TOP小野不由美TOP

ラブラブ?(2000.4.18)

 ようやく強烈な太陽から逃れてナルが事務所の扉を開くと、ほどよくきいた冷房の中で、見慣れた人々 が呑気にお茶を飲んでいた。
「よう、お邪魔〜」
「こんにちは」
「すんません、お邪魔してます」
「はあい、邪魔してるわよ」
 欠けているのは安原ぐらいか。ここまでそろうのは久しぶりかもしれない。とはいえ、いらっしゃいませ などと言ってやる気はさらさらない。
「おかえりぃ、ナル。早かったね。暑かったでしょ? アイスティーできてるから、こっちで飲みなよ」
「・・・・・・ああ」
「はははー、いいねえ、新婚さんはぁ」
「なあに? もしかして妬いてんの? 行き遅れぼーず」
「ちゃうわい。なんだよその行き遅れってのはっ」
 いつもの展開で言い合いを始めた連中を放って、ナルは所長室に荷物を置きにいく。冷房を切っていた 部屋の空気は生ぬるい。いつもなら、麻衣が帰る時間に合わせてエアコンを入れておいてくれるのだが。
 予定より早く戻ったので、仕方ない。部屋が冷えるまで向こうで茶を飲んでいろということだろう。
 エアコンのスイッチを入れて、ナルは部屋の隅の洗面台に向かう。
 駅から歩いただけとはいえ、上からは焦げそうな直射日光、下からはじりじりと熱気が上がってくる という状態で、頭の中までゆだってしまった感じだ。
 手を洗うついでに顔も洗って、少しは気分もましになる。しかし、まだ仕事に戻れるほど頭が冷めていないし、 部屋も適温にはほど遠い。
 ナルは所長室を出て、言い合いが一段落したらしい一座に入った。
「ナル。くれぐれも麻衣にこんな不良妊婦見習わせるんじゃねえぞ」
「なあに言ってんのよ! あんたに妊婦にありがたい助言の数々ができるっての!」
「無理ですわね。私だって、滝川さんよりは松崎さんに相談しますわ」
「あら? 珍しく素直じゃない、真砂子」
「『よりは』ですわよ」
「かっわいくな〜い」
 マタニティドレスに包まれた大きなお腹を一なでしながら、綾子が肩で真砂子を突いた。
 ナルはアイスティーを飲みながら、ちらりとその腹に視線を向ける。
 まだ8ヶ月のはずなのに、間近で見ると、これ以上大きくなるとはにわかに信じがたいでかさだ。
 麻衣もいずれこうなるのかと思うと、溜息が出る。夏が苦手なナルとしては、この季節に臨月の妻と 暮らすことはあまり想像したくない。
「やっぱり、身近な先輩の意見は大切だと思いますです。こればかりは僕らはとてもお役に立てませんです から。ねえ、渋谷さん」
 ジョンがこういう形で人に話を振るのは珍しい。
 ナルは肩をすくめる。
「・・・・・・おかげさまで、つわりも乗り切れたようで」
 隣りで、麻衣がびっくりしてナルを見た。
「あら? 雪でも降るんじゃない?」
 麻衣に、頼れる親戚はいない。まだ22歳になったばかりで、他に妊婦の友人もない。ナルの側にして も、母親は遠い異国にいるのだ。ナルは本心のまま告げる。
「感謝してますよ。今後もよろしく」
 向かいで、ジョンがにっこりと微笑んだ。
 事務的には別として、ナルからすすんで感謝の言葉を述べるようなことは滅多にない。
 言うタイミングを計れないので考えていなかったけれど、感謝の思いは、確かに胸の内に あった。
 それを敏感に感じ取って、ジョンは話を振ってきたのだ。思いを言葉にさせるために。
『言葉にした方が、自分のこともわかるようになりますですよ』
 先々月、ジョンに言われたことを思い出す。
 確かに、綾子に感謝する気持ちがあったことさえ、この間(ま)を与えられなければ気づけなかったかも 知れない。
「あらあ。うふふん、まかせなさいっ。あたしのバックには実家の病院の産婦人科医師団もついてるから ね」
「わあい、よろしくね、綾子」
 麻衣はナルの腕にしがみつき、嬉しそうに笑った。
「麻衣。先輩を頼るのはいいが、悪いところは見習っちゃだめだぞ。こいつ、この暑いのにこの腹で電車 乗ってしかも隣りの駅で降りて歩いて来たんだぞ、ここまで!」
「体重増え過ぎって注意されちゃったんだからしょうがないでしょ! 運動不足なのよ、ちゃんと帽子かぶって 休み休み来たんだからねっ。ナル、大事大事して ないでちゃんと運動もさせないと駄目よ、体力落ちたら子供産むのも大変だからね」
「・・・・・・わかりました」
 ナルは、まちがっても猛暑の中運動不足解消に励まねばならないような状態にはさせるまいと、覚悟を 決める。
「ええと・・・・・・。けど、綾子、あんまり暑い時はやらない方が」
「同感ですわ」
「も少し、涼しい時間帯を選んだ方がええですよ、松崎さん」
「ほれ見ろ」
 むくれる綾子のグラスが空なのに気づいて、麻衣がおかわりを取りに立つ。
「ナルもおかわりいる?」
「いや、仕事に戻る」
 残りを飲んで、ナルは立ち上がる。ふと耳に違和感を感じて、左耳に手をやった。
「・・・っ」
 指で耳たぶをつまむようにして触れた途端に、痛みが走る。指に血がついてきた。
「どした? ナル」
「耳から血が出てますわよ」
 傷がついた原因を思い出し、ナルは苦笑する。見れば、麻衣が給湯室から顔をのぞかせて複雑な 表情を見せた。
 ナルはソファを離れながら、滝川らに軽く手を振る。
「大したことない」
「どしたんだ? いきなり。蚊にでも食われたか?」
「いや、ゆうべ麻衣に噛まれたんだ」
 一拍おいて、誰かが口に含んだ飲み物をふき出す音が聞こえた。しまった。
「麻衣、絆創膏」
 ナルは振り返らずに声を投げて、歩くペースを変えずに所長室に逃げ込んだ。
 それを追うようにして麻衣が逃げ込んでくる。とっさに、給湯室の近くにおいてあった救急箱をしっかり 持って。
「ナ〜〜ル〜〜」
 扉を閉じて、ナルの背中に麻衣が恨み深げな声を投げる。
(・・・・・・失言)
 やっぱり、口はつぐんでいた方がいい。

うらTOP小野不由美TOP