秋。国によってはハロウィンで盛り上がる夜に、それは起きた。
(またやってる)
今晩は少々蒸し暑い。だからといってクーラーを入れるほどではないし、と、麻衣は居間の窓を
開けて風を入れたのだが・・・・・・。
隣の夫婦喧嘩の声が、ぎゃんぎゃんと入り込んでくる。
このマンションは防音は非常に良いのだが、さすがに、お互い窓を開けていれば大声は聞こえる
し、共通の壁に思いっきり何かをぶつけられれば、響いてくる。
隣の喧嘩は、それはすさまじいものなのだ。
つい先日も窓を突き破った椅子が道路に落ちて、危うくけが人が出るところだった。しかも、2
メートルの差で事なきを得たのがナルだったりするから、怖い。
一度などは、廊下に出たところで、廊下に逃げた夫に妻が投げつけた皿が、目の前を飛んでいった
という。廊下といっても、階に2部屋しかないので、その空間は横長の四畳半程度。急だと対応が
間に合わない。
だいたい、大喧嘩の末に物の投げつけあいが始まり、夫が家から逃げ出すというのがパターンだ。
そろそろナルが帰って来る時間だったので、麻衣は、また巻き込まれないといいけど、と、夕食の支
度をしながら思った。
そして、マンションの前まで戻ってきたナルは、上を見上げた。
激しいそしり声と物のぶつかる音が、聞こえてくる。
(またか)
あの隣人さえおとなしくしていてくれれば、文句のない住居なのだが。
子供のこともあるし、引っ越すべきか、けれど部屋探しは面倒だし、と、ナルはため息を落として
エレベーターへ向かう。エレベーターから出る時、よくよく注意しなければいけないな、と思いつ
つ。
3階のランプが点滅し、扉が開いていく。バターンと、ドアの開く音が聞こえた。
「はい、氷」
「・・・・・・・・・・・・」
ナルは黙ったまま、麻衣に氷を乗せてもらった。
「災難だったね〜。ナル、タイミング悪いよね、なんか。お隣りに関してはさあ」
「うるさい」
麻衣は、肩をすくめてキッチンへと向かった。
右手首に湿布を貼り、更に氷で冷やしながら、ナルはテーブル上の本のページを繰る。その左手も、
中指、薬指、小指は湿布と包帯だ。
エレベーターが開くなり、逃げた夫を追ってきた隣家の妻が、思いっきり夫を突き飛ばしてくれ
た。まさか、開くと思わなかったらしい。
結果、ナルは突き飛ばされてきた夫の巨体もろとも床に押し倒されたあげく、右手の上に尻餅をつかれ、
更に慌てて飛び起きたその足に左手指を踏まれたのだ。
「ナル、スープあったまったから、ご飯だよ。本よけて」
お盆を抱えてくる麻衣の指示に従おうとして、ナルは無事な左指2本で分厚い本をよける。が、重くて
ほとんどひきずる格好になってしまった。
「大変だね〜」
麻衣がお盆を置いて本を取り上げると、ナルはふてくされたような表情を見せた。
一緒に暮らしはじめて3ヶ月。ナルが『初めての顔』を見せることが増えた。
麻衣は、つい笑ってしまう。ナルはますます不機嫌そうになるのだが、麻衣の笑みの意味がわかって
いるので、文句は言わない。
「左の指2本でスプーン使えるかなあ?」
麻衣に持たされたものの、指2本ではぶらさげるのがやっとだった。包帯の3本がまっすぐになっている
だけに、扱いにくい。
「駄目かあ。じゃあ、しょうがないよねえ」
麻衣は、ナルからスプーンを取り上げると、代わりにスープをすくう。
「はい、あーん」
にーっこり笑顔の麻衣と、口元に差し出されたスプーンと。
「・・・・・・・・・・・・」
今更、夕食はいらないと言ったら、麻衣が怒り出す。まして、今を避けても明朝も腫れが引いているとは
思えない。短い思案の末に、ナルは差し出されたスプーンに唇を寄せた。
当分の間、ナルが麻衣のおもちゃと化すことが決定した瞬間である。
「ナール。お風呂入ろう」
無事な左指2本で本を読んでいた彼に、2人分の着替えを抱えた麻衣が声をかけた。そうして、返事を
待たずにパタパタと浴室へ向かう。
エレベーターでひっくり返ったおかげで少々ほこりっぽい。とはいえ、1人で風呂に入るのは無理だ。
ナルはあきらめてため息を落とし、本を閉じた。
「じゃあまず、服ね、服」
浴室に続く洗面所へ行くと、先に薄着になっていた麻衣が早速にじりよって来た。
「・・・・・・楽しそうだな」
「そう?」
ナルのシャツのボタンを外しながら、麻衣がにーっこりと笑顔を見せた。いたずら心が見え隠れして
いる。
「ナル、せめてシャワー浴びたいでしょ? けど、1人じゃ無理だよね。ここは妻の出番よね?
ちゃんと綺麗にしたげるから、ちゃあんと協力してね?」
駄目押しの笑顔で、麻衣がどんどんナルを脱がしていく。
シャツを脱がし、上の下着を脱がし、両手の包帯を外す。ベルトを緩めてズボンを脱がし、
靴下を脱がせて下の下着も脱がす。それから麻衣は自分も全部脱ぎ、ナルを浴室に押し込んだ。
ナルは、すっかり諦めた様子でなされるままになっている。
「髪洗うよー。手はよけてて」
座って俯き、ナルは湿布を貼ったままの手を後ろにまわす。麻衣がシャワーの温度をみて、その髪を
手ぐしですいてあげながら濡らしてやる。
「ナルの髪って、触り心地いいよねー」
「・・・・・・・・・・・・」
シャンプー兼リンスを手のひらにとり、髪につけ、麻衣は指と手のひらを使って丁寧に洗う。耳に泡が
入り込まないように、顔に伝っていってしまわないように気をつかいつつ。
「かゆいとこある?」
「ない」
シャワーで泡を洗い流し、両手をあげさせて全身にお湯をかける。ナルは腕で濡れた髪を上げる。
さらされた額を伝い落ちるお湯を、麻衣が手早くタオルで拭き取った。ついでに、耳もふいてやる。
「先に髪ふいとく?」
「後でいい」
では、と、麻衣はボディスポンジを泡立てる。ナルの背後に回って、胸から腹、腕を洗って、背中。
前に回って、腿からふくらはぎへ、足の指の間まで、丁寧に。残るは・・・・・・
「ちゃあんと、洗ってくれるんだろう?」
躊躇した麻衣に、これまでの仕返しとばかりにナルが楽しげに言う。
そうして、ナルは途端にむくれた麻衣の反撃を食らった。
麻衣は、両手に泡をとると、正面からナルに身を寄せた。
泡まみれの肩に顎を載せて、両手のひらを唯一洗い残した場所へ運ぶ。
ナルが反応して顔を上げた。
指と手のひらで、そっと、かつしっかりとこする。洗う対象が形を変えかたさを変えするのは
無視して、その裏側まで手をのばし揉むようにして洗ってやると、ナルが喉を震わせた。麻衣は、
肩の上でくすりと笑う。
女にはない機能なので、とても不思議で、楽しい。
こうなった上でどう使われるのかということを考えると、苦笑してしまうのだが。
ナルが腕だけで麻衣を抱き寄せる。胸を触れ合わせて、麻衣は手指を動かした。
洗い残した場所すべてを素手でこすり洗い終えると、麻衣はあっさりとナルから身をはがす。
「じゃあ、流すからね」
「はあい、足上げて〜」
体を冷やしてはいけない妊婦の麻衣が先に服を着終えるまで、拭いただけで裸のまま待たされたナルは、
おとなしく足をあげてパンツを履かせてもらう。それからそのままリビングに連れて行かれ、湿布を替え、
そしてようやく、パジャマを着せてもらえた。
(疲れた・・・・・・)
ひどい目にあったところに色々サービスしていただいたところで、疲れが増しただけだ。とはいえ、今日
のところはプラスマイナスゼロと言ってもいいかもしれない。痛みと不自由ささえなければ、たまに経験
してみたいサービスかもしれない。
もっとも、中途半端はいただけない。
「はい、ナル」
口元に運ばれたグラスから水分を採り、ナルは喉をうるおす。グラスを持つのが1人なせいか、麻衣は
同じグラスから自分も飲む。今更、間接キスで騒ぐこともない。
時計を見ると、まだ9時半だった。
「この後は? 本読む?」
この手では、パソコンは使えない。
近頃、麻衣は早寝で10時には眠ってしまう。ナルは、グラスを
片付ける麻衣の後についてソファから立ち上がった。
「寝る」
明かりを消して麻衣がベッドに入るなり、ナルが肘と足を使って麻衣の上に覆い被さってきた。
軽く首筋にキスを落としてから、唇を合わせる。
そして、麻衣の唇をむさぼる。
唇だけでは物足りず、舌を忍び込ませる。気持ちの赴くままに愛し合うことで一緒に覚えたディープ
キス。互いの形や硬さの違いを舌で探り合う。生暖かい舌を吸い、濡れた唇を舐め、舌を絡ませあい、
互いの熱い吐息を浴びる。
麻衣の喉元を唇で探り、胸に手をのばそうとして、ナルは手首の痛みに声をもらした。
その痛みはなかなかひかず、ナルはしばし、麻衣の胸に顔をうずめて痛みに耐えねばならなかった。
静まっていく痛みから顔を上げ、麻衣の唇にキスをした時には、せっかく盛り上げた雰囲気は四散して
しまっていた。
「で、どうするの?」
キスのあと、ナルの両肘の間から、麻衣がとぼけた声で問い掛ける。
「・・・・・・・・・・・・協力する気はないのか?」
「安静にするのが一番だよ、ナル」
にーっこり笑顔でやんわりと肩を押されて、ナルは諦めて麻衣から離れ、ベッドに身を横たえた。
お風呂で中途半端に刺激され、それでいてボタン一つ外せない状態で、しかも刺激してくれた相手は
責任を取ってくれない。
ナルは、麻衣に背中を向けた。
ナルがふてくされていると、しばらくして、麻衣がぴたりと背中に身を寄せてきた。
「早く、良くなるといいね」
そう言って、ナルの耳元にキスを落とした。
「おやすみなさい」