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窓(2000.8.12)

「こんちはー。外は暑いよぅ〜」
 8月。35度を超える猛暑の、真昼。
 麻衣は、SPR事務所に着くと冷房の効いた室内のソファに収まり資料の束をめくっている上司に ぼやいて、席に荷物を投げ出した。
 上司はちらりと麻衣を見ると、珍しいことにそのまま顔を上げる。
 今日、麻衣は午前中の休みを申請していた。大学が夏休みなのにもかかわらず。そうして出勤してきた 麻衣の服装に、ナルは少なからず驚かされた。
「就職活動でもしてきたのか?」
 麻衣は、きょとんとしながら上着のボタンを外している。スーツ姿で事務所に来るなんてことは、 滅多にない。大学の入学式直後にバイトに来た時以来だ。
「違うよ〜、まだ3年なんだから。午前中、大学の一般公開講座の手伝いに借り出されちゃったんだって ば。教授が、受付嬢のコスチュームは当然スーツだとか言っちゃってさあ。で、この格好よ」
 麻衣は上着のボタンを外したミニタイトの夏物スーツ姿で、腰に手を当て威張って見せる。
 ナルはあきれた顔をして、手元の資料に視線を戻してしまった。
 麻衣はがばっと上着を脱ぎ捨てる。下は白のブラウスだし、言われてみればリクルートスタイルばっち りだ。
「ホント、就職試験受け行くわけでもないのに、この暑いのにこの格好だもん、あつ〜。お茶入れるね ー」
 麻衣は、手でパタパタと風を送りながら給湯室へと向かう。上司の返事はないが、いつものことだ。
 クーラーのない自室に着替えに帰るより一刻も早く冷房の効いた事務所へ、と向かったまでは良かった のだが、やはり、駅から事務所までのわずかな距離で大汗をかいてしまった。
 ナルもリンも、暑い日でも冷たい飲み物を要求することはない。適温の紅茶を資料室のリンとソファに 収まるナルの傍らに置き、麻衣は自分用の冷たいお茶を持って自分の席に着く。2人とも、顔を上げも しないが、今更気にする麻衣ではない。
 まだ汗がひかず、置いていたうちわを使いながら、麻衣は今日すべき仕事のことを考える。
(昨日の続きの作業をして、後は〜)
 特にないので、また上司に指示を仰がなきゃな〜、とお茶を一口含んだところで、扉が開いた。
「あ、ぼーさんいらっしゃーい」
 麻衣は、机に置きっぱなしにしていたお盆を持ってにっこり笑顔で立ち上がる。
「お席はこちらでございます。ご注文はいかがいたしましょうか?」
「ほっほーう。ではでは、アイスコーヒーをお願いしようかな」
 滝川は麻衣の反応に、上機嫌でうながされたソファへと落ち着く。単に、麻衣は大汗かいて来たばかりで すぐに仕事を始めたくなかったので、グッドタイミングに現れた滝川にサービスする気になっただけなのだ が。
「はい、アイスコーヒーでございますね、少々お待ちくださいませ〜」
 深々とおじぎをして見せてから、麻衣は、静かにソファに収まる人物のことを思い出す。
「・・・・・・ここは、いつから喫茶店になったんでしょうか? 谷山さん」
(し、しまった〜〜〜〜っっ!!)
「お、おかわりはいかがでしょうか、所長」
 笑顔を凍らせたまま必死のフォローで更に墓穴を掘る麻衣に、ナルは冷たい視線を送る。
「下の喫茶店でアルバイトを募集していたぞ。履歴書持って行って来たらどうだ?」
「いいええ、滅相もございませんわ、所長。わたくし、この事務所のためにもお客様へ誠心誠意、応対 しなくてはと、ええ」
「おや、麻衣ちゃん、珍しい格好してんね〜」
 滝川が助け舟に話をそらしてくれるのに、麻衣は口早に事情を説明する。その間に、ナルはつまらなげに 資料に意識を戻してくれた。助かった。
「・・・・・・この暑いのにね〜。じゃ、アイスコーヒーね、ちょっと待ってね」
 お盆を前に抱えて、麻衣はくるりと2人に背を向け給湯室へと駆け込んだ。
(ああもう、あんまり暑いから〜。失敗失敗)
「うひゃあっ」
 つくりおきのアイスコーヒーを出したところに、滝川がひょいと給湯室に入り込んできた。
「ど、どしたの、ぼーさん」
「いや、麻衣・・・・・・。ものは相談なんだがな」
 つかつかと滝川が歩み寄るのに、麻衣はあまりの勢いに負けておたおたと下がってしまった。
「な、何?」
 奥まで追い詰められ、麻衣は汗に湿った背に、冷えた壁の温度を感じた。すぐ目の前に、身をかがめた 滝川の顔がある。
「内緒の話なんだが・・・・・・」
 言いながら滝川が耳元に顔を寄せてくるのに、麻衣はとっさに身を縮める。
(な、何〜〜〜!?)
「何やってるんですか、滝川さん」
 ナルの声に、滝川が身を起こす。
「え? いや、ちょっと、内緒話・・・・・・」
 麻衣はほっと息をつく。ナルが給湯室の入り口に立っていた。
「内緒話って、何よ〜」
 おどかされた麻衣は、恨みを含んだ声でポリポリと頭をかいている滝川に言う。滝川は、ナルと麻衣を 見比べている。
 ナルがため息を落とした。
「麻衣。後ろをちゃんと閉めておけ」
「は?」
 それだけ言って、ナルは給湯室から離れて行く。麻衣は後ろを見る。
 扉も窓もない。ただの、壁。
 何のこと? と麻衣が無言で滝川を見上げると、彼はまだ頭をかいていた。
「後ろって、壁だよ」
「あ〜、その後ろじゃなくってなあ・・・・・・」
「はあ?」
(後ろじゃない後ろで窓でも扉でもなくて閉めなきゃいけないもの・・・・・・?????)
 はっと、麻衣は手を後ろにまわす。
「そう、それ」
 滝川は困った顔でうなずいた。
「う・・・・・・うっそ〜〜〜〜っっっっ!!」
 で、あって欲しかった。切実に。
 滝川は頭をかきながら給湯室を出て行く。
 麻衣は両手を後ろにまわした。
(あ、あ、あたしの馬鹿〜〜〜〜っっっ!!)
 そうして、開ききっていたスーツのミニスカートのチャックを閉じた。

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