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おはよう

 ・・・・・・・・・・・・今日、こそは、言う。

 谷山麻衣。
 今月22歳になるけれど、とりあえずはまだ21歳の某大学某学部某学科の4年生。
 就職は、あっさりとバイト先で正職員として採用してもらえることになったので、不景気の就職氷河期 の寒風とは無縁で済んだ。
 その分・・・・・・ということはあるまい。
 彼女には、別の人生の山場が待っていた。
 職場の上司、渋谷一也ことナルシストのナルちゃんへの、告白である。

 カチャン、と、小さく食器が鳴る。
 机の上に紅茶を置いても、うんでもなければすんでもない。
「・・・・・・さっきの依頼人さんが持ってきてくれたお煎餅、食べる?」
「いらない」
 ナルの目線は、リンがさきほど所長室に持ち込んだ数十枚の英文みっちりの紙束を泳いだままだ。 おそらく、一言返した半瞬後には、何を訊かれたかも思い出せなくなっているだろう。
 集中している。
 いつもならば、こうして立ち去りがたくしていれば、悪口雑言であれなんであれ話し出すきっかけを 与えてくれる。
 なのに、よりにもよって今日こそはと思い詰めたこの日、ナルはすでに麻衣の存在さえも 所長室から消去してしまっていた。もしかしたら、たった今世界が消えてナルと紙束だけになっても 気づかないかも知れない。
 麻衣は、ため息を吐きつつ所長室を退散する。デスクに戻ると、自分用につくった甘いホットミルク ティーを口に含んだ。
 暑さも厳しくなり始めた7月。冷房を細くしてあるので、ホットなど飲んでいると汗ばんでくる。けれど、 あったかくて甘いものが飲みたくなったのだ。
(やっぱ、安らぐ〜)
 ここ数日、今日こそは今日こそはと思い詰め続けていたものだから、 肩は凝るは寝付きは悪いは夢見は悪いは・・・・・・ついに、目の下にクマができてしまった。
 これじゃあいかんと、『絶っ対っ今日っ言う!!!!』と、気合いを入れて部屋を出てきたというのに ・・・・・・。
 軽く汗をかくと、何やら肩もほぐれてきた気がする。ほんわかと眠気もやってきた。ほどよく仕事も 手元にない。
(・・・・・・あ、いかん・・・・・・眠い・・・・・・)
 麻衣は机に突っ伏した。すぐに飛び起きて眠気を振り払うために。
 けれど、突っ伏したら腕の中にほどよく頭がおさまって、飛び起きたらもったいないような気がした。
 けど、そんなこと言ってたらそのまま寝ちゃうわ、だめだわ、起きなくちゃ・・・・・・今度は目覚まし に冷たいものでも・・・・・・と考えているうちに、麻衣は熟睡した。

「起きろ」
 そのたった一言で、麻衣はガバッと跳ね起きた。
 眠った自覚も飛び起きた自覚もないままに、麻衣は瞬きを繰り返す。
 デスクに寄りかかるようにして彼女を見下ろす・・・・・・ナル。
「バイトがいねむりしてどうする」
「正職員ならいいの?」
 いいわけがない。けれど、寝ぼけたままの麻衣への答えはない。所長室は客が入ってこないから いいんだなどと、言えるわけがないのだ。
 ナルはデスクを離れ、窓に寄りブラインドを下ろす。
「はれ? あれ? 夜? えっ、何時!?」
 背後を振り返れば、外はネオンに彩られた夜の姿に変じている。麻衣の視界を遮るように、ナルは とっとと次々とブラインドを下ろしていった。
「リンはもう帰った。僕も帰るが?」
 ようやく場所を思い出した時計を見れば、八時半。麻衣はイスを蹴った。
「あたしも帰る!」

 オフィスに鍵をかけ、二人並んで駅へと向かう。
 ナルと麻衣は、同じ街に住んでいる。
 電車も同じ、降りる駅も同じ。
 ただ、改札を出た後に向かう方角が違うだけ。
「一緒にご飯食べて行こうよ」
 そう声を掛ければ、かなりの確率で夕食を共にできる。
 が、そうするといくら文句を言ってもナルが精算してくれてしまうのだ。
 誘っておいて奢られてしまうのは、それが目当てのようでいやだった。
 だから、一緒に帰宅する数少ない機会にも、麻衣は滅多に誘わない。
 しかし、今日は違う。
 麻衣は電車の中で朝の宣言を思い出した。だから、改札を抜ける時、そう声を掛けた。
 ナルはあっさりとうなずき、二人は何度か一緒に行ったことのあるお総菜のおいしい 居酒屋へ足を向けた。

 居酒屋特有の気安い雰囲気の中に落ち着いて、麻衣はほっと息をついた。 緊張する。けれど、時間はある。
「はーい、おまたせ! 久しぶりだねー、お二人さん。元気にしてたかいっ?」
「はあい、元気ですー」
 注文した料理を運んできた威勢のいい看板おばちゃんは、「んん?」と、麻衣の顔をのぞき込んだ。
「どうしたの嬢ちゃん。元気ないんじゃないの?」
「ええ? そんなことないですよー。ちょっと寝不足なだけで」
「駄目だよー、ちゃんと寝て食べて元気出さなくちゃ! 若いうちが肝心なんだからね。 いずれ子供産んでお母さんになるんだから、今から体力つけとかないと大変だよっ!」
「はあーい。あ、おばちゃん、茶碗蒸し追加してー」
「はい、しっかり食べんだよーっ。あんた、彼氏もねっ。ちゃんと寝かしてあげるんだよ」
 おばちゃんはついでのようにナルの頭をはたいて去って行く。途中いろんな客に声を掛けながら。
 はじめこそは驚いたが、もう慣れた。
 もののついでにナルをはたき倒す人間など、他にいない。
 ナルは苦笑しながら髪を直し、箸をとる。何をしても憎めない人間というのはいるものだ。 重い緊張を勢いまかせに吹っ飛ばされて、麻衣もまた笑ってお椀を手にした。
 おばちゃんは、ナルと麻衣を同棲中のカップルだと思いこんでいるようだった。
 忙しく店を走り回り客に声を掛け笑いとばす彼女は、訂正する隙を与えてくれない。
 ナルも、彼氏扱いでとんでもないことを言われても、構わずにいる。ここでなら・・・・・・と、麻衣は 覚悟を決めた。

 適当につまみながら、ナルは冷酒を、麻衣は軽いカクテル飲んでいた。
 ナルが注文した皿に麻衣が手を出すこともあるし、その逆もある。
 熱い茶碗蒸しも食べきって、麻衣は満腹感に焦りだした。
 いくつもの皿は、ほとんど空になりかけている。
 ナルは皿が空く頃にお酒も飲み終える人だ。余韻を楽しむということもない。
(・・・・・・言わなきゃ、もう)
 今日こそは、言うんだ。
 今日こそは、告白するんだ。
 ナルが箸を置き、冷酒のグラスを手にする。一口で飲み干せるほどしか、残っていないグラスを。
「ナル、あのねっ!」
 麻衣はその先を何も考えずに口走る。
 ナルはグラスを手にしたまま麻衣へと顔を向けた。
「あ、あのね・・・・・・」
 テーブルの端をつかんで、麻衣は一息に言おうとした。
 ん? と先を促すナルの目に、麻衣は混乱する。こんなことを言ったら、彼はどう反応するんだろう?
 困らせるだけだろうか。困りもせずに「それで?」とか言われたら?
 視線を合わせていられなくなって、麻衣はうつむいた。
 もう、何も言わずに彼のそばにいることなど考えられない。いっそ、言わずに姿を消してしまうのも いいかも知れない。多少の貯えはある。何も言わず、消えてしまえば、彼は・・・・・・。
「なんだ?」
 麻衣が何を言おうとしているのかまるでわかっていない様子で、ナルがせかす。
「え、と・・・・・・」
 言わずに、何もなかったことにしては、禍根が残るだけだ。
 今日こそは、言うと決めた。
 今日こそは、告白すると。
 麻衣は、意を決して顔を上げ、言った。
「あたし、子供できた」
と。

 ナルは、グラスを持ったまま固まってしまった。
 麻衣も、睨むようにナルを見たまま動かない。わずかな反応さえも見逃してなるものか。
 睨みあうこと、約2分。ふっと、ナルがため息を落とした。
「来てもらうか・・・・・・」
「・・・・・・は?」
 いったいなんの話だ?
「マーティンと、ルエラだ。飛行機は乗らない方がいいんだろう?」
「・・・・・・そう、ね。多分」
「連れていけないなら、来てもらうしかないだろう?」
(ええと・・・・・・)
 話の展開についていけず、麻衣は眉をひそめた。
「病院は?」
「行った」
「今、どれくらい? 予定日は?」
「2ヶ月。出産予定が4月3日」
 とりあえず、訊かれたことに答える。
「いつ、病院に行ったんだ?」
「・・・・・・先週」
 今日は、木曜日。
「先週の、いつだ?」
 ナルの目の色が深くなる。雲行きが怪しくなってきた。
「・・・・・・火曜日」
「なんで、1週間以上も黙ってたんだ?」
「・・・・・・なんとなく」
 ようやく、麻衣は理解した。
 ナルは、責任をとる気でいるのだ。
 ならば、あらぬ不安を抱いていたことなど、言わない方がいい。
 ナルは、ため息を落とした。言わずとも察したらしい。
「馬鹿」

 ナルはようやく、体温で温まってしまった冷酒を飲み干した。
 麻衣は、事態の進展について行けずに呆然とそれを見ていた。
(・・・・・・つまり、結婚、するの?)
 たった1度だけ。
 確かに、避妊しなかったのだからお互い責任がある。
「・・・・・・ナル、いいの?」
 恐る恐る訊くと、ナルはまたため息を落とした。
「仕方ないだろう」
(・・・・・・・・・・・・仕方ない?)
 できてしまったものは、責任をとらなくてはいけない。
 ただ、それだけのこと?
 あの時、ナルが恋愛感情から麻衣を抱き寄せたわけではないことを、麻衣は知っている。
 愛されて、愛しているから、結婚する・・・・・わけじゃない・・・・・・てこと?

 麻衣は、勢いよく席を立った。

 バチーンッ! と、狭い居酒屋を一瞬で静まり返らせる音が響いた。
 何が起きたかわからないうちに、ナルはイスから転げ落ちた。
「ふっざけんじゃ、な〜〜〜〜〜〜〜いっっ!!!」
 張り倒されたとわかったのは、床から見上げた麻衣が仁王立ちして指をつきつけるのを見てから だった。
「そんな、仕方ないで結婚しようなんて男・・・・・・、そんな父親じゃ子供が可哀想だよ!  誰がそんなヤツと結婚するもんか! 馬鹿っ!!」
 叩きつけるように言い捨て、麻衣は店を飛び出して行った。
 後には、呆然とする店主と看板おばちゃん、その他大勢の従業員と客。そして、ナルが残された。
「兄ちゃん、いったい何言ったんだい?」
 呆れたようにまず口を開いたのは、看板おばちゃんだった。
 説明のしようがない。引き起こされて立ったものの、ナルにもわけがわからない。
「子供ができたのかい?」
 そう。それは確かだ。
「はい」
 おばちゃんに話しかけられて答えるのは初めてだったが、そんなことに気を回す余裕はなかった。
「それで、結婚するって?」
 そう。それも確かだ。
「はい」
 麻衣は、いったい何を突然怒りだしたのだろう・・・・・・?
「『仕方ない』ってのは?」
 仕方ないだろう、と、言った。自分は。
「できちまったから、仕方ないから、結婚するってのかい?」
 険のある目でおばちゃんがナルを睨み上げる。
(そうか)
 やっとわかった。
「・・・・・・誤解だ」
 そういう意味ではない。
 ナルははじかれたように出口に向かいかけ、慌ててとどまる。
「精算・・・・・・っ」
 おばちゃんがナルを突き飛ばした。
「いいからとっとと追っかけな! 女房は人生の財産だよ! はした金気にしてないで とっととお行き!」
 更に一押しされて、ナルは戸を開く。
「すみません」
「しっかりしなよっ! 兄ちゃんっ!!」
 ナルは笑って、店を飛び出した。大勢の客たちの応援する声が、その背を強く押し出した。

 麻衣は、店を飛び出すと自分の部屋に直行で戻った。
 高校を卒業すると同時に越してきた、アパートの1Kの部屋。
 頭にきすぎて、涙が出る。
 麻衣はさっさと寝間着に着替えて、歯を磨いて顔を洗う。お風呂も朝御飯の準備も何も省略だ。寝る!
 布団にもぐって、思う存分、泣いてやる。
(赤ちゃん、ごめんね)
 胎教に悪いかもしれない。けど、一晩だけだから。明日になったら、強いお母さんになるから。
 泣いてなんか、いられない。もう、明日からは。
 だから、一晩だけ。
 布団に片足を突っ込んだところで、チャイムが鳴った。
 麻衣はびくりと身を震わせた。
 せかすように、もう一度チャイムが鳴る。
(ナル・・・・・・?)
 固まっていると、更にもう一度。それでも無視していると、今度はノック。
 安普請で、防音はあまりよくない。静かにノックしているが、チャイムだって隣りに聞こえる。 このままいては、近所迷惑だ。
 麻衣は、深呼吸する。
 勇気をためる。
 子供のためにも。
 チャイムの音に、今度は動いた。

 やはり、チャイムの主はナルだった。
 とりあえず、部屋に上げる。
 台所は、本当に調理するスペースしかないので、やむなく奥の六畳間に通した。
 小さいテーブルとテレビ台を兼ねた横倒しにした三段ボックスとクローゼット、そこに更に 布団を敷いてしまったので、足の踏み場はほとんどない。
「何?」
 立ったまま、麻衣は小声で話かける。腰に手をあてて、怒っているぞと示しつつ、だ。
 ナルは、そんな麻衣を静かに見下ろし、そして、苦笑いを浮かべてみせた。
(は?)
 麻衣は、その表情の意味をつかめなかった。
「仕方ないから、責任取って結婚する・・・・・・と、とって怒ったんだな?」
 ウッ・・・・・・と、麻衣は引いてしまった。怒ってるぞ! 主張が早くも崩れてしまった。
「他にとりようがないじゃないっ」
 わめいて、麻衣は慌てて壁を見る。こんな大声じゃ筒抜けだ。
「誤解だ。僕は早いと思っただけだ」
 息を吐きながらそう口にして、ナルはすとんと布団に腰を下ろしてしまう。
 そうして、麻衣を見上げて更に言う。
「『夫婦』の前で・・・・・・彼氏だとか恋人だとか、言い方はどうでもいいけれど、 もう少しその手前の状態でいたかっただけだ。けど、仕方ないなと、そう言ったんだ」
「・・・・・・・・・・・・はあ?」

 彼氏?
 恋人?

「・・・・・・だって、あたしたち、別につきあってなかったじゃんか」
「『長年のつきあい』だろう?」
「だって、デートもしてないし、好きとも言われた覚えないし・・・・・・」
「毎日会ってるのに、なんでわざわざデートする必要があるんだ?」
「だって、つきあうって、・・・・・・ええと・・・・・・」
「・・・・・・確かに、言った覚えはないな」
 ナルが、困った顔をして笑った。
 滅多に見られない、柔らかい表情。
 麻衣は呆けてしまった。
 いったい、自分は何を怒っていたんだったか・・・・・・。
 もう、どうでもいいような気がした。
 麻衣は、その場に座り込んだ。へたり込んだという方が正しいだろう。 くたくたと、力が抜けてしまった。
 ナルが、麻衣の前に来た。
「麻衣、結婚しよう」
(・・・・・・夢みたいだ)
 ナルが、こんなこと言うはずないのに。
(夢か。夢なら、なんでもアリよね)
 呆けすぎて、夢と現実の区別もつかない。
「好きって言ってくれないの?」
 やけに、自分の声がはっきり聞こえるなと思う。麻衣は、すぐ目の前でナルがくすりと笑うのを見た。 やっぱり夢だと思う。
 顔に手が触れた感触がやけにリアルだなと思う。
 ナルの顔をじーっと見ていると、だんだん、近づいて、近づいて、近づいて、きて・・・・・・。
 開いていた目が、ゆっくりと、近づくほどに、閉じられていって・・・・・・。
 唇に、ナルの唇が触れて、重ねられて、くっついて・・・・・・軽く、下唇を噛まれた。
 麻衣は、びっくりして目を見開いた。長いまつげが焦点があわないほど間近にある。
(げ、現実だああああ〜〜〜〜っっっ!!!)
「むぐっ」
 驚いて思わず身を引こうとしたら、引き戻された。
 両手で頭をつかまれての、執拗なほどのキス。
 キスが、こんなに激しいものだとは知らなかった。
 自分がナルの背中に腕をまわしたことにも、いつのまにか頭は片手でもう一方の手でぴたりと 抱き寄せられていたことにも、気づかなかった。
 長いキスに区切りをつけて、ナルがぽつりと言った。

「Love You 」

 軽く押されて、麻衣は布団の上に転がった。
 見ている前で、ナルが薄い上着を脱ぎ捨てる。
「あの、ね」
「ん?」
 聞き返しながら、ナルが麻衣の頭の脇に手を置いた。
「壁、薄いんだけど・・・・・・」
 ナルはシニカルに笑う。よく見る笑い方だ。そして、言った。
「麻衣が黙っていれば、問題ない」
と。

 家具に囲まれた狭い六畳間の1人用布団で、2人は朝を迎えた。
 麻衣が目を覚ました時、ナルはもう目を開けていた。
「おはよう」
 そう、ナルが言った。


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