蝋燭のか細い明かりだけとなった薄暗い部屋の中に、粛々とジョンの声が流れる。
「なんか、かわいそう」
「ん?」
「ケンジくん。せっかくお父さんに会えてよろこんでるのに」
麻衣と滝川の会話を聞くともなく聞きながら、ナルはリンの腕にしがみついている少年の様子を注視していた。
不安げに、そして哀しげに、祈りの言葉を連ねるジョンを見ている。リンの袖をしっかりと掴み、それだけをよりどころにして。
幼い頃に生き別れた父親の面影を、リンの姿に求めた彼。
そんな彼の心情を、ナルは思う。
彼には、自分が他者に依り憑いている自覚がない。
何故自分がここにいてはいけないのか、父親から引き離されなくてはならないのか。自分の死に自覚がないのだから、さぞ理不尽に感じていることだろう。
いつものように追い出されてしまったら、父親からまた引き離されてしまう。
自分が自分であることが、おかしいはずはないのに。
自分がここにいることが、間違っているはずはないのに。
なのに、何故・・・・・・?
自分を置いて行った父親への執着。リンに飛びついていった彼。父親だと信じ切って、リンに向けた笑顔。袖にしがみつく姿。
「イン・プリンシピオ」
ジョンの声に重ねて、ナルは記憶の底で発した自身の声を聞いた。
(お父さん)
それを掘り出した自分に驚いた瞬間、
(おとうさん)
耳元で、子供の声を聞いた。
「イン・プリンシピオ」
ジョンの言葉に、かたわらの少年の体が揺らぐ。
リンは、その軽い体を受け止めた。
慣れない子供の相手はひどく疲れる。
ほっと息をついた途端、耳をつんざく激しい音が部屋を走った。
(ラップ音か)
ビデオは回っている。音は記録されただろうか。リンは何か指示が出るかもしれないと思い、少年を立たせながらナルへと視線を上げた。
即、目が合った。
「・・・・・・」
リンは、我が目を疑った。
わずかに目を見開き、自分をみつめているナル。
ゆるく前に踏み出した動きの、その頼りなさ。
(これは、誰だ・・・・・・?)
「わっ・・・・・・!」
驚いている暇はなかった。ふらりと動き出したと思ったら、次には首に飛びつかれていた。
受け入れ態勢ができていなかったリンは、その勢いに尻餅をついて転げてしまった。
「ナ、ナ、ナ、ナル・・・・・・!?」
ひっくり返って床に転げているリンにのしかかるようにして、ナルがその顔をのぞき込む。
リンは混乱した。目の前にあるこの瞳。ナルではない。この懐かしい柔らかい瞳の色は、まるで・・・。
ナルが、ふわりと笑った。彼の兄の、笑顔そのままに。
「ジー・・・・・・!」
その名を呼びかけたリンの声は、危ういところでとめられた。
にっこーーーっと笑んだ目前のあどけない子供の安堵顔には、睨まれるよりはるかに大きな威力があったのだ。
「ナ、ナル・・・・・・?」
「ま、まさか・・・・・・?」
唖然とその光景に見入っていた麻衣と滝川は、ようやく口を開いた。これは、まさか・・・・・・!?
「す、すんまへんすんまへん〜〜〜〜〜!!」
ジョンは真っ青になって十字架を握りしめ、悲鳴に近い声をあげた。
「し、渋谷さんの中に、入ってしもうたみたいです〜〜〜〜〜っ!!」
その悲喜劇に、その場にいた誰もが、顔を引きつらせ硬直した。
ただ一人、満面の笑みを浮かべたナルを除いて。
「・・・・・・ははははは、こりゃまた、なんといっていいのやら・・・」
にっこにっこと笑みを振りまきながら、愕然とほうけて座り込んでいるリンにまとわりつくナル。
笑っちゃう光景なような、それでいて不気味なような、だけれどもかなりまずい状態だったりなんかもしちゃうような・・・・・・。
滝川は、どうしたもんかと頼れないリーダーの姿を眺めやる。
あどけない顔に浮かんだ笑み。嬉しそうな目でリンを見上げる素朴な様子。
あとで使い慣れない筋肉の酷使しすぎで顔が痛むんじゃないかと心配になった。
しかして、こうして見ると、さわやか、かつ、かわいいという超絶美少年・・・・・・。
そういやこいつ、まだ17だったっけかと、滝川はため息を吐き出した。
普段、年齢不相応な落ち着きで年齢不詳の男が、実年齢通りこして、おおめに見ても中学生になるならずの少年に化けてしまうとは。
気を持ち直したリンがナルの両肩をつかんで揺すぶって呼びかけるのに、当の本人はきょとんとしている。
顔も心情も現状も複雑怪奇摩訶不思議。これはとっととなんとかせねばこちらの神経がやられちゃうわー。しかしてどないせーっちゅーんじゃ! と、滝川は内心ひとりごちた。
「・・・・・・どうする?」
かたわらで頭を抱えているジョンに話を振ってみる。憑依した少年を落とせるのは、ジョンしかいない、のだ、が、しかし・・・・・・。
「こんなん、初めてですわ。すぐ次に憑くなんて。しかも、よりによって、なして渋谷さんに・・・・・・」
「落としてみるか? あれ」
「無理、ちゃいますやろか。僕と、渋谷さんでは」
滝川は、ちらりと麻衣の様子をうかがう。静かだと思ったら、壁にへばりついて肩を震わせていた。
「まあ、な。落とせたところで、どうなると思う?」
「ちょっと抵抗ありましたし、またすぐ他のお子に憑くかもしれません」
「何にせよ、怒っちゃうよなあ」
「さいですね」
「ふむ」
それならそれで、現状を利用する手に出るべきだろう。
滝川は、ぽんと手を打った。
「ナル・・・・・・」
何を言っても通用しない。リンは、ナルの両肩に手を置いたまま、がっくりと首を落とした。・・・・・・疲れた。
いったい、何故こんなことになったのか。霊自体は、精神力に優れたナルに力づくでとり憑けるような強力なものではないはずだ。
まさか、ナルが進んで受け入れたはずもない。霊媒だったジーンならいざ知らず・・・・・・。
そっと、前襟をつかまれた。顔を上げると、ナルが両手で襟をつかみ、すがるような目でリンを見上げていた。
リンは、初めて彼らに会った日のことを思い出した。この表情を見た。ほんの一瞬間だけ。
(ジーン・・・・・・)
瓜二つの、双子。
(ああ、そうか)
たった二人きりの兄弟。
実父母を失い、孤児院で暮らしたこともある。
この教会の子供たちを、自分を置いて行った父親を想うケンジを見て、ナルがなんとも思わないはずがなかったのだ・・・・・・。
「おおい、ケンジ。ステッキやろーぜ、ステッキ」
ぽんと手を打って、滝川が声をかけてきた。ナルが、怪訝そうに滝川をうかがう。襟をつかむ指に力が入った。
「大好きな遊びだろう? お父さんも一緒にさ。ほれ、外行くぞ」
リンと目が合うと、ウィンクして見せる。何か企みがあるらしい。
リンは、そっとナルに手を離させた。見上げる彼の片手をとる。
「行きましょう」
手を引かれて立ち上がったナルは、きゅっと手をつかみなおし、嬉しそうにリンを見上げ、にっこりと微笑んだ。
(大丈夫なのかなぁ)
麻衣は、滝川の提案でぞろぞろと外へと向かう一同の先頭を進みながら思った。ちろりと見れば、リンとお手々繋いで機嫌良くにこにこしているナル・・・・・・。
「あ、しまった、ビデオとってくるね」
麻衣はくるりとUターンする。この記録は是非とも残さねばなるまい。
「嬢ちゃんには重かろう、手伝っちゃる。ジョン、先に行って子供らに話つけといてくれ。人数多い方がいいだろう。な、ケンジ」
ナルがにっこりと笑みを返す。
(うっひゃあ〜〜〜っっっ!! 夢のナルだあぁぁぁっ!! やっぱし、あれってナルの夢? ちゃんとこんな顔もできんじゃんナルーっっっ!!!)
と、すっかり相好を崩して麻衣が廊下を走っていると、ひょいと横から滝川が顔をのぞき込んできた。
「うきゃっ! ぼ、ぼーさんも来たの!?」
「ちゃんとそうゆーたろーがっ。まったく、麻衣ちゃんのめんくいー」
「そ、そんなんじゃないよっ!」
とはいえ、夢の話はできない。麻衣はあわただしく部屋に入ると、三脚ごとカメラをかついで逃げるように戻る。
「んなに慌てんでも。持ってやるって」
「いいっ、これはうちの仕事ーっ!」
しかし、コンパスの差を考えれば、ただでさえ走るのは滝川の方が速いのだ。そこにビデオのハンデが加わって、麻衣が逃げ切れるわけがない。
「麻衣、ケンジにくっつけ」
外に出る前に、滝川がそっと耳打ちする。
「へ?」
「最後に隠れた場所に案内させるんだ。リンじゃあどうもこころもとない」
麻衣は、足をゆるめて扉に手をかける。
「みつかれば、ケンジ君・・・・・・」
「の、はず」
わあっと、子供たちが散って行った。鬼はお父さんリン。
やむなく、ナルはリンから離れて駆け出した。
「ケンジ君っ」
麻衣は、教会の裏へと走るナルに声をかけた。
「ねえ、お姉ちゃんここ初めてだから、どこに隠れたらいいかわかんないの。お願いだから、一緒に隠れよう」
立ち止まったナルは、棒を片手に困り顔で麻衣を見る。
「お願い、一回だけでも。ねえ、みつかったことのないところに隠れようよ。ケンジ君、隠れるの得意なんでしょう? お姉ちゃん苦手なのよ〜、お願いぃぃっ」
麻衣が必死にかつにこやかに手を合わせて頼み込むと、ナルは辺りをキョロキョロと見回す。めぼしい場所をみつけたのか、彼は麻衣へ片手を差し出した。
麻衣は、その手に自分の手を預けた。きゅっと軽く握られる。
(うっきゃあ〜〜〜っ!)
あご先で隠れる方角を示してから駆け出したナルに手を引かれての、逃避行。ざまあみさらせ、真砂子! と、麻衣は心中で高笑いした。
(・・・・・・って、木の陰かい)
モミの木と植え込みとの陰に隠れたはいいものの、こんなところに子供が隠れていて三十年見つからないはずがない。
やけになったかのように「もーいーかいっ!?」とリンの声が聞こえ、あちらこちらから棒でものをたたく音がする。ナルもまた、後ろのフェンスを棒でガンガンとたたいた。
「ねえ、ケンジ君。リ・・・お父さんが探しに動いたら、表に戻って隠れ直そうよ。そうすれば、先に向こう一回見てるだろうから、みつかりにくくなるんじゃないかな。ね?」
ナルは麻衣をちらりと見上げると、すぐにうつむいてまた膝を抱えてじっと動かなくなった。
(どうしよ。リンさんみつけないでよー)
あちこちで子供たちの歓声があがる。やがて、リンが裏に姿を見せた。
しかし、麻衣たちの方へはまるで気づかなかったかのように他の子をみつけ、反対方向へと歩み去って行った。
「ね、今のうちに場所変えようよ」
今度は、ナルもこっそりと動き出した。
「今まで、みつかったことのないところへ。ねえ、誰にもみつけてもらえなかった場所はどこ? そこに隠れようよ」
その言葉に、ナルが麻衣を振り返る。ちょうど、教会の陰に入ったところだった。ナルは黙って首を振る。
「え? 駄目なの?」
ナルはこくりと頷いた。
「なんで? 二人で隠れられないところ?」
ナルは少し考えて、やはりこくりと頷く。
「じゃあ、一人なら隠れられるの?」
今度は首を振った。
「ええ!? お姉ちゃん邪魔なら、わかれてもいいよ? ね?」
首を振る。
(なんじゃいこりゃ、なぞなぞかぁ!?)
麻衣は、片手で腕を組んで考え込む。手を繋がれ引かれながら、連れて行ってもらえないならばせめて誘導尋問に成功せねばと頭をひねった。
(二人は隠れられないスペースで、でも一人でも駄目で、けどみつからないところって、んーーーー????)
はたと、閃いた。ケンジがいなくなった時の話。工事中の教会。崩れた足場。その下には誰もいなかった。それじゃあ、もしや!?
「じゃあ・・・・・・、今は、隠れられない、ところ、なの?」
ナルは振り返り、頷いた。
「それって・・・・・・」
(まさか、あれは・・・・・・)
「それって、高いところ?」
こくんと頷く。繋ぐ手が冷たいことに、急に気づいた。
「あ、足場がないと、登れないところなの?」
ナルが立ち止まる。いつもの無表情。いや、違う。これは、ナルの顔じゃない。
「ケンジ君、君、・・・・・・まだ、・・・・・・そこにいるの?」
二人はすでに、教会の表に出ていた。滝川とジョンだけが、木に寄りかかってそこにいた。みつかった子供たちは教会の中に戻されたのだ。
ナルは麻衣を見つめ返したまま、青ざめて立ちつくしていた。ナルの背後に、麻衣はリンの姿を認めた。
「・・・・・・ケンジ君。お父さんが、見つけてくれるよ」
ずっとずっと、彼は待っていた。寒くて寂しくてそれでもずっと待っていたのだ。
誰かがみつけてくれるのを。お父さんが迎えに来てくれるのを。
麻衣の涙声に、リンは立ち止まる。麻衣が、ナルの肩越しに笑んでみせた。
「ほら、ケンジ君、お父さんが迎えに来てくれたよ」
ナルが後ろを振り返る。麻衣はリンに言った。
上を指さして。
「ケンジ君はあそこにいる」
リンが、滝川が、ジョンが教会を振り仰ぐ。
「迎えに行ってあげて。ケンジ君のお父さん」
教会の大きな扉。その上の三人の天使像。その、左の像の、足元。
像の足元に、頭蓋骨がのぞいていた。同じような白い色。
一緒に三十年分の汚れをまとい、彼は天使達とともにそこにいた。
「つまり、ケンジ君は、一度裏の焼却炉の枠にのぼろうとしてホイッスルを落とした。しかし、その辺りに
隠れるのはとりやめた。と」
「そして、まだ建築中で組んであった足場を上りんさって、あの像の後ろに隠れたんですやろか」
「その足場が、折からの雨風で壊れてしまい、ケンジ君は取り残された。
すでに足場は不要だったため組み直されることはなく、また、ホイッスルも棒も持っていなかった上に声を出すことのできなかったケンジ君は、助けを求めることができなかった」
「で、冬場の雨と風にさらされて衰弱して死んだ。それが長い年月で白骨化して、頭蓋骨だけが見える位置に崩れた。しかし、像と同色だった上に、教会という場所柄、不自然さが感じられず、これまで気づかれなかった。と」
「そういうことでしょうね」
「昔からいる人は、いちいち見上げねえもんなあ」
滝川とジョン、そして、リンの三人は、温かい飲み物で暖をとりながら、警察の到着を待っていた。
麻衣がケンジの居場所を示してから、大慌てで長い梯子を調達してもらい、リンがのぼって子供の白骨死体を確認した。
その様子をじっと見上げていたナルは、「みつけました。全部そろっています」というリンの声に、がくりと膝を折った。
脇にいた麻衣がとっさに支えたので倒れはしなかったものの、体は氷のように冷え切っており、小刻みに震えて声も出せない。
今は、麻衣に付き添われて借りた部屋で休んでいる。
「しっかし、よくぞナル坊に憑依できたもんだよなあ。なあ、リンさんや」
話を振られて、リンはカップの中に視線を落とした。
「ラップ音に驚いて、隙ができたんでしょう」
「はあ、確かにありゃすごかったがあ・・・・・・」
それだけでは、納得いかない。このメンバーなら、もっとも憑依しやすいのは麻衣だったろう。
滝川はリンの様子を伺う。さきほどまでの動揺はきれいにぬぐいさられ、いつもどおりの無表情でカップを口に運んでいる。
(こりゃあだんまりだな)
何か憑依される要素があったのだろう。しかし、それが明かされることはない。滝川は、諦めて息を吐いた。
「まあ、目の保養になったかな」
暖かい部屋で毛布にくるまり、温かい飲み物を飲んで、ようやく体の震えもおさまってきた。
「おかわりもらってくるね」
そう言い置いて、麻衣がカップを持って部屋を出て行く。一人残されて、ナルは毛布を首に引き寄せて窓の外に目をやった。
木と空が見えた。
三十年以上もの間、誰かにみつけてもらうことを待ち続けた少年は、無事に成仏したのだろうか。
父親に迎えに来てもらって、安心して逝けただろうか。
(お父さん)
記憶の底から這い出してきた、自身の幼い声。
どんな感情を持って、彼に呼びかけたのだったか。
ぼんやりと記憶を探る。しかし、真っ白な記憶にあたっただけだった。
考えても、意味のないことだ。
考えることをやめて、ナルは目を閉じた。
それだけで、体がふっと楽になる感じがした。
だから、少しして戸を開く音が聞こえたけれど動くのがおっくうで、ソファの背に頭をのせたままじっとしていた。
「ナル・・・・・・?」
小声で様子をうかがう声。リンだ。
わかったけれど、瞼がひどく重かった。
そっとすぐそばまで歩みよってくる。
それでも、動きたくなくてナルは寝た振りをした。
髪をそっとなでる手。大きな手。
「・・・・・・おやすみなさい」
優しい声が聞こえた。
何故だろう。
それは、ひどく心安らぐ言葉だった。
ナルは、やわらかい空気に包まれるのを感じた。
記憶の中へ引き込まれていく。小さな小さな子供の頃へと。
(ジーン・・・・・・)
小さな少年の笑顔が見えた。
そのかたわらに立つ二つの影も。
ナルは、眠りの中に落ちていった。