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ぼーりんぐコミュニケーションその3(2000.7.1)

 SPRの日本支部が設立された当初のことを滝川に訊ねられ、リンは小首を傾げる。
「事務仕事が忙しかっただけで、お話しできるようなことは何も・・・・・・」
 そう言いながら、リンは1つの事件を思い出し、口ごもる。
 それを察した滝川が、にまにまとリンが話し始めるのを待つ構えを見せる。
 それを見て、リンにいたずら心が芽生えた。

「髭くらい剃ったらどうだ?」
 朝、顔を合わすなりナルに言われて、リンは自分の顔をなでる。
 言われてみれば、3日ほど髭を剃っていなかった。
 渋谷に事務所をおいて半月。様々な方面への連絡調整諸々で、リンは多忙な毎日を送っていた。それこそ、 寝る間もろくにない。
 事務所を置くための事務手続きは、まどかがそれぞれの専門家に手配していってくれていたが、まかせっきりという わけにもいかない。
 そうした問い合わせ等に応じる役は、ナルよりもリンの方が確かで、また、彼らもナルを相手に しようとは始めから考えていないらしく、リンを名指しで連絡をとってくる。
 そして、ナルはこれ幸いとリンに電話も来客もまわしてくるのだ。
 日本の社会において、未成年者であるナルは仕事の相手として扱われない。事務上は、まず無理だ。
 おまけに、ナルは日本語は話せるが、ほとんど読めないし、書けない。
 事務仕事がリンに回ってくるのはやむをえないにしても、忙しすぎる。
 忙しいからといって、本来の仕事を放っておくことができず、結局、リンは身の回りのことを後回しにしてしまっていた。

 リンは自分の部屋に戻ると、出かけるまでにやる予定だった書類作成をあきらめ、洗面所に向かった。
 出国前も忙しかったおかげで、切り損ねた髪も伸びている。
 更に髭が伸び、おまけに目まで赤くなってしまっている。
 これは、かなり怪しい人物に見えるなと、リンは苦笑いを浮かべた。
 シェービングクリームとカミソリで、伸びた髭を剃り落とす。顔を洗って剃り残しがないことを確認する。
 これで、かなりマシになった。
 目が赤いのは仕方がないにしても、髪くらいは・・・・・・。しかし、これは自力で切るのは無理で、床屋の営業時間内に 行く暇もない。
 あきらめて息を吐いたところに、呼び鈴が鳴った。
 扉を開けると、ナルが立っていた。
「どうしました?」
 訊ねながら身を引くと、ナルが部屋に入って来た。
 多少の用件ならば、内線電話で済むはずなのだが。
 ナルは、答えるでもなくリンを見上げる。成長途上の彼は、それでもまだリンより20センチ近く低い。
「剃ったな。この方がいい」
「・・・・・・」
 そっと顎を手で触れられて、リンは何事かと目を丸くする。ナルは、人に触わるのも触わられるのも嫌う性質のはずなのだ。
 なのに、その手を下ろすと、リンが出勤準備にしめたネクタイをつかみ、言ったのだ。
「ついでだ。脱げ」
と。

 そして、上半身を脱がされたリンはナルに背を押され、2人きりで浴室に閉じこもることになったのだった。

「まるで行動が読めませんでしたね、あの時は」
 リンの昔語りに、滝川は酒のグラスを手に、笑顔のまま全身を固めている。
「どうしました? 滝川さん」
 いつもの無表情のまま、リンはグラスに口をつけた。声には楽しげな響きが混じっている。
「・・・・・・で、何? 風呂場で、何してたの、キミタチ」
「そうですねえ、かれこれ1時間近く」
「・・・・・・1時間」
「ナルが積極的に触ってきて」
「さ、さ、触って・・・・・・?」
「私はもう、緊張しっぱなしでしたよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「まあ、結果は、お互い満足でしたけれど」
 そっぽ向いてとぼけた調子で話すリンに、滝川は恐ろしい想像以外思い浮かべることができず、降参した。
「・・・・・・リンっ! いい加減に白状してくれっ! 何やってたんだ!? やばいこったねえだろうっ?」
 滝川がテーブルを叩いて必死に迫るのに、リンはあくまでとぼけて見せる。
「『やばい』と言われても困りますね。私は満足でしたし、またいつでもお願いしたいくらいです」
「リン〜〜〜〜〜〜」
 テーブルに突っ伏した滝川に、リンはようやく意地悪い笑みをみせた。
「滝川さんもやってもらっては? その気になればやってくれますよ」
 結局、リンは滝川を見捨てて帰路についた。

「ああ、髪を切ったんだ」
 絶対にこの2人が怪しい関係ではないと確信していた滝川は、翌日、渋谷の事務所に行ってナルからその答えを聞き、 ようやく、泣きそうな面持ちで安堵の息を吐いた。
 後日、リンは滝川に良い酒を奢らされた。

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