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ひなまつり(2002.2.28)

「わー、お雛様だあ」
 まず、目に入ったのがそれだった。
 七段飾りのお雛様。個人宅に飾られているのを見るのは、麻衣は初めてだった。
「すごーい、綾子、これ買ったの? 自分たちで?」
「買うわけないでしょ、自分でなんか。親よ親。しかも、あたしが子供の頃飾ってたやつを引っ張り出してきたのよ」
「すっごーい。やっぱり、お嬢様だったんだー」
 麻衣は正面に横に後ろにと雛壇の周りを見てまわり、雛人形たちをじっくりと見入る。細かい細工に、いちいち声を上げているが、返事をする者は誰もいなかった。が、それでめげる麻衣ではない。
「ナル、これが女の子のお祝いだよ。七段だったり五段だったり、お内裏様とお雛様だけだったりするけどね。うちなんかは、こんなちっさい、手のひらに載るくらいの陶器のお内裏様とお雛様を、赤い座布団に載せてテレビの上に置いてたんだ。家を出る時、処分しちゃったんだけどね」
 黙って麻衣の様子を見ていたナルは、説明を聞いても何も言わない。どうせ、こんな場所をとるものを、マンションに置けるわけがないだろうと、現実的なことを考えているのだろう。誰も欲しいと言う気はないのだが、と思いつつ、麻衣は三人官女の手元を眺めた。
「ほらほら、お茶用意できてんだから、うろうろしてないで座るっ! ほら、ナルも。輝ならオムツ交換済んだら来るわよ、真理子もね」
 真理子は、十月末に綾子が産んだ女の子だ。これがまたかわいい子で、忙しいはずの医師の父親も、隙あらば熱心に世話をしている。ナルも、もしかしたら子煩悩な父親っぷりを発揮してくれたりするのだろうか? と疑問符を飛ばしながら、麻衣はでかい腹を抱えてソファに落ち着いた。
「はー。あんたもずいぶん大きいお腹になってきたわねえ。予定日四月でしょ? まだ育つの?」
「ねー。階段とか、足元見えないんだよー。綾子見えてた?」
「見えなかったわよ。全然見た目わからない人もいるのにね。太りすぎじゃないの? 妊娠中毒症になるぞとか脅されてない?」
「ないよ。まあ、早めに入院ってことになりそうだけどね」
 ある騒ぎで、麻衣は一度入院していた。あやうく流産しかけたのだ。入院と自宅療養で、大学はもはや留年確定である。
「ねー、綾子、人形嫌いじゃなかったっけ?」
「好きじゃないわよ。この人形は中に空洞ないから、それほどでもないけどね。この部屋、夜明かり消すのは輝にやってもらうの」
「そうなんだ。雛祭りって三月三日でしょ? もう飾ってるの?」
「『雨水(うすい)』の日に飾ると良縁に恵まれるんですって。一昨日が雨水で、両親がいきなりこれ運んできて飾りつけてったのよ。もう、大騒ぎ。で、これがまた、雛祭りの翌日には片さなきゃいけないじゃない? きっと、また大騒ぎになるんだわ」
「じゃあ、また来年ももってきてくれるわけだ?」
「そう。こんなに場所とるもの、うちで保管できないもの。来年は麻衣たちもいらっしゃいよ、一緒にお祝いしましょ」
「うん!」
 麻衣の腹の子は、女の子だとわかっている。既に、麻衣と綾子との間では、成長して着られなくなった服やら赤ちゃん用品やらをまわしてもらう協約が結ばれている。
 子供の行事について女二人、賑やかに話していると、部屋の扉が開いて綾子の夫と娘が姿を現した。
「いらっしゃい、お二人さん」
「こんにちはー、わあい、真理子ちゃん、元気ー?」
 真理子は、知らない人たちの登場に、泣きそうになりながら父親にしがみついている。
「あらら〜?」
 つい先月にも会っているのだが、どうやら忘れられたらしい。麻衣は、挙げた両手を残念そうに降ろした。
「やめといたほうがいいわよ、麻衣。暴れてお腹蹴っちゃうかも知れないから。最近元気良くてねぇ。ナル、蹴られてみる?」
「ご辞退申し上げます」
「あーら、つまんないわねー」
 真理子は綾子の腕に落ち着き、女は女同士、男は男同士で話が進む。輝の人柄が良いおかげで、彼はナルとも自然と話ができるのだ。
「じゃあね。ナル、麻衣の様子に気をつけてあげててちょうだいね」
 帰る時に綾子にそう言って送られたが、ナルには言われるまでもないことだった。
『まだ、大学の友人たちは知らないの』
 そう言って嬉しそうに大学に向かった麻衣が、次に顔をあわせた時にはベッドの上で青い顔をしていた。
 どこにどんな罠があるかわからない。恥かしげに、友人たちにどうやって伝えようか楽しげに悩んでいた麻衣が、こんなことになるとは予想だにしていなかった。以来、麻衣が一人ででかけると、戻って来るまで安心できず、何かしら麻衣の持ち物を手元に置いていたりする。これは、麻衣の知らないことだった。
 だから、麻衣のちょっとした様子の変化に、ナルはすぐに気がついた。松崎夫妻を訪ねて十日ほどたった、三月初め。落ち着きが、ない。
「うーん。なんか、こう、もやもやっと。お腹も張ってる感じする。まだ、一月あるんだけど・・・・・・」
 途中経過に問題があったので、異常があれば即病院へ行くことになっていた。綾子の実家だ。連絡して連れて行くと、麻衣はそのまま入院することになった。
「お腹時々痛くなってきた〜。時間かかるし、ナル、仕事行っていいよ。何かあれば連絡してもらえるし」
 産前休暇をとらずに事務所に入り浸っていた麻衣は、ナルが今、本部から送られてきた書類と格闘していることを知っていた。実際、立会い出産でもなし、いてもすることがないのだ。ナルは、麻衣の言うとおり事務所へ赴き、リンらに早退や休みの可能性を伝えて所長室にこもった。
 夜、様子を見に行くと、麻衣はしんどそうにまだ個室にいた。
「まだ、陣痛足りないんだって〜」
 まだまだかかると言われ、ナルは一人帰宅する。綾子の実家の病院では、身内がつきそうようになっていないのだ。ありがたいようなありがたくないような、ナルは、複雑な気分だった。
 翌昼過ぎ、さすがに落ち着かなくなって仕事も手につかずそわそわしていたナルへ、病院から電話がかかってきた。
「分娩室に入りましたよ」
 入ってからも時間がかかると言われたが、ナルは事務所を出た。
 賑やかな渋谷の町を抜ける。駅に集う大勢の人たち。様々な音と声。普段、駅周辺では何も聞き取らないナルの耳に、耳慣れぬおば様方の声が入ってきた。
 見れば、前方で人ごみにまぎれながら、数人の実年の女性たちが篭を手に何かを配っている。
「お気をつけてどうぞ〜。お気をつけてどうぞ〜。はいどうぞ〜」
 小さな袋に、細長い何かが二つ。近づくと、それが紙でつくったしおり型の雛人形だとわかった。
「どうぞ〜」
 目の前に差し出されたそれを、ナルは受け取った。

 どうせ、すぐに行っても手持ち無沙汰だろうと、ナルはあえて一度部屋に戻ったりして時間をつぶし、夕方、病院へ行った。
 おかげで、さほど待たずに、無事出産の知らせを受けられた。
「女の子ですよ」
 更に待たされて、赤ん坊の姿をガラス越しに見ることを許された。小さな、満足そうな顔をした赤子だった。
「見てきた?」
「ああ」
 一日半で疲れ果て、身の細くなった麻衣が、ベッドの上でそれでも笑顔で尋ねてくる。
「元気そうだ」
「えへへ、良かった」
「これで、綾子のところと同級生になるのか?」
「うん、そう。女の子同士だしねー。楽しみ」
 女の子、という言葉でナルはふと思い出し、ポケットを探る。
「わあ、お雛様だっ! あ、今日お雛様なんだね、なんか痛がってる間に日にち変わっちゃってなんだかわかんなくなっちゃったんだけど、そうかー。どうしたの? これ」
「駅前で配ってた」
「へえ〜、珍しいね、ナルがそういうのもらうなんて。お雛様だったから?」
「ああ」
「嬉しいなあ、それは。あれ?」
 紙人形をひっくり返した麻衣が、いきなり笑い出した。よく見ていなかったナルは、裏など見ていない。確か、表にはそれぞれの人形に『健康祈願』と書いてあったのだが。
 笑いながら、麻衣がナルにそれを見せる。
『青少年健全育成会しおり会渋谷支部』
 ナルの耳に、おば様方の言葉が蘇る。
『お気をつけてどうぞ〜。お気をつけてどうぞ〜。はいどうぞ〜』
 意味を深読みして、ナルは複雑な表情を見せた。
「赤ちゃんの、健康祈願兼健全育成祈願のお雛様ね。ありがと、ナル」
 大笑いしたからには意味をわかっているはずの麻衣は、ナルに片手を伸ばす。意図を察して、ナルは身を寄せた。
「お疲れ様」
 そう、感謝をこめて、麻衣の額にキスをした。

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