「じゃあ、お願いします」
リンから2冊の本が入った袋を受け取って、ナルは事務所を出た。
夏休みを満喫する大勢の若者たちが、渋谷の生暖かい空気をかきまわしている。空は曇天。
一雨くるかも知れない。
人々を避け、視線を無視してナルは駅へと向かう。
午前中温められた地面から放出される熱、その熱に絡みつく湿気、
更に多くの人々の放つ気。風がないこの日この街の空気は、ひどくにごって感じられた。
こんな日の昼間から出歩かねばならないことを心中で呪いながら、ナルは道玄坂を下って行った。
途中、複数の若い女性の嬌声に囲まれた気もするが、耳慣れた声は入っていなかったので隙間をすり抜
ける。ナルは店から吐き出される冷風を浴び、ほっと一息ついてから顔を上げる。
駅までの残る距離をはかろうとした。
・・・・・・麻衣がいた。
前方から、麻衣が来る。
彼女は、ナルより先に彼の存在に気づいていたらしく、軽く手を上げて小走りになる。すぐに、彼の元へ
たどりついた。
「でかけるの?」
「ああ。今日は昨日の続きを」
「うん、終わらせる。ナルは? 今日は戻る?」
「夕方には」
「ん。行ってらっしゃい」
往来の激しい歩道のこと。ごく短い会話を交わして、それぞれ反対方向へと向かう。
麻衣は事務所へと坂をのぼり、ナルは駅へと坂をくだる。
ナルは、背中に分かたれていく何かを感じた。
原因はわかっている。
いつからか感じるようになった、その気配。
軽い圧迫感? もしくは、軽い吸引力? 色もない匂いもない何も見えない。けれど、感じる、
何か。
ただ、その重さが、気配が、同じ。
気づいてその方角を見れば、そこに、必ず麻衣がいる。
それがわかってからは、いちいち原因を確認しないようにしているものの、この引き離される感覚
を無視することは、意識的にしかできない。
ナルは、ため息を落とす。
信号に人の波がつまりかけたところで、ナルは振り返る。坂のずっと上の方にいるはずの麻衣の
背中を探す。見えないことは、百も承知で。
前回の事件の依頼人の下へ調査報告書と調査費用の請求書を届け、ナルは再び電車に乗り込む。
調査と言っても、予備調査で片付いてしまった霊とは無縁の事件だった。亭主の浮気が発覚したことだ
し、謝礼は期待できまい。事務所へ戻る途上の駅で下車して、ナルは残る荷物の届け先へと向かう。
都会にぽっかりと緑が広がる、皇居外苑。
千代田のビジネス街。
リンに教えられた場所に、そのビルはそびえたっていた。
『ついでに、お願いしても構いませんか?』
報告書を届けに行く直前、リンに頼まれたのは、滝川に貸す本を届けることだった。
なんでも、今日、本を借りに事務所に来るはずだったのが、急病で行けなくなったと連絡があったのだと
いう。動けないものの、暇なので本は読みたいということなので、見舞いに、と。
『今の仕事はキリがいいはずだろう?』
用があればそちらを優先できる仕事のはずだったのでナルが尋ねると、先約があると言う。
『ああ、千里さんか』
『・・・・・・何故、その名前を?』
『電話に出た時、フルネームを聞いた』
通勤電車の痴漢騒動で知り合った女性から、その後も度々連絡がある。するとリンが定時に帰って行く
のだ。ナルにも好奇心はある。何せ、あのリンの女性関係だ。ネタを握っておいて損はない。
先日、電話を受けた時、たまたまリンがいなかったので少々情報収集をしておいたのだ。
『偽証した男が彼女を狙った話はしましたよね?』
『ああ。忘れた頃に仕返しに来るかも知れないしな。で、ぼーさんは、怪我でもしたのか?』
『ギックリ腰だそうです』
『・・・・・・わかった、ついでに置いて来る』
そんなわけで、ナルはオフィスビルのエレベーターに乗り込んだ。
各階に会社名のプレートが張られているにもかかわらず、唯一真っ白な12階。一緒に
乗り込んだ幾人かが、そのボタンを押したことでナルへ視線を寄越した。その様子は、単純に驚いたと
いうだけらしい。
次々と人が降りて行き、最後にはナル1人になる。12階につくと、ペイントされたガラスのドアが
待ち構えていた。
インターホンをみつけ、室内に軽やかな音が響くのを聴く。反応を待つ間に、ナルはガラスの両開き
のドアを観察する。
ガラスドアには『TAKIGAWA』の文字。下方にアクリル板の小さなドアがある。サイズから
して、飼い猫の出入口なのだろう。しかし、12階から勝手にどこへ出入りするのか。まさか外まで
往復するのだろうか?
待っていると、カタンと音がして下のアクリル板が押し開けられ、白い子猫が姿を見せた。先月、ナル
の部屋に滝川が連れ込んだ白猫だ。
白猫はナルを見上げると、前足まで見せていた体を中へと戻して行く。無常に、アクリル板はゆらゆらと
閉じられた。
(確か・・・・・・梅吉、だったかな)
微かに、ゆれるアクリル板の隙間から、猫の鳴き声がする。そして、かすかに人の声。
少し待つと、再びアクリル板から子猫が顔を出す。ナルの顔を見上げながらとたとたと歩み寄ってき、
チャリン、くわえていたものを落とした。
そうして、ナルの足に頭をこすりつけ、ドアの前に立つ。
見れば、落としたものは鍵だった。拾ってドアの鍵穴に差し込み回すと、ガチンと鍵が開いた。便利な
猫だ。
「お邪魔します・・・・・・」
声をかけながらドアを引き開けると、広いワンフロアの空間が広がっていた。
「おー。ナルちゃ〜ん」
ベッドから、滝川が弱々しい声を上げる。ギックリ腰というのは本当らしく、ベッドの上でばたばたして
いた。
「いいとこ来たわ〜。お願いきいて〜。あ、靴はその辺で履き替えて、スリッパはそこ、脇」
起き上がれないという状態をさらすことには既に開き直っているらしく、滝川は両手両足をはたき合わ
せてナルがたどり着くのを待っている。白猫は、我関せずと並び置かれた他のマットレスの上に身を丸めよ
うとしていた。
「随分と、情けないお姿ですね」
「おうよ〜。おめーも気をつけろよ〜、年齢は関係ねえんだからな、こいつはよ」
「で、お願いとは?」
リンから預かった袋を2つ、手渡しながら尋ねると、滝川は嬉しそうに袋の中をのぞきこむ。
「これで暇つぶしできるわ、助かった助かった。お、こっちは湿布だ、ありがたやありがたや。
リンは?」
「仕事してますが」
「いや、帰りに寄ってくれるって話だったんだが」
滝川は、ひじを使ってじりじりと身を起こそうと努力しつつ、先にその疑問を解消しようとする。
ナルはため息を落として、意地悪く教えてやった。
「見舞いよりデートをとったようですよ?」
「ぬわにぃぃ? でえとおぉぉ?」
体半分を起こしたところで、滝川が固まる。
「友情より女をとったようで。昼に電話がありましたからね」
にーっこり笑顔で言ってやると、滝川は打ちのめされたらしくがっくりとマットレスに突っ伏してしまっ
た。
「ちくしょぉぉ〜。あれか、例の痴漢騒ぎの・・・・・・」
「大川千里さん」
「会ったのか?」
「いいえ、電話の取り次ぎついでに話しただけですよ」
これでリンはナルに弱みを握られたわけだな、と、友情を捨てられた滝川がほくそえんだかどうかは、
うつむいていたのでナルには見えなかったが、彼は再び身を起こす努力をし始めた。
「んで、何かい? わざわざこれ届けに来たわけじゃねーよな?」
「近所に用が。ついでですよ。寝ていた方がいいんじゃないんですか? 僕は用が済んだので帰ります
よ?」
「んにゃ。だから、頼みがあるんだってばよ」
滝川はようやく、腕に力を込めたまま両足を床におろした。相当痛いらしく、笑顔がひきつっている。
「なんです?」
「手、貸してくれ。ちょうど、トイレ行きたかったんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
さすがに、猫では手伝えない。
やむなく、ナルは肩を貸してやり、滝川の腰を支えてやる。滝川の方が背が高いので、支えとしては
ちょうどいい具合だった。
が、相当ひどいギックリ腰らしく、一歩進むのも大変だった。
「あ〜、すまんねえ〜。助かるわ〜」
「いつやったんですか、これは」
これでは、ほとんど身動きとれなかったはずだ。
「昨夜・・・・・・てか、ほとんど朝だったが。寝ようと思って梅吉抱き上げた途端よ。姿勢が悪かった
らしい・・・・・・」
子猫の重量が影響あるはずもない。
「ご愁傷様です」
ほとんど体重をかけられてしまっているし、腰より上の辺りで支えているので支えづらい。こちらの
腰にきそうだ。来月21歳になるとはいえ、この年齢でギックリ腰は経験したくない。
「訊くが〜。おまえさん、人の部屋に興味持つ方? じゃないよな?」
「心霊現象が起きない部屋に関心ありません」
「だよな。うっかりサイコメトリしちゃうとかってことは?」
「・・・・・・必要なければ、すぐ回線を切りますよ。調査でもないのに、見て得することは何もない」
「おう」
『見ない方がいい何か』がこの部屋にあることをナルは悟る。
まあ、人がどんな部屋に住んでいようがどうでもいい。ナルの部屋も、あまり大差がないのだ。
ナルは、滝川をトイレに置くと、用が済むのを外で待つ。見れば、梅吉はマットレスに身を丸めて
こちらをじっとみつめていた。特に嫌な視線ではない。
猫とみつめあっていても時間の無駄なので、ナルはぐるりと部屋を見回してみる。
広い部屋だ。本来オフィスに使われるフロアを丸ごと使っているのだから、当然だが。
眠るのに使っているベッドも、遠い。
「ナ〜ルちゃ〜ん」
お呼びがかかって、ナルはため息を落として迎えに行く。
「ベッドを近くに動かした方がよくないか?」
「おー。まあ、その方が今はありがたいがな」
「じゃあ、待ってて下さい。動かしましょう」
「・・・・・・ここでか?」
トイレに座って作業を待つのは、ちょっと寂しい。
「そこで」
ギックリ患者を何度も動かすのは大変過ぎる。
滝川をトイレに放置したまま、ナルは滝川が寝ていたマットレスを引きずってトイレの近くに
動かした。車輪がついていないので、1人には重労働だ。おまけに、途中で梅吉が駆けつけてきて
飛び乗ってくれた。ゆすっても足を踏ん張り見返してくるので、やむなくそのまま引きずった。
「この辺でいいですか?」
「おお。悪いね〜、博士殿にそんな労働させちまって」
「オムツあててくれと言われるよりマシです」
「・・・・・・ありがとうよ」
滝川をベッドに戻して、ナルは息をつく。
座っているのがつらかったようで、滝川はベッドにめり込むようにうつぶせにつぶれた。
「あー、も一つ、頼みごとをしても良いかな?」
「・・・・・・なんです?」
睨むような視線にも背に腹はかえられず、滝川はリンの差し入れの一つを指差す。
「湿布、張って」
「・・・・・・・・・・・・」
1人でできないこともないのだろうが、抵抗するほどのことでもない。
ナルは紙袋をとる。恩を売っておいて困ることはあるまい。
滝川が自ら腰周辺の衣服をよけたので、べったりと2枚貼り付けてやる。うお〜、と、滝川がちょっと
暴れた。
「じゃあ、僕は帰りますよ」
すっかり湿布くさくなった部屋に眉をひそめながら、ナルは湿布入り袋をすぐ脇のほかのマットレスに
置いた。
「やー、助かったぜ。ありがと」
湿布の上にパンツを引っ張りあげながら、滝川が笑みを見せた。
「食事は?」
「飯どこじゃねーからなあ」
「松崎さんにでも連絡しておきましょうか?」
「冗談じゃねえや、綾子にこんな姿見られたら末代までの語り草・・・っ、子々孫々まで頭上がらなくなっ
ちまわあ」
綾子が恩を売りつけるタイプじゃないことはわかっていて言っているのだろう。恥に思うらしい。
「わかりました。じゃあ、僕は帰ります。お大事に」
「え? あ、そう・・・・・・。助かった、サンキュ」
滝川の指示通り外から鍵をかけ、アクリル版の出入口から顔をのぞかせた梅吉に鍵をくわえさせる。
そうして、ナルは初の滝川家訪問を終えた。
薄暗い室内に、腹の虫が鳴り響いた。
「は、腹減った・・・・・・」
スタンドの明かりの中、あいかわらずマットレスに突っ伏したまま、滝川はうめく。
リンは今ごろデートだろう。綾子はどっかで男にひっかけられて酔いつぶしている頃か。安原は自宅へ
戻る電車の中。ジョンは教会で何かしら働いているだろう。真砂子はどうしているか不明。ナルは事務所
でまだ仕事をしているか、帰って仕事をしているか、その途中か。麻衣は、アパートに帰って大学のレポ
ート書きでもしているだろう。
「ああああ〜。梅吉〜〜〜〜」
梅吉になぐさめられつつも、動けないと気分は哀しい。さすがに、猫にご飯はつくってもらえない。
「あーちくしょー、明日には動けっかなあ〜」
滝川の嘆きに、梅吉の鳴き声が絡む。そこに更に、呼び鈴が鳴った。滝川は、がばっと顔を上げた。
顔を見合わせて、梅吉がドアに向かう。アクリル版から外をのぞく。
「あ、梅吉だ〜、こんばんは〜」
麻衣の声だった。
「麻衣〜〜〜っっっ」
ナルと同じ方法で部屋に入った麻衣は、マットレスの上で両手を広げばたついている滝川に、つい吹き
出しそうになる。が、笑顔でごまかした。
「大丈夫じゃなさそうだねー、ぼーさん。ご飯買って来たよ。あと、飲み物。湿布はあるって聞いた
けど、まだある? 買ってこよか?」
「麻衣ちゃ〜ん。ぼーさんは嬉しいぞぉ〜」
「はいはい、起きれるかな〜?」
麻衣に世話を焼かれて一緒に夕飯を食べて。おまけに、麻衣からの申し出で湿布も張り替えてもらい、
滝川はようやく人心地をつけた。
忙しく立ち働いて、麻衣は、明日は自分かリンが来るから、と言い置いて帰って行った。
滝川は、梅吉と一緒に、久しぶりに夜は早くから眠りについた。
そして、幸せな夢を見た。
翌晩やってきたリンは、滝川に思う存分からかわれた。
そして、滝川は復活して事務所を訪ね、話を聞いた綾子らにさんざんからかわれることとなるので
あった。