「どうせ偽名使うなら、日本名にすればいいじゃない」
言い出したのは、まどかだった。
日本にSPRの分室を置いてジーンを探す拠点とすると決まったものの、ナルが日本に行くことが
ばれると、余計な騒ぎが起こる可能性がある。そこで、偽名を使うかとつぶやいたところで、嬉々と
してまどかが提案してきたのだ。
「日本名は、漢字だろう?」
「そうねえ、女の子なら名前がひらがなって子もいるけど。男の子はだいたい漢字ね。でも、ひらがな
も慣れないと難しいわよ」
ナルは憮然としつつも、日本での生活に必要不可欠な知識を得るため、やむなくおとなしくまどか
の言うことを聞くことにした。
「住所と名前くらいはちゃんと練習しておいた方がいいわよ。あと、年号ね。良かったわね、ナル、
『昭和』と『平成』は簡単な方よ。『年月日』も簡単簡単。あと、『男』て性別書くこともあるわね」
ナルが漢字練習すべき文字をメモに書き付けながら、まどかは更に思いを巡らせる。
「渋谷の『渋』はバランス難しいかしら。いっそ、名前も渋谷にしちゃったら? 努力しがいがある
でしょ? そうすると、下の名前は何がいいかしらね〜。どう? リン」
「・・・・・・画数の少ない字の方がいいかも知れませんね」
「そうねえ。一番少ない名前って言ったら『一』よね」
まどかは書き付けてナルに見せる。
「これで『はじめ』と読ませるわけ。『渋谷 一』て。あはは、ディヴィス博士が、日本一ならぬ
渋谷一になっちゃうわあ」
大爆笑されて、ナルが受け入れるはずもない。
「じゃあ、一文字足して、『かず』と読ませるか。かずや、かずお、かずひろ、かずま・・・・・・
読みが同じでもいろいろあるしね。どれがいいかしら?」
まどかは選ばせるためにその文字を書き付けていく。
『一也・一弥・一夫・一生・一弘・一真・・・・・・』
見ても、ナルにはよくわからない。
「なんでもいい、まかせる」
「あら、漢字で意味もいろいろ違うのよ? ねえ、リン」
「一番簡単な字でいい」
「つまんないわねえ。じゃあ、この辺ね、『一也』か『一夫』。画数少ないわよ」
「それも意味があるのか?」
「そうねえ、『一也』は『一なり』ね。『一』の字を使うのが、そもそも長男長女のことが
多いわけ。だから、細かい意味づけもあるとは思うけど、『一番』って意味が多いかしら。
『一夫』は、『一に夫』だから、う〜ん、まあ、『夫』が家長とか男とかそういう意味につながるから、
とり方はいろいろね。将来良い夫になるように、とか、良い跡継ぎになるようにとかってことも
あるかしら」
「『一也』でいい」
「あら、いい夫にはなりたくない?」
「興味ない」
「ふうん。未来の妻子より、『いっとーしょー』? ふふ、それもいいかもね」
まどかは、漢字練習メモに『渋谷一也』と書き加える。
「誰かにとっての一番の人になれるように、自分にとっての一番の人をみつけることができるように、
誰より幸せに、そして、まずはじめにあれるように、責任とれる男になれよって意味をこめて名付け
ましょう。うふふ、いい男になりなさいね」
まどかににっこりと言われて、ナルはため息を落とす。おとなしくメモを受け取り、帰り支度にかかった。
「ナル、もう日本に行くまで時間ないんだから、明日テストするからね、書き取り練習してらっしゃい」
「・・・・・・・・・・・・」
ナルは、家に帰ってから延々とメモに記された字を繰り返し書いて練習し、翌日、まどかの作った
テストを受け、点やハネ、バランスなどこまかいところを指摘され、更に練習を重ねた。
そうして、ナルは日本に着いた最初の晩、宿泊先のホテルで見事、自力で日本語で宿泊者カードに
記入することができたのだった。