カチャリ、と小さな音がした。
薄暗い室内に踏み出された素足。
開かれた戸の向こうは、部屋に備えられたシャワールーム。
季節は、冬。
浴室から漏れるはずの湯気はなく、逆に冷気が滝川の吐く息
を白く染めている。
冷たい滴が拭き漏らした髪から伝い落ちた。
水分を含んだ髪を肩から払いのけ、滝川は鏡台の前のソファ
の上に載せておいた衣類に手を伸ばす。
寒中も流れある川に身を浸し、印を結び一心に真言を唱える。
本尊を観想し、一体に解け合うまで。繰り返されたその修行。
冷たいシャワーで代用し身を清めた滝川は、カーテンをきっ
ちりと閉めた部屋で、背から腰ひもを前に回した。
ガチャ。
いきなり、廊下に通じる扉が開いた。
室内に一歩踏み込んで、ナルがあわてて足を止めた。直立不
動の滝川の姿をみとめて。
「・・・・・・失礼」
一言言い置き、くるりと背を向け出ていった。
ふんどしの腰ひもを両手につかんだまま、残された滝川は立
ち尽くす。
(あいつ、今、一瞬笑ってなかったか・・・・・・?)
ナルは扉を閉じると、改めてその扉を見直す。
『控え室1 在』
そういえば、あてがわれた部屋のトイレが壊れていたので替
えてもらうと言っていた。それが、ここだったのだろう。
控え室はすべて鍵が壊れているので、ご自由に出入りなさっ
て下さいと先に言われていたのだが、その後のことだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
ナルは、白い指を扉のプレートへと上げた。
冷たいシャワーを浴び直して、滝川は再びふんどしに手を伸
ばす。
除霊の際は、ふんどしを身につけることにしているのだ。
心身ともに清め直して、滝川は落ち着いた気分で手慣れた動
きでややこしい下着を・・・・・・。
ガチャ。
音に振り返ると、綾子がいた。
扉のノブに体重を載せて、綾子は何食わぬ様子で全裸の滝川
に言う。
「・・・・・・ナル、知らない?」
「・・・・・・さっき来たが、後は知らん」
「そう。どこ行っちゃったのかしら」
ひとり言のように言いながら、綾子は視線を滝川の上から下
へと流した。
「隠さないほどのもんでもないでしょうに。お邪魔」
ひらりんと手を振って、綾子は出て行った。
(・・・・・・・・・・・・どういう意味だ)
何にせよ、やり直しである。
もう一度頭から冷たい水を浴びる。
今度はふんどしをシャワールームに持ち込んだ。
これ以上、くだらないことに心を乱されてはたまらない。
気を静めて、ふんどしをつけて部屋に出る。鏡台の前のソフ
ァの衣類に・・・・・・。
「・・・・・・まったく、どこ行っちゃったんだろうねぇ」
「本当に」
扉を開く音を話し声が遮った。
ふんどし一枚の姿で身をかがめた背後。げっと振り返ったそ
こには、目を丸くした麻衣と真砂子の姿。
「・・・・・・・・・・・・な、何やってんの?」
「・・・着替え中に見えないか?」
「・・・・・・失礼しました」
「・・・・・・ごめんあそばせ」
そろそろと、引きつった笑みを見せて二人はずりずりと後ろ
に下がり、廊下に消えた。
滝川は、閉じられた扉を見る。
「あああああ・・・・っ。畜生〜〜〜」
今度こそ落ち込んで、その場にしゃがみ込む。
「なんで、みんなノックしないんだよ・・・・・・」
「見た? あれ」
「見ましたわ・・・・・・。爪痕のことですわね?」
「それそれ。やっぱり、あれって・・・・・・」
「かも知れませんわね」
真砂子は袖で口元を隠したまま、眉をひそめる。
麻衣は、がっくりと首を傾けた。
「ぼーさん、彼女いるんだ」
「あら? 麻衣は滝川さんに乗りかえてましたの?」
「人聞きの悪い。別にそーゆーわけじゃないけどさあ」
くすくすと真砂子が笑う。
「応援いたしますわよ」
除霊すらも諦めた滝川は、洋服に着替えて部屋を出た。
何やら背中がかゆいと思ったら、昨日、出がけに梅吉と遊ん
でいて爪を立てられた痕がかさぶたになっていた。それを女の
子二人に誤解されているとも知らず、出たばかりの部屋の扉の
前に立つ。
『控え室1』というプレート。6室ある控え室すべての鍵が壊
れている。掃除はしてあるので、どの部屋を使ってもいいと言
われ、ここを選んだのだが・・・・・・。
『控え室1』の文字の脇には、更に一文字。
『空』
滝川は、入室する時にちゃんとスライドさせて『在』にして
おいた。
こんないたずらをしたのは・・・・・・。
ベースには、ナルをのぞく全員がそろっていた。
「ああら、除霊は中止?」
「てっめえ、おまえだな、『在』ってしといたのを『空』にし
やがったのはっ! お婿に行けなくなったらどうしてくれる!」
「何馬鹿言ってんのよ。あたしが見た時には『空』だったわよ。
西側の控え室から古墳がよく見えるって聞いたから」
「誰に」
「ナルに」
「ナル捜してたじゃないか、おまえ」
「そうよ。ナルがここを出て行く前に言ってたから、もしかし
たらいるかもと思って捜しに行ったのよ。そうしたら、腐れ
坊主がすっぽんぽんで突っ立ってるじゃないのよ。びっくりし
たわよ、まったく」
暢気にお茶を飲みながら見物していたジョンと安原が、ぶっ
と吹きかけてあわてて口を押さえた。
「びっくりしてただ? あれで!?」
「うるっさいわねっ。とにかくあたしじゃないわよっ」
ベースを見回すと、リンはただパソコンに向かっているし、
ジョンと安原はカップを持ったまま上目遣いに彼をうかがって
いる。麻衣と真砂子にいたっては、視線に軽蔑がこもっている
ように見えるのは気のせいか。
「・・・・・・てことは」
綾子の言うことが本当なら、綾子より前に来た人物が、断然
怪しい。
「ナルは!?」
「どっか行っちゃった」
「ふらっと出て行って帰って来ませんのです」
「中は全部捜したけど、いないよ」
「けど、まさか渋谷さんがそんないたずら・・・・・・」
「やりますよ」
背を向けたまま、リンがあっさりと言った。
「何食わぬ顔して、仕返しはきっちりと。お心当たりはありま
せんか?」
心当たり・・・・・・は、ない。
「あんのヤロウ・・・・・・」
滝川は、ベースを出るとその足で外に飛び出した。
予想通り、滝川は古墳のそばでナルをみつけた。
「ナル!」
林を抜ける手前で、呼びかけた。
ナルは、滝川を振り返り、そして、笑んだ。
犯行を告白する笑みに、滝川は足を速める。距離は、残りわ
ずか30メートルほど。
突然、ナルは身を翻し、駆け出した。
古墳を回り込む。
滝川は追い、追いつけそうで追いつけないまま古墳を一周す
る。
ナルにこれだけの脚力があるとは思っていなかった。結構は
ええじゃねえか、と一人ごちながら追い続け、林の小道を駆け
抜ける。
仕返しされるような心当たりはない。
まさか、事務所でアイスコーヒーを飲み続けた数年分のツケ
ではあるまい。とっさに一杯400円なら・・・・・・と計算
して、現金で請求されるよりはこの程度のいたずらの方が絶対
いいと思う。けれど、そんなことではないはずだ。
林を抜けたところで、ナルが走りながら振り返る。息を切ら
せながらも、確かに笑った。
(あのヤロ!)
ナルが先にゴールしたら、理由を訊く権利はなくなる。そう
いうことなのだ。
ラストスパートをかけて、滝川は距離を縮める。相手にもう
スパートをかける余裕はない。30メートルのハンデは体力差。
ゴールは屋敷の扉。その扉を開く間に、追いつけるかどうか
という微妙なところ。
短い階段を駆け上がるナルに、もう少しで手が届く。
ノブを捻り、外開きの扉を開く・・・・・・。
ナルが、先に一歩を踏み込んだ。
扉の内に飛び込んで、滝川はカーペットの上にすっ転がった。
(ま、負けちまった・・・・・・)
見れば、ナルは扉を閉めてそれに寄りかかるようにして息を切らしている。
似合わないマネをしてくれるものだ。
「いったい、なんのマネだよ、ナルちゃんよお」
ナルは苦しげに呼吸をしながら、笑った。
こどもっぽいことをしてくれる。らしくないったらありゃしない。
仕返しをされるだけのことを、滝川はしたのだろう。けれど、ナル自身も仕返し
をする理由に気づいていないのかも知れない。
ふと、そう思いついて、ああ、あれか、と滝川は思い至った。
「ナルちゃんよお・・・・・・」
一月ほど前に、事務所から麻衣を連れ出して二人で遊びに行った。
多分、それだ。
「キミ、モ少シ素直ニナリタマエ」
ナルは、怪訝そうに眉をひそめる。
滝川は、転げたまま声を上げて笑った。
ベースへは、ナルが一人で戻って来た。
「あれ? ぼーさんに会わなかった?」
「会った。変わりは?」
ナルはリンの脇へ直行する。いつもと変わりない様子で。
「気温が5度ほど下がりましたが、それだけです」
「それで捜したのにいなかったんだよお。どこいたの?」
「みんなで捜しまわりましたのに」
「古墳」
恨み深げに問う麻衣と真砂子に、ナルはたった一言返すだけ
だ。
「滝川さんに、怒られませんでしたですか?」
あの勢いで飛び出していって、何事もないはずはないのだが、
とジョンが尋ねても、
「別に」と、すでにモニターに集中している。
「滝川さんは、どちらに?」
なおも安原が問うと、
「除霊するから着替えるそうだ」と、ちゃんと答えた。
どうやら、滝川があのような仕返しをされるだけのことをし
ていたのだなと、視線を交わしあい、彼らは納得し、そろって
ため息を吐いた。
そう思っておいた方が、身のためでもあるので。