何か、聞こえた。
間をおいて、呼びかけられる声。
気になる。気にすることで、自分が眠っていることに気づく。
「ナル」
呼び続けられる、自分の名前。ナルは、目を開けた。
一面の闇。瞬きしても変わらぬ黒。どこからともなく聞こえる声。
「ナル。ナルー?」
ここは、ジーンがいた場所。彼に閉じ込められたところ。聞こえる声は、麻衣。
「麻衣っ!?」
何故彼女の声が? と、とっさに上げた声。自分の声が聞こえて、驚いた。眠りに引きずり込まれた時、声を出すことも聞き取ることもできなかったのに。気づけば、自身の姿が見えずともあるように思える。手を動かして頬に触れれば、感触がある。
状況が変わった?
「ナル? もっかい呼んで!」
さきほどまでより大きな声で、麻衣が叫んでいる。場所はわからない。
「何をしてるんだ!?」
こんな場所へ。ジーンが閉じ込められていた、ナルとジーンの場所へ、何故彼女が?
「みーつけたっ!」
ふいに、麻衣が現れた。パジャマ姿で。
「ナルを探しに来たんだよ。なかなか戻って来ないから。場所は、ジーンに聞いたの」
「出られなくなったらどうする気だ?」
「ジーンが言ってたよ。ナルは一人じゃ出られないって。だから、助けてあげてって」
にっこりと言う麻衣に、ナルが不機嫌な顔をあらわにする。眠っている間に、何があったというのか。
「ジーンは?」
「・・・・・・ジーンは、寝るって言ってたよ。多分、近くで眠ってるよ」
麻衣があたりを伺う。ナルも気配を探るが、麻衣以外の気配は一切なかった。
「まだいたのか、あいつは」
ここ数年姿を見せなかったので、もう、向こう側に渡ったのだと思っていた。なのに、突然現れた彼は、ひどく・・・・・・自分を憎んでいた。
「うん。ナルは、気づいてたんだね」
怪訝そうに見れば、麻衣が哀しげな笑みを見せた。
「ナルが、ジーンがいれば、って思うから、ジーンが調査の時に意識を取り戻すって。あたしは、気づいてなかった」
「奴が言ってたのか?」
「うん。・・・・・・だから、自分が思い出さなければ、ジーンが早く成仏すると思ったんでしょ? だから、忘れたふりしてたんでしょ?」
ナルは答えず、暗い瞳を麻衣に向けた。周りと同じ、深い闇色の瞳。
「ジーンは、まだ、向こうに行けないみたいだけど」
麻衣が、ナルに手を差し伸べた。
「ナルは、戻ろう」
こんな、暗く寂しい場所にいないで。
ナルは、麻衣の手のひらをみつめ、言う。
「僕は好きでこんなとこにいるわけじゃない」
言って、おとなしく手を載せた。
「うん」
麻衣は、闇の中を見上げる。つられたように、ナルも見る。
「おやすみ、ジーン。またね」
言って、麻衣が目を閉じた。ナルは再度辺りを伺い、何もない気配に向けて、ぽつりと呟く。
「おやすみ」
と。あとは、意識が溶けた。
ナルが目を覚ますと、室内はうっすらと明るかった。カーテンの隙間から、外の光がもれてきているのだ。時計を見れば、昼近い。額に手をやると、濡れた髪が張り付いていた。
パジャマもシーツも汗に濡れていた。頭の下の氷枕の中身はぬるい水になっているようだった。
(夢じゃない・・・・・・ようだな)
顔をなでると、伸びていたはずの無精ひげがなくなっている。汗まみれのわりには、体も髪もさっぱりしている感じがする。ナルの意識がない間に、シャワーでも使ったのだろう。・・・・・・ジーンが。
ベッドの足元には、揃えられたスリッパが一組。ナルはそれに足を入れ、しゃがみこんでベッド下の引き出しからシーツを出した。濡れたシーツを引き剥がし、ついでにパジャマも脱ぐ。チェストから替えの下着とパジャマを出し、着替えた。
水を飲みにいくついでにと、洗濯物を持って部屋を出る。と、妙なものが廊下にあった。
リビングに置いてあったはずの、二人がけのソファだ。それに、毛布がかかって玄関を塞ぐようにして廊下にあった。
近づいて見ると、見慣れぬ男が眠っている。よく見れば、安原だった。眼鏡をしていない上に寝顔をあまり見たことがなかったので、すぐにはわからなかった。よく眠っているようだった。
構わず、ナルは洗面所経由で台所へ行く。炊飯器が活動中で、ご飯の匂いがしていた。対面キッチンの向こうを見ても、他に人の姿はない。どうやら、安原一人が残されているだけらしい。それにしても、玄関を塞いでいるということは、ジーンが相当のことをやらかしたのだろう。
物音がした。どうやら、冷蔵庫を開け閉めする音で安原が起きたらしい。すぐに、彼が姿を現した。
「おはようございます」
彼に似合わず、寝ぼけた調子だった。
「おはようございます。・・・・・・ご迷惑をおかけしたようで」
「いえ・・・・・・。所長、ですよね?」
ナルは、肩をすくめて見せた。
「麻衣が迎えに来ましたよ」
「あ、成功したんですね。さすが谷山さん」
「それで、僕が眠っていたのはどれくらいの間のことか教えていただけますか?」
「一晩しか経っていません」
準備してくれた朝食をとりながら安原にその間の話をしてもらって、ナルは額を押さえた。体調が悪くて、取り繕う気力もない。
「頭痛ですか?」
「ええ・・・・・・馬鹿な兄のおかげで」
ナルが体調を回復させるまでには、数日を要した。その間、リン・滝川・安原、そして世話焼きの綾子が真砂子を伴って見舞いに訪れた。
ようやく、仕事に出かけられるようになったナルは、久しぶりにエレベーターに乗り、ロビーに下りた。
「おはようございます」
フロントから、なじみの声がかかる。
「おはようございます」
彼にも迷惑をかけたと聞いた。ナルは、フロントに歩み寄る。事情は何も知らないようだから、自分がしたことにしなくてはならない。
「先日はご迷惑をおかけしました」
「とんでもない。お元気になられて何よりです。お仕事ですか?」
「はい」
「では、谷山様に会われますか?」
意外な名前に、ナルは目をみはる。何故かと問えば、相手はにこやかに台の下から小さな紙袋を取り出した。
「先日、私がお奨めの紅茶をおすそ分けする約束をしたのです。もし、今日会われるのなら、お渡し願えますか?」
紅茶の葉の缶が入った、かわいいクマ柄の袋。
麻衣は仕事に出てきていると、聞いている。今日は休みの日ではない。
ナルは、袋を受け取った。
「お預かりします」
夕方、講義を済まして麻衣が事務所に出てきた。ナルは、所長室にこもったままでいた。
少しして、ノック音。
「どうぞ」
麻衣が、ひょこんと姿をのぞかせる。
「谷山、勤務に入ります。・・・・・・ナル、元気になった?」
「見ての通りだ。・・・・・・麻衣」
呼ばれて、麻衣が肩をすくめて近づいてくる。警戒なのだろうか? ナルは眉をひそめ、それでも、ジーンがやらかした所業を聞いていたのでそれについては何も言わないことにする。
「預かりものだ」
デスクに置いてあった例のクマ柄の袋を示す。
「へ? 誰から?」
「鈴木さん」
「って、誰?」
「うちの管理人だ」
「あ、フロントのおじさーん!」
麻衣は袋を取り上げ、その重みと形状から嬉々として中身を探る。
「紅茶! 忘れないでくれたんだー。早速いただこうっと。ナルも飲む?」
「ああ」
麻衣は所長室を出て行き、十分ほどしてお盆を手に戻ってきた。
「はい。いい香りだよー」
何事もなかったかのように、以前どおりのふりを装って、麻衣は言う。それでも、そそくさと部屋を出て行こうとする。
「麻衣」
ナルの声に、麻衣が扉の隙間に滑り込んで、振り返った。
「ありがとう」
麻衣はきょとんとして、ナルがティーカップをとるのにその礼かと驚き、それから、了解したらしく、にっこりと笑った。
「おかわり欲しくなったら、向こうに来てね」
「ああ」