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ハプニング(2000.6.12)

 午前11時30分。
 渋谷のSPR事務所の電話が鳴った。
 リンは珍しく連絡もなく遅刻。リンからの連絡だろう と受話器をとったナルは、相手の名乗りを聞いて、眉をひそめた。
「・・・・・・警察が、どういったご用件で?」

 午前11時40分。
 千代田区在住の滝川の部屋の電話が鳴った。
 白い猫が電話のそばに駆けて行く。が、受話器をとるはずもなく、ちょこんとその脇に座った。
 部屋の主は、音に身じろぎしたものの、起きる気配はない。ここ数日忙しく、ようやくゆっくりできるこの日、 陽がのぼってから眠った彼は、自然に目が覚めるまで眠る予定でいたのだ。
 電話は、留守番電話に切り替わる。
『・・・・・・渋谷です。もし、午前中にこれを聞いていたら、渋谷の事務所まで連絡を下さい』
 夢うつつに、滝川は今日は勘弁してくれ〜、と寝返りを打った。
『リンが警察につかまりました。よろしく』
「・・・・・・・・・・・・」
 ぷつんと通話が切れると同時に、滝川はガバッと、飛び起きた。

 午前11時42分。
 再び、SPR事務所の電話が鳴った。
『リンがつかまったって、どういうことだっ!?』
 こちらが何を言うより先に滝川の声が大ボリュームで聞こえてきて、ナルはとっさに受話器を遠ざける。
「・・・・・・言葉通りの意味ですが?」
 どうせ寝ているのだろうと、用件を入れておいて正解だった。まあ、誇張はあるのだが。
『なんで! どこで! 調査のトラブルか!?』
「いいえ、こちらに来る途中の駅で、駅員に突き出されたそうです」
『はあっ? 駅員って、・・・・・・まさか』
「そのまさかです」
 ナルは、警察に聞いた話を思い返す。聞きながら、うっかり吹き出しそうになってしまった。また笑い そうになって、ナルは気分を切りかえるために、息を吐く。
「痴漢の疑いだそうですよ。お手数ですが、身柄引受人になってやっていただけませんか?」

 時間をさかのぼり、午前9時40分。
「痴漢です! つかまえて下さい!」
 電車を乗り換えるために降りたところで、リンは若い女性の声を聞いた。
 車中は、ぎゅうぎゅう詰めよりは動きが自由になる混雑具合だった。痴漢にはもってこいの環境だったので、 破廉恥な男が出たのも頷ける。けれど、そんな馬鹿な男にかまうほど暇ではない。
 リンはかまわず階段へ向かったが、その肘をつかんだ人物がいた。
「この人ですよね?」
「そうです!」
 眼鏡をかけた学生風の男と、露出度の高い服装の若い娘。
 リンは2人を見下ろして、自分が痴漢と間違われているのだと、ようやく悟った。
「私が、何か?」
「僕、見てました」
「証人ね! 駅員さんに突き出して。手伝って下さい!」
 2人のやりとりに、リンはつかまれていた腕を振り払う。
「勘違いでしょう。私は無関係です」
 男を見下ろして言うと、彼は初めてリンの長身に気付いた様子でわずかに身を引いた。が、すぐに腕をつかみ 直す。
「話は駅員室で」
 見れば、駅員が階段を駆け上がってくるのが見えた。まずいことになったな、とリンは眉をひそめた。が、 ここで抵抗しても騒ぎが大きくなるだけだ。
 おとなしく「痴漢です、証人もいます」という女性の訴えを聞いていた。背の低い駅員が見上げてくるのに、 「人違いです」とだけ言って。
 とりあえず駅員室へと言う駅員について行こうとしたところで、背後から声がした。
「待って下さい、その人は無実です!」
 振り返ると、二十代と見える女性が両の拳を握りしめ、真っ赤になって足を踏みしめ立っていた。
「私、近くにいました。誰がやったかは見てませんけど、その人じゃないことは証言できますっ」
 そうして、総勢4人で警察のお世話になることになったのだった。

 午後1時。
 昼食の出前を断ったリンは、1人で取り調べ室にいた。
 痴漢の被害を受けたという女と、リンが痴漢行為をするのを見たという男と、リンはやっていないと証言する女性と。
 結局、男が実は何も見ていなかったことを自供した。
 肩も脚も露出させていた若い女性にお近づきになりたくて、カッコつけたかったということらしい。自分のために無実かも しれない他人を罪に陥れようとしたのだ。
 自分が相手をまちがえたとはいえ犯人を捕まえ損ねたことに女性は怒り狂っていたそうで、もう少し服装を考えなさい と年輩の捜査員がお説教したものの、話がまるで通じず、捜査員はリンにグチをこぼしていた。
 証人が偽証を認めたこと、無実を証言する者がいること、そして、何より被害女性とリンとの身長差が決め手となり、リンの無実は 証明された。
 なのに、まだ帰ることはできない。
 問題は、リンが外国人だということだった。
 それで、身元を証明することのできる人物に身柄引受人になってもらわねばならず、他の3人が帰された後も、リンは取り調べ室に 居残りと相成った。
 幸い、急ぎの仕事はなかったので、リンは帰ってからの仕事の進め方やらポイントを置くべき事項などに考えを巡らせながら、のんびり と解放されるのを待っていた。
 ふと、証言してくれた女性のことを思い出す。
 警察に着いて以降は顔を合わせなかったので、礼を言う暇もなかった。
 勇気を振り絞っての証言といった風だった。長身のおかげで人の顔は視界に入ってこないので、あの女性があの電車を常用しているのか どうかわからない。礼を言う機会はあるのだろうか。
 ガチャリと取り調べ室の戸が開き、捜査員が顔をのぞかせた。
「身柄引受人が来ましたよ、どうぞ」

「よっ、貴重な経験ご苦労サマ」
 にっかりとリンを迎えたのは、言わずと知れた滝川だ。
「わざわざありがとうございます」
「うんにゃあ。まあ、役不足の感はあるがあ、なんとかなって良かった良かった」
 リンは、身柄の引受人について、東京地検に勤める広田と職場の上司を上げた。
 ナルの元に広田が休暇で連絡がとれなかったので、と警察から連絡がいき、自らも外国人でしかも未成年のナルは、滝川に身柄引受人 を依頼した。
 職業ミュージシャン、でも、役に立ったらしい。
「いやあ、誤解が解けて良かったなあ。あれも、疑い晴れないとやっかいだからな」
「証人が出てくれましたので」
「向こうも証人いたんだろ?」
「そちらが偽証だったんです。とんだ迷惑です」
「偽証かい? 何考えてんだかなー。なんにせよ、無実の証人さんがいて良かったなあ」
「ええ・・・・・・」
「もし、証人いなかったらホモの恋人のふりでもして無実を証明してやろうかと思ってたんだぜ、おりゃあ」
「・・・・・・不幸中の幸いでした」
 渋谷の事務所に直行して、リンはナルの内心楽しそうな様子に、わざと熱々のお茶をいれてやった。

 翌日、9時45分。
 電車を降りた女性は、改札へ向かうために下り階段へと向かった。
 時差通勤のため、混雑はさほどひどくない。人々の流れに乗り、彼女は階段にたどり着く。手すりを使う ことなく降りて行く彼女の背に、人の手が伸びた。
「あっ」
 突き飛ばされて姿勢を崩した彼女の腕をつかむ手があった。そのおかげで、階段の途中にしゃがみこむ だけで済む。いったい、自分に何が起きたのか。
 見上げると、前日、彼女が無実を証言した長身の男性が彼女を支えていた。彼は、もう一方の腕で男を つかまえていて、厳しい視線を向けている。
「なんてことをするんですか。今のは、わざとでしたね」
 彼の腕を頼りに姿勢を立て直し、よく見れば、彼がつかまえていたのは、昨日の偽証男だった。
「は、離せっ」
「彼女は正しい証言をしただけでしょう。恨みに思うなら、私が受けて立ちますよ?」
 そう言って、あがく男の腕をひねりあげる。
 自分が偽証をしたにもかかわらず、男が彼女を逆恨みして階段から突き落とそうとしたのだと、彼女も悟る。 しかし、何故、彼がここにいるのだろうか?
「どうしますか? 警察に突き出しますか?」
「や、やめてくれ、偶然だ」
 長身の男が彼女に訊ねるのに、学生風の男は慌てて首を振り、哀願するように彼女を見た。
「・・・・・・あの、こんなこともうしないって約束してくれれば、いいです」
 2日連続の警察沙汰は避けたい。何より、彼はこの駅を利用していないはずだ。2人でつるんで男を 罠にかけたのだとか、痛くもない腹を探られては彼にも迷惑になる。
「約束して、謝りなさい。そうすれば離しますよ」
「約束します、ごめんなさい、もうしませんからっ!」
 彼が手を離すと、男は慌てて階段を駆け下りて逃げて行った。
 電車の本数が少ないため、ホームにはあまり人気がない。彼は、男の背を見送ってから、彼女に視線を よこした。
「大丈夫ですか?」
「はい。あの、あなた、昨日の駅で乗り換えですよね? なんでここに?」
 昨日、彼女は騒ぎに気付いて扉が閉まる寸前に途中下車したのだ。
「電車の中で彼があなたを見ているのに気づいて、ついて来たんです。失礼しました」
 彼女は、いつもと同じ電車に乗った。ただし、彼と顔を合わせるのが気恥ずかしくて、隣の車両に乗った のだ。
「昨日はありがとうございました。昨日も時間をとらせてしまったのに、こんなことで。 ご迷惑をおかけしました」
「と、とんでもないです。私こそ、危ないところをありがとうございましたっ」
 2人して頭を下げあって、姿勢を伸ばしてから、彼女はおかしくなって笑みを見せた。
「あの、本当にありがとうございました。もう、大丈夫だと思います。お仕事行く途中じゃないんですか?  今日も遅刻になっちゃいますよ?」
「ええ、そうですね。あまり時間に厳しいところではないので大丈夫ですよ。大川さんは?」
「え? あ、時間、ギリギリで。あの、私の名前・・・・・・?」
「昨日、警察に聞きました」
 戸惑う彼女に、彼がうっすらと笑みを見せた。並ぶと、彼の方が頭1つ大きい。
「彼も懲りたとは思いますが、気をつけてください。何かありましたら、こちらに連絡を下さい」
 彼は、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、彼女に1枚渡した。
「ええと、はやしさん・・・・・・」
「『リン』と読みます。『りんこうじょ』」
「リンさん、ですか。あ、私はこういう者で」
 慌てて名刺交換して、彼女は時計を見る。走ってギリギリの時間だ。
「心配ですから、1度またお会いしましょう。ご都合のよろしい時に連絡してください」
 ちょうど、反対方向に戻る電車が入って来て、リンが言う。
「あ、はい。ありがとうございました、電話しますね」
 彼が、返事の代わりに笑みを見せる。彼女は、軽く手を上げてから階段を駆け下りた。
 いつも、同じ電車に乗っていた長身の彼。ひどく目立つのに、何にも関心がないかのような様子でいた 人。芯が強そうなのに、まるで構えていない。長身のために窓の景色も見づらそうなのが、なんか 気の毒に思えて、彼女はいつしか、車中で彼を見かけると、目が離せなくなっていったのだ。
(名刺もらっちゃった)
 ずっと、いつか声を掛けようと、見ていた。
 昨日、勇気を振り絞って良かった!

 念のために電車を変えた彼女は、数日後、今一度勇気を振り絞り、名刺の番号に電話した。
 若い男の子が電話に出て、彼に回してくれた。

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