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CUT(2000.5.24)

 毎度おなじみ、渋谷のSPR事務所。
 滝川とジョン、そしてナルの3人で専門的な話に花を咲かせているところに、麻衣が大学の講義を終えて 出勤してきた。
「こんにちはー。あ、いらっしゃーい」
「よーう。おかえり」
「お邪魔してます」
 室内が一気に華やかな空気に変わる。真剣に議論していたはずの滝川とジョンも、表情を崩して麻衣を 迎える。ナルだけは、何も言わずにお茶を飲んでいた。
「あ、お茶、おかわり入れるねー」
 荷物を置くと、麻衣はいそいそと給湯室に向かう。麻衣らアルバイトがいない時に客にお茶を出すのは 通常はリンなの だが、入り浸る彼らを、リンはすでに気を遣うべき客と認知していない。
 そして、彼らを放っておくわけにも行かないので、よほど忙しくない限りはナルが出てきて応対する。 接客自体は、リンよりナルの担当となるのだ。リンがお茶入れに出てきてくれない以上は、お茶ももちろん ナルが入れる。しかし、その場合はアイスコーヒーと主張したところで、全員紅茶にされるのだが。
(作り置きしてあるんだから、入れてあげればいいのに)
 そう思いながら、麻衣は滝川にはアイスコーヒーを、ジョンにはコーヒーを、ナルとリンには紅茶を 用意する。迷った末に、自分の分もジョンと同じコーヒーにした。
 3人にそれぞれ飲み物を出して、リンのところに紅茶を置きにいってから、麻衣が自分の分を 持ってソファに座ろうとしたとき、ふと、それが目についた。
「ぼーさん、枝毛たくさんあるよ?」
「何!?」
 ぽろっと言った一言に、滝川はばっと頭を抱える。過剰な反応に、麻衣の方が驚いてしまった。
「あちゃー。こないだ、美容師の友人にシャンプーもらったんで替えただよ。なんか合わないような 気がしてたんだ。そんなにたくさんあるか?」
「うん。いっぱい。毛先ほとんど色違うよね?」
「はいです。染めはったんかと思ってました」
「が〜ん。そんなにかああ〜〜」
 嘆く滝川に、ナルはあきれた様子で冷めた視線を送っている。
「傷みやすいんだよ、俺の髪って。ダメージヘア用っていうから安心して使ってたのに」
「うーん。やめた方がいいと思うよ、それ。茶髪どころか金髪になっちゃいそう」
「同感です」
「いっそ、ボーズにすればいいじゃないですか」
「やめれ〜、ナルちゃん! 地肌もデリケートだから、坊主時代はいつも傷だらけだったんだぞ。 おまえも坊主体験してみろよ、気持ちがわかるぞ」
「ごめんです」
 丸坊主のナル・・・・・・。そういえば、丸坊主のぼーさんというのも想像したことがなかったなと、 麻衣は2人並べて空想してみた。・・・・・・ある意味、怖かった。
「ぼーさん、あたし切ってあげようか?」
「へ?」
「高校の時いたアパートじゃ、住人同士で時々切りっこしてたんだよ。慣れてるから大丈夫、 麻衣さんにまーかせてよ」

 自信満々に胸を叩く麻衣に、今回ばかりはさすがの滝川も逃げ腰だった。
 が、麻衣ははしゃいであっという間に用意を整える。あと は、本人が覚悟を決めるだけとなり、救いの手をどこからも差し伸べてもらえなかった滝川は、やむなく「じ ゃあ、お願いしようかな〜」と言わざるを得なかった。
「毛先だけでいいからな。余計なこと考えなくていいからな」
「はいはい。この麻衣さんにまかせなさいって」
 とはいえ、腕前のはっきりしない相手にカットをまかせるのは、不安だ。
 たとえ無責任なことを言うような人間ではないとわかっている麻衣であってもそれは同じで。新聞紙を 敷き詰めた上に置かれた椅子に座って首にタオルと大きなビニールを巻かれた滝川は、鏡もない即席 美容室で観客2名に見守られ、恐る恐る客に扮したのであった。
 当然、ハサミも普通の事務用のハサミ。櫛も麻衣が持ち歩いているもの1つだけ。そして、切られている 本人には進行状況がまるでわからない。
「お客さーん、髪傷んでますよー」
 楽しげに言う麻衣の声と、見物人2人の反応だけで進行状況を類推するのは・・・・・・かなり怖い。
 しかも、途中からナルが見ているのをやめて本を読み出し、ジョンが心配気な表情をにじませるに至って は、冷や汗ものである。
「び、美容師さん。いかがなもんでしょうか?」
「うーん。お客さんの髪、ほんとデリケートですねぇ」
 真にこもったその台詞に、滝川は翌日に控えているバンドのライブに己が坊主頭で参加するさまを想像 し・・・・・・固まった。
 実際、麻衣は困っていた。
 麻衣がいつも切りっこしていた相手は、当然女の子である。若いだけに髪に張りもツヤもあり、かなり 頑丈な髪の主ばかりだった。そして、彼女たちの中には、滝川と同じヘアスタイルの人間はいなかった。
(な、なんなの、この髪!?)
 ダメージヘア用シャンプーで傷む髪だけあって、切るなり毛先が丸まったり、下手すれば切り口が即 枝毛になる。だからといって1本ずつ切っては長さがあわなくなるし、まとめて切ると好き勝手に化ける。
(い、いったい、この頭をどうしろと!?)
 それでも、麻衣はなんとかやりとおした。目立つ枝毛を切り、替わりに前よりは目立たない枝毛を生産 しつつも。
「つ、疲れた〜」
 滝川が髪を洗い流しに行っている間に、麻衣はぐったりとソファの背もたれに寄りかかった。
「自分で言い出したんだろう」
 本を読みながら、ナルが言う。ジョンは、滝川に頼まれて髪をセットするためのワックスを買いに 行っている。
「そうだけど。まさか、あんなに扱いにくい髪だとは思わなかったよ」
「傷みやすい髪だとわかっていて、想像できない方がどうかしてる」
「はあい、どうせあたしは馬鹿ですよ。ナルは髪丈夫そうだね? 切ってあげようか?」
「ご遠慮申し上げます」
「あらあ、そんな遠慮せずとも。もっちろん、所長からお金を取るようなことはいたしませんとも、 部下を信じてくださいな」
「腕前を信じてない」
「ひっどーい!」

 髪を洗って戻ってきた滝川は、心配していたよりは機嫌も良さそうだった。
「ぼーさん、どうだった?」
「まだ、乾いてみないとわからんが。ありがとさん」
 タオルで拭いただけの髪を垂らしたまま、滝川はほっと息をついた麻衣の脇に立つ。
「ん? どしたの?」
「はあい、麻衣ちゃん、覚悟はいいかい?」
「はあ?」
 わけもわからず立たされて、うながされた方角には・・・・・・疲れて放置していた 即席美容室が。
「ぼーさん、ま、まさか!?」
「はあい、ぼーさんにまかせなさい」
 カットをさぼっていた上に自分が言ったそのものの台詞を吐かれ、断るわけにいかない麻衣であった。

「やあ、いーねえ、若い娘の髪は」
「ぼーさん、なんかスケベっぽい・・・・・・」
「なんつーことをっ。まあまあ、信じなさい信じなさい。お客さん、やわらかい髪してますねー」
 内心、麻衣は悲鳴を上げている。けれど、自分がやったことの再現となるので、必死に自分を抑えて おとなしくしている。
(ぼーさんの心境が、わかってきた・・・・・・)
 腕前不明の人間に髪を切られる怖さは、なかなかのものである。下手な幽霊を見るより怖い。
 ようやくお許しが出て洗面所に髪を洗い流しに行き、ようやく鏡と対面する。
(あれ。いいかも?)
 毛先を整えた程度のカットだったが、明らかに、麻衣よりも腕前は確かだ。
「ぼーさんっありがとー、うまいねー。・・・・・・あれ?」
 髪を拭きながら洗面所を出た麻衣は、滝川美容師がすでに次の客にかかっているのをみつけた。
 信じられないことに、ナルが不機嫌顔で新聞紙の真ん中に座って滝川に髪をいじられて いたのだ。
「調子が出てきはったそうで。僕は、切ったばかりなんで、渋谷さんに・・・・・・」
 買い物から戻ったジョンも、とまどい気味である。麻衣は、濡れた髪のまま、コーヒーのおかわり を用意した。
 それにしても、いったいどうやって口説いたものか。麻衣が尋ねても、滝川は笑っているだけだし、 ナルはますます不機嫌になるし、ジョンも困った様子で口を割らない。
「別に坊主にしやしねえよ」
 そんなことをしたら、いったいどんな仕返しをされることか。それも、一生恨まれるだろう。ナル は、結構根に持つタイプだ。
「リンがナルに切ってもらったって話は聞いたことあるが、逆はないって言ってたよなあ、確か。 さすがに、気に入ったからって切ってくれとは頼めなかったらしいぞ」
「そうですか」
「頼めばやってくれるんかい? ナルちゃん」
「気が向けば」
「ほう」
「今度切って差し上げましょうか?」
「ほお?」
「さぞ切りがいがありましょうから」
「ボーズにする気だな、おまえ・・・・・・」
「リンとおそろいがいいですか?」
「・・・・・・遠慮しとくわ」
 敬語のナルはタチが悪い・・・・・・。
 変な頭にしたらただじゃおかないぞ、という気配をひしひしと感じながら、滝川は楽しいひとときを 過ごす。麻衣の髪はやわらかく触り心地が良かったし、ナルの髪はサラサラしていてこれまた触り心地が 良い。素直な髪を切るのは楽しい。
「ほーれ、出来上がり。髪流してきな。麻衣、セットしてやる。ジョン、ワックスくれ」
 美容師滝川は、手早くナルを解放して洗面所に押しやり、代わりに麻衣を椅子に座らせる。生乾きの 髪にブラシを入れ、分け目を変えてみたりして、真面目なふりでしばらく遊んでみる。
 麻衣はおとなしく椅子につかまってじっとしている。前に回って前髪の様子を見るのに顔を近づけたら、 ごく間近で複雑そうな視線とぶつかった。その距離のまま、にまりと笑ってやる。
「お客さん、この後のご予定は?」
「・・・・・・仕事」
「その後は?」
「部屋に帰るだけだけど?」
「いかんですねえ。一緒に飯食おうぜ、デートだデート。よって、デートヘアにしてしんぜよう」
「何それ?」
 麻衣がくすくすと笑う。滝川は、ワックスとブラシだけで麻衣の髪を整える。いつもとあまり変わらない ようでいて、大人っぽい気配がにじみでてくる。その様子を、ジョンは感心して見ていた。
『少女』から『女性』へと変化していく。まさに、その過渡期にいる麻衣。
 ジョンは、ちらりと洗面所に視線を送る。・・・・・・今出てくるとまずいような気がしたのだが、 それを狙い澄ましたかのように、ナルが出てきた。
 笑みを見せて至近距離で滝川に髪をいじられている麻衣・・・・・・。
 ジョンには、ナルが一瞬、眉をひそめたように見えた。
 麻衣が『少女』から『女性』へと変化していくのに、影響を与える異性は誰なのか。
 ジョンは心の内で十字を切り、滝川の未来を案じた。

 一度事務所を出て行った滝川が、麻衣の仕事が終わる時間を見計らって戻って来た。
「じゃ、お先に失礼しま〜す」
 髪型が気に入った様子で、滝川とジョンが帰ってから、麻衣はご機嫌で仕事をしていた。
 そして、笑顔全開で滝川にエスコートされて帰って行った。
 麻衣同様に髪型に手を加えられたナルは、ソファで本に視線を戻しながら、ため息を落とす。
 何やら、おもしろくなかった。

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