗い終えても麻衣はまだ寝ていた。
「麻衣、寝るならベッドで寝ろ」
 言ったところで、この言葉が効いたのはごくはじめの頃だけだった。
 案の定、麻衣はう〜ん、と唸っただけ。それどころか、ソファに転がって抱えていたクッションを枕にしてしまった。
 松崎氏は、「子供が生まれたらほとんど寝る暇がなくなるから、自然の摂理だよ」と言っていたけれど・・・・・・。
 ナルはため息を落とし、あきらめて居眠り用のタオルケットをとりに行く。
 外が暑すぎるので、リビングにも冷房が入っている。起きている分には適温だけれど、寝ている体には毒だろう。
 眠る麻衣にタオルケットを掛けてやり、明かりを1つ落として、ナルは書斎に向かった。

(んにゃ)
 ふと、麻衣は目を覚ました。
 涼しい。暖かい。明るい。けど、まぶしくない。
(そっか、また寝ちゃったか)
 感触からして、リビングのソファの上。クッションを枕に、タオルケットをかぶっている。まだ眠い。
(ナルは・・・・・・)
 目を閉じたまま気配を探る。室内にその気配はない。どこ?
(あ、お風呂)
 かすかに音がする。あれは、髪を流している音だ。風呂で溺れて以降、何度か一緒に入ったから音だけでもわかる。
(起きなくっちゃ・・・・・・)
 けれど、切実に眠い。
 我ながら不思議なほど眠れる。眠っている間に子供が育つのだろうか。ろくに食べていないのに。食べても吐いてばかりで、体重は増えるどころか減る一方。それでも、ちゃんと育っているんだろうか。
(あたしと、ナルの子供・・・・・・)
 男の子か、女の子か。元気に生まれてくるだろうか。ナルやあたしの能力が受け継がれてきたりするんだろうか。わからない未来・・・・・・。それとも、ナルならわかるんだろうか?
 サイコメトリストに見えるもの。過去・現在・そして、未来・・・・・・。未来を見たという話は、ナルから聞いたことはない。けれど、それを尋ねるつもりはない。
(お風呂、あたしも入らなきゃ・・・・・・)
 1日中暑くて、汗をかいた。せめてシャワーを浴びたい。ナルが入っているうちに行った方が安心だ。溺れた前科があるだけに、自分にとっても、ナルにとっても。
 麻衣は、眠気を振り払い、なんとか起きあがった。
 薄暗い部屋。体に掛けられたタオルケット。
(う〜ん、お風呂・・・・・・)
 ナルは髪を洗ってから、またお風呂に浸かるはず。すぐに行けば、シャワーを浴び終えるまでつきあってくれるかもしれない。
 吐き気がないのを確認してから、麻衣はすばやく風呂のしたくを整えて浴室に向かった。ナルはまだ、洗い場にいた。
「ナル。一緒入っていい?」
 ガラス戸越しに声をかけると、ナルが内側から戸を滑らせる。
「入って大丈夫なのか?」
「シャワーだけ」
 ナルが湯船に入って洗い場をあけると、麻衣が服を脱いで浴室に入った。
「上がったら、ナルが買ってきてくれたシャーベット食べよっと。ナルはいらないの? 2つあるのに」
「いらない。食べたい時に食べれば?」
「うん」
 あとは、特に話をするでもない。ナルが、麻衣が洗髪したり体を洗ったりするのを見物していても、見られることに関しては麻衣もだいぶ慣れてきたので放っている。
(でも、な〜)
 ナルは湯船に浸かっているので、肩から上しか今は見えない。
 見られるのには慣れても、見るのにはなかなか慣れない・・・・・・。
(まあ、そのうち、慣れるんだろうな、それも)
 麻衣が先に出ようとすると、ナルも上がってきた。
(うっ、み、見える〜〜〜)
 ナルは全然気にしていない。不自然に顔をそむけるのも気が引けるし、麻衣は視線を向けないようにした。が、ナルが背中を向けた時、その背に目の焦点をあわせてしまった。
(肌もきれいだなあ・・・・・・)
 ついうっかりみとれてしまったところで、ナルが振り返った。見ていたのがモロバレだ。
「・・・・・・なんだ?」
「え・・・・・・いや、ええと・・・・・・」
「ん?」
「その、お肌、きれいね」
 開き直ってにっこり言ってやると、ナルはあきれた顔をする。と、急に顔を寄せてきた。
「ぎゃっ」
 唇にキスをしにきたと思って身構えたのに、いきなり裸の肩にキスされた。ふいうちだ。
「さっさと服を着ろ。体冷えるぞ」
「う〜〜」

 麻衣はむくれながらキッチンへ行き、シャーベットとスプーンを手にリビングのソファにおさまる。ナルはその後を追うようにして飲み物を2人分用意し、本を抱えて麻衣の隣りに落ち着いた。
 麻衣はいそいそとフタをとる。果汁入り果実入りのオレンジシャーベット。オレンジの香りと冷気が夏の風呂上がりの気分をさっぱりと盛り立ててくれた。
 麻衣はむくれていたことも忘れて、ナルが買ってきてくれたシャーベットに舌鼓を打つ。
「うーん、久しぶりにおいしい」
 近頃、食事をすることそのものを苦痛に思うことがあるだけに、味わえることが嬉しかった。
「全部は無理かも・・・・・・。ナル、手伝ってよ」
 部屋の冷房も効いているし、全部食べると体が冷えそうだったし、食べ過ぎてまた吐くことになってはつまらない。
 ひとさじすくってナルの口元に持って行くと、ナルは視線を膝の上の本に向けたまま、それを口に含んだ。
 麻衣は2口食べてはナルに1口食べさせる。ナルは一度も視線を上げず、麻衣は黙々とスプーンを運びながら、唇との距離を変えてみたりしてこっそり遊んでいた。
 が、ナルが食べ損ねたのは1回だけ。けれど、1回でも眉をひそめさせたことに満足して、麻衣の機嫌がすっかり直った頃、ちょうど器がカラになった。
「うん。ごちそうさま」
 麻衣は立ち上がるなり、ナルの頬にキスをした。麻衣はくすくす笑いながらキッチンへ器を片づけに行った。
 ふいうちを食らったナルは、その背を見送って苦笑する。
 この程度のおふざけなら、楽しい報復はせずにおいてやろう、と思う。
 にこにこと麻衣が隣りに戻ってくるのを待って、ナルはその唇に口づける。オレンジ風味の舌を味わって、ちょんと唇にキスをしてから離れた。
 そして、2人同時に言った。
「ごちそうさま」
と。

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