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ある朝(2000.2.1)

 最初、それが何かわからなかった。
 胸元に触れる温かい何か。その温かさが心地よくて、それがなんであるかを考えようという気 が起きない。
 ぐるるるるるるるる・・・・・・、と小さな生き物が喉を鳴らすのが聞こえたけれど、特に警戒 を要するものとも思われなかったので放っておいた。
 温かいそれが身動きして、それが毛皮にくるまれたものであることが伝わり、そうして、初めて 「それ」がなんだろうかという思考にたどりつく。
 何かが胸元にくっついている。
 毛皮にくるまれた生き物。
サイズ的には大きくない。
(・・・・・・猫)
 そんな結論に達したが、目を開けて確認しようという気がしない。
 何故その程度のことを面倒に思うのだろうかと、動くのはおっくうでも、頭は勝手に活動を開始した。
 体がけだるい。
 四肢がむくんでいるような感じがする。
 瞼も腫れているような気がする。
 口の中が乾いていて、少しすっぱい味がする。
 毛皮が微妙な振動を伝えながらぐるぐると呻き続けている。うるさいくらいだ。
 それでも動きたくない。
 次に気づいたのは、その毛皮の感触だ。
 どう考えても、それは素肌に触れている。
 パジャマの前を留め忘れた覚えはない。
 そう思って、パジャマを着ている感触がないのに気が付いた。
(・・・・・・・・・・・・)
 さすがに、ナルは目を開けた。
 瞼が重い。真っ先に目に飛び込んできたのは、猫の小さな頭。これは予想通りだ。
 視線を上げると、色の薄い髪が枕に散っているのが見えた。
 肩先ほどの長い髪。人の後頭部、だ。
(・・・・・・・・・・・・げ)
 ナルは天井に目を向け、視線を巡らし自分の部屋であることを確認する。
 同じベッドに寝ている相手に気づかれないように、そっと腕を動かした。
 思ったとおり、パジャマを身にまとっていない。それどころか、下着さえ身につけていない。
 ベッドは壁際。ナルの背中側は壁。後頭部を見せる人物を乗り越えねば、ベッドを抜け出すこ とはできない。
 何がどうしてこの現状があるのか知らないが、相手が目を覚ます前にとっとと逃げ出すべき だと思う。
 しかし、このだるい状態で、この格好で、気づかれることなく抜け出す自信はない。
 相手が深く眠っていることを期待するには、室内が明る過ぎる。既に日は高いのだ。
 第一、自分の部屋から逃げる意味があるとは思えない。
 やむなく、じっと猫の気持ち良さそうな喉を鳴らす音を聞きながら、こうなるに至った過程 を思い出す努力をすることにした。
(・・・・・・夕べ、昨日は、麻衣の誕生日)
 そう、昨日は麻衣の20歳の誕生日で、滝川ら霊能者もまじえての誕生パーティ、もとい、 誕生日にこじつけての宴会があったのだ。
 部下の記念すべき日の祝いを、つきあいの長さからしても断るわけにはいかない。そう思 って、出席した。
 そこまで思い出して、ナルは、自分のこの体調の悪さが二日酔いによるものだと気づく。
 ということは、そんなにも飲んだのだろうか?
 改めて、横で眠る人物を見やる。茶色がかった長めの髪。
(麻衣は黒髪)
 それを良しとすべきかどうなのか・・・・・・。
 ナルは、苦いため息を落とした。
 その息を浴びた猫が身動きする。真っ白い猫。そういえば、どこから猫が出てきたんだろうかと、 ナルは新たな疑問に記憶を探る。
 が、記憶のどこにも白い猫など出てこない。そうこうするうちに猫が起きあがり、ムーーーーっと 気合いの入った伸びをする。
 猫はちょこんと裸で横たわる2人の間に座り、きょとんとナルと視線を合わす。
 子猫というほど小さくはないが、大人でもないようだった。
 長いしっぽを体に絡ませ、猫はきょろきょろと首を巡らしている。
 そうして、いきなり身をひるがえすやいなや、横の人物の体を乗り越えてベッドを降り、姿を隠す。
 ナルが肘をついて身を起こし見守っているのも知らず、茶髪の頭が持ち上がった。
「ん〜〜〜〜。・・・・・・・・・・・・あれ?」
 猫を視線で追いつつ起きあがった人物の背中。
 衣類に邪魔されることなくさらされたその背に刻まれた、裂傷と縫い跡。
 見慣れた顔が振り返る。
「おんや、ナルちゃんオハヨ。元気かい?」
 少し寝ぼけた様子で笑顔を見せる滝川に、ナルはただ、眉をひそめて見せた。
 裸で男と朝を迎えて、どう反応しろというのだろう。
「・・・・・・お世話に、なりましたか?」
「もおう、存っ分っにっ!」
 滝川は、にんまりと楽しげに笑い、言った。

「しょうがねえだろ、おまえ、吐くは転ぶはぶつかるはで、ジョンと2人がかりでようやくここまで 連れ帰ったんだぜ?
 リンは一次会でとっとと消えちまったし、部屋にいないし。
 水たまりにコケたから服は脱がしたけど、着せてやるのは大変だから省略した」
 水分補給に勤しみながら、ナルは憮然と滝川の説明を聞く。
「俺は一度駅までこいつを、梅吉って言うんだが、こいつを迎えに行って、帰ろうとしたらジョンと少年 がてこづってたからさ、少年は家遠いからすぐ帰して。ジョンもここ着いてから帰して。
 俺は帰るの面倒になっちまったし、おまえが泥酔すんの初めてだから心配なのもあったからよ、泊めてもらうことにした わけだ」
 猫にミルクをつぎ足してやりながら、滝川は話し続ける。
「ソファは1人掛けだし、布団は見あたらないし、床に寝る気はしなかったし。
 ベッド、セミダブルだろ?
 勝手に服借りるのもなんだから、服脱いで、隣りで寝させてもらったわけだ。
 急に具合悪くなってもわかるしな。まあ、熟睡しちまったが。
 そんなわけだよ、了解?」
「・・・・・・・・・・・・わかりました。お世話になりました」
 視線を合わせず、言葉だけの礼を言う。
 本心から言える心境ではないのだ、まだ。
「ま、こういうこともあるわな。
 だけどよ、たいして飲んでなかったろ? 悪酔いしたんかね」
 滝川は、ナルの気のない言葉の複雑な心持ちを重々承知しているらしく、気を悪くする様子は見せな い。
 それどころか、猫をかまってばかりでろくにナルを見もしない。
 ナルとしては、その方がありがたい。
 だからこそ、そういう態度をとっているのだろうとは、いくら二日酔いの頭でもわかる。
「・・・・・・猫、馴れてるんですね」
 話題を変えるためにそう口にしてから、あらためて少し変わった猫だなと思う。
 よその家でこんなに落ち着いている猫を見るのは、初めてだ。
 子猫は、ぴくんとミルクの皿から顔を上げ、ナルを見上げた。
 そして、小首をかしげる。
 ナルはその動きにつと目を細め、滝川に目線を移す。
 視線が合った。
「もう、何年になるかな。寺を、家を出る時にいっしょに出て来たから、5歳くらいになるな」
 猫が不満げに声を上げる。
「あ、6歳か。悪い悪い」滝川が謝ると、猫が膝に跳びのった。
 どう見ても、猫の体のサイズは大人ではない。
 子猫というほどではないだろうが、1年未満の体躯だ。
 しかし、ナルは特に追及しないことにして、椅子を立った。
「ホットコーヒーなら、すぐできるけど?」

 ナルのつくったアイスコーヒーを2杯もおかわりすると、滝川は「また飲みに行こうな」といい置いて 梅吉と帰って行った。
(・・・・・・たいして飲んでなかったのに)
 体調が悪かったわけでもない。
『悪酔いした』というのが正解なのだろう。
 しかし、何故?
 思い浮かぶのは、大人の姿に変貌させられた麻衣の姿だった。
(どういうことだろう)
 考えるまでもない気もするが、こんな体調の時に何を考えてもあてにはならない。
(さて、どうしてくれよう)
 こんな醜態をさらさせてくれたのだ。
 それ相応の返礼は、して差し上げよう。
 ナルは、二日酔いの頭で思った。

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