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ひとり 24

 朝食は、パンとサラダだった。
 ナルがパンを焼き、サラダを作り。
 麻衣が、紅茶を入れた。
 母国から届いたジャムと、八百屋さんのディップの話をナルがしてくれて。
 穏やかに朝を過ごした。
 九時過ぎに部屋を出て、ナルは仕事に、麻衣はアパートへ向かった。
 朝の出勤が一段落しているためか、ナルが出勤する時間に管理人がいる率は低いという。実際におらず、麻衣はひそかに胸をなでおろした。
(えーと、観察観察っと)
『ジーンの眼』を、麻衣が引き継いでしまったらしい。けれど、一時的なものである可能性もある。一時的にでも『ジーンの眼』を使えば、元々の能力でもある程度視やすくなるかも知れない、というのがナルの意見だった。
 これまで、ジーンの視え方といえば、白黒反転する癖がある、と聞いていた。実際、麻衣も幽体離脱した夢の中で建物などを白黒反転して透過して視ている。
(つまり、ジーンは二通りの見かたをしてたのかな)
 手足の先から少しずつ力を抜いて行って、幽体離脱して視る時は白黒反転。
 実際の目でみる時は、残された痕跡を水中のように視る。
(普通の視界にも、できたんだろうな。まあ、それでも霊は視えていた、と)
 すごすぎる。自分にそんなことができるようになってしまったかもしれないと考えると、おののくしかない。
 一応ナルもよく視ながら仕事場へ向かうというが、昨夜視えなかったのでもう無理だろうとも言っていた。
 麻衣が自室を出てから視界に違和感を感じてナルに報告の電話を入れた、という作り話を決めてある。そのうえで、一日様子を見た結果を、麻衣が講義の後バイトに行った時に報告し合うことになっている。
(しあう、なんだよねえ)
 前なら、一方的に麻衣が報告するだけだったと思う。しかし、新ナルだと『お互い』に、なのだ。仕事馬鹿なところは変わりないようだが、ちょっとずつ違っている。
(まあ、いいことばかりでもないみたいだけど)
ナルの口から出るとは想像もできないセリフがポロポロと出たり。いろいろ、本当に、心臓に悪いことが、ある。
 新ナルに慣れるまでは大変だ。
 さて、と。麻衣は、前を見据えて歩き出す。
 部屋に帰って着替えて学校へ行く準備をして。
 自分の身に起きたことを考えても、案外、生活が変わるものではないのだな、と思う。
 多少、その場所のダメージは感じる。
 しかし、考えてみれば、世の中の夫婦はいたって普通に日々を過ごしているのだ。
 特別の、初めて、の後だから。少し体のつらさを感じるけれど。
(あれ?)
 見慣れた景色が、少し、違う気がする。
 なんだか、視界にツヤが出たような、違和感。
(んん?)
 よく、見ようとした。
(んんんっ!?)
 すると、視界が切り替わった。
 ひどく、ひどく澄んだ水の中に沈んだ街。
 さまざまな流れが見える。
 麻衣は、ぴたりと立ち止まった。
 自分にまとわりつく水気を感じることはない。体感に異変はない。ただ、視界だけが劇的に変化した。
 澄んだ流れ。かと思うと滞っているところもあれば、滝壺のように見えるところもある。しかし、それらはすべて停まっている。まるで、写真のように。
 まばたきを繰り返すと、見えかたが変わる。深呼吸をしながら、目の力を抜くようにまばたきを繰り返す。
 何度目かのまばたきで、普通の視界に戻った。
(『ジーンの眼』だ)
 再び、目に力を入れる。よおうく、周りを見ようとしてみる。すぐに、視界は変化した。
 路上のわずかな細かく泡立った場所。ちらっと、全身の力を失っていく、血まみれの白猫が視えた。
 その先の塀の前で水の流れが濁っている。男女の争い、と脳裏に浮かぶ。
 仰ぎ見れば数軒先の家の上が薄墨色に染まっている。複数の悪感情が空気をも染めているのだ。
 麻衣は、歩き出した。水の流れは体に感じない。薄透明な絵画のなかを歩いているかのようだ。そのまま、先日の事件の現場を目指す。
 いったい、どう視えるのか。
 凝った場所やうっすらとさまざまに色づいた場所で様々なひらめきを感じながら、数分歩いてたどり着いた現場で、麻衣は再び立ち止まる。
 男の、あの男の、凝った色。空間に刷毛ではいたように、あちこちに痕跡があった。
 そして、それを浄化しようとするかのように絡む、濃い、藍。
 周りに、金色の光をまとっている。
 とても、澄んだ。
 深い、藍と、光のような、金。
(ナルだ)
 恐れおののく自分の気配も視える。濁ったレモン色。叩けば割れそうな緊張。被害者、と、頭に浮かぶ。
(これが、ジーンの眼)
 ナルとジーンの統合。ジーンを受け入れるために、ナルの一部が死ぬと言っていた。ナルは、統合の副作用で頭痛に見舞われていた。どれだけ死んで、ジーンを受け入れたのだろう。それでも、納まりきらなかった分が・・・・・・。
(あたしのとこに、来た?)
 ジーンと似たところがあると。能力の質もレベルは違うが似ていると。ナルよりも、近いところがあると言われていた。
 自分がダメージを受けているとは感じない。肉体的には、ナルとの交わりによるダメージは若干あるが、ジーンの能力を受け入れた副作用は感じない。
(と、とりあえず、夕方、報告、だな)
 それまでに消えてしまうかもしれないし。
 麻衣は、事件の痕跡をよけながら、自室のアパートを目指した。
 アパートで支度を終えても、まだ少し時間があった。
 麻衣は、幽体離脱を試みた。
 白黒反転する視界は、変わらず視ることができた。

 

 ナルは、いつもどおり事務所を目指した。
 駅まで歩き、電車に乗り、事務所まで歩く。
 いつもどおりなのに、いつもと違う。
 いつもと同じ景色なのに、やけに細かく視える。もともと、視界に入ったものは概ね覚えている。何度もじっくりと見る必要などない。一つ一つ存在する建築物やら何やら。動くものは配置を変える。それだけのこと。思考はほかに飛ばして、ただ視界に入れていただけのものだった。そもそもこれまでは『景色』などという感慨は全くなかった。
 それなのに、今日は様々な景色が、表情が視える。
(『ジーンの眼』か)
 麻衣が引き継いだような、特別なものではない。ごく当たり前に視界に入れることができる。けれど、視ていなかった、そんなさまざまなものが、よく視えた。
(生きている)
 そう、思う。
 更に、視界に入るすべてのものがナルの脳内に記録されようとしてくる。
 建物の階数、外壁の色に素材、高さに窓の数に推定される部屋数間取り、家族構成。
 人々の服装身長体重等各サイズ、髪を染めているか地毛か、全身と顔とのそれぞれの推定年齢との差異、顔面の整形の有無や化粧を落としたあとの顔はどんなものであるか。
 ありとあらゆる情報が数値化され記憶されていく。
(加減しないと)
 元々、ナルが半ば無意識にやっていたことだ。
 けれど、統合されてナルとジーン両方の反応が出現してしまうと、無意識でやっていたことを受け付ける側が処理しきれないらしい。
 ジーンが幽霊を見ても気にしないことがあるのと同じように、ナルも多くを数値化しつつも流し去っていた。
(これは、疲れる)
 やむなく、電車ではほとんど目をつぶっていた。渋谷駅で降りてからは、あえて視界を狭めるようにして事務所を目指す。リンがまだ来ていなかったので、鍵を開けて中に入ると、明かりも点けずにソファに腰を落とした。
(疲れた)
 脳の処理が追いつかない。
 慣れるまで大変だ。
(さて、リンにどう説明したものか)
 考えるのも面倒で、ナルは立ち上がると給湯室にお湯を沸かしに行く。
 お茶を入れて、さっさと所長室へ籠城することにした。

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