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お引越し(2001.1.15)

「なるほどね」
 事情を聞き、ナルは不穏な目つきで滝川を見る。
 対する滝川は澄ましたものだ。自信満々。SPR事務所を訪ねてからすべての説明を終えた現在まで、 ご機嫌この上ない。
 リンはいない。安原も麻衣も学校だ。そんなわけで、事務室のソファで本を読んでいて来客を出迎えた 所長自らが茶を入れた。つくりおきのアイスコーヒーのおかげで簡単だったのだが。
 ナルは、自分で入れた紅茶を口に含む。滝川が持ってきた一枚の図面を見ながら。
「その立地、その広さでこのお値段だぜ? こんな物件どこ探したって似たような欠点つきでしかありゃ しねえって。どだ? この不動産屋だったら俺が保証人でもO.K.だぜ?」
 駅から徒歩8分。15階建てマンションの3階、2LDK。間取りも広い。管理人も常駐だし、警備 システムもある。鉄筋マンションで築15年なら、不良建築でなければ問題ないだろう。
 それでいて、家賃は破格。そして、定職とは呼べない仕事をする滝川を 保証人に、収入は安定しているものの未成年の外国人に部屋を貸してくれる。
 文句はない。ナルも日本の住宅事情はある程度は把握していたので、滝川に外国人に部屋を 貸してくれる不動産屋に心当たりがないか尋ねたときにも、これだけの物件が 出てくるとは想像していなかった。唯一の欠点を除けば。
「中を見れるかな?」
「ああ、連絡いれれば、今日でも案内できるってさ。明るいうちならって条件つきだが」
「では、もうすぐ安原さんが来るはずですので、それから」
「ほいほ〜い。んじゃ、連絡しとくわ。電話借りっぞ」
 滝川が不動産屋へ連絡を入れるのを聞きながら、ナルはもう一度図面を見やる。図面の下方に設備等 について注釈があり、更に下には、特記事項の欄。
『怪異の訴えによる転居×正』
 コピーの色が薄いところを見ると、鉛筆書きらしい。滝川によれば、この1年の間のこと。しかも、 すでに半年借り手がつかず、空き部屋になっているという。
 ナルは所長室に戻り、地図で建物の位置と周辺の施設をチェックする。目指す施設を発見し、タウン ページで電話番号をみつけると、滝川がまだ通話中なのを確認しつつ、受話器を上げた。

 滝川と不動産屋とナルの3人がその部屋に着いたのは、初冬の夕暮れ時だった。
「あまり時間はありませんが、どうぞ」
 暗くなったら部屋を出る、と、断固として主張する不動産屋に、滝川がナルに苦笑して見せる。室内を 見ると、内装を替えてあまりたっていない様子だし、造りもしっかりしているらしい。見るべきポイント は調査活動のおかげでよくわかっている。文句をつける場所は特にない。建物の外観も、管理人も悪く なかった。
「どうだい?」
 滝川に小声で訊かれて、ナルはうなづく。
「悪くない」
「そかそか。じゃあ、問題は、アレだけな」
「そうだな」
 滝川は、心得たとばかりに笑んで、不動産屋へ体を向ける。
「まーちゃん、で、問題の部屋はどれよ?」
「はあ? おいおい、のりちゃんよー」
「だあいじょうぶ、こっちのお兄さん、ちゃんと承知してっから。あっち? こっち?」
「・・・・・・西側」
 問題の部屋は、北と西に窓が一つずつあるきりで、収納もない。窓はいずれも、腰の高さより上にあっ た。
「ほお〜。ここの窓から身を乗り出しかけて、我に返ったって話?」
「・・・・・・北側」
 若い不動産屋の2代目は、ナルの様子をうかがいながら返事をする。
「どーれどーれ、まーちゃん、こんな感じ?」
 2代目がナルを気にしているうちに、滝川はすたすたと問題の北側窓に歩みより、開け放つ。そればかり か、上半身を乗り出してみせた。
「わ、やめろ〜っ! 引っ張られたらどうすんだ! もう薄暗いんだぞっ! 冗談でもやめろ!」
 大慌てで飛びついた必死の2代目に、滝川は部屋に引き戻される。2代目がそのまま一緒に引き落とされ る覚悟を決めていたかのようにしがみついて固まっている様子に、おやおやと窓を閉めた。
「何? おまえ、見ちゃったの?」
「こ、こないだ、他の客案内してて、そしたら、女が後ろ姿でここ立ってて、飛び降りたんだよっ。 すぐ下見ても誰もいないし。ここで落ちたヤツなんかいないはずなのに!
 やめてくれよマジでよ〜。これで死人なんか 出たら借り手も買い手もつきゃしない。二束三文になっちまう。頼む、不景気なんだからよ〜」
 滝川にしがみついたまま泣き言を言う不動産屋に、ナルは開いたドアにもたれたまま、あっさりと言 う。
「また、明日見せていただけますか?」
「へ?」
 断られると思い込んでいた2代目が、きょとんとナルを見返した。
「午前中の日の入り方もみたいので。明日には決めますから」
 にっこりと笑んだその美貌に、不動産屋は滝川に抱きついていることも忘れて見惚れてしまった。
「は、はいっ。で、では、明日、下のロビーでお待ちしておりますので、何時に」
「そちらの営業が始まるのは?」
「10時ですが、何時でも構いませんよ」
「では、10時半に。よろしいですか?」
「はい、で、では、暗くなってきましたし、今日はこのへんで・・・・・・」
 2代目は滝川を突き飛ばし、満面の笑顔でナルと共に部屋を出て行った。
 滝川は、ナルの笑顔で舞い上がってしまった男を気の毒に思いながら、ドアに歩みよる。
 首尾よく、内開きのドアの影に小型ビデオカメラが設置されていた。

「で?」
 不動産屋2代目まーちゃんと別れて、滝川はロビーを出て駅と反対の方角へ向かうナルに続く。
「僕は、裏に泊まる」
 事務所でマンションの裏手にビジネスホテルがあることを確認したナルは、事前に部屋を予約し、不動産屋と 落ち合う前にチェックインして観測機材を設置しておいたのだ。そして、滝川が不動産屋の気を引いて いる隙に、コートに隠していた小型カメラをしかけたのである。コートと笑顔で、まーちゃんの目を ごまかしきった。
「んで、明日はカメラを回収するだけか?」
「ああ。条件としては悪くないし、音が何も拾えなくても契約するつもり。拾えたら、調査するけれど。 経費の請求先が自分になるな」
「はは。奴ら、依頼する気なかったからな〜」
「もし本物で、クリアなデータがとれるようなら住まずに借りててもいいんだが」
「んでも、俺がみつけてくるのなんて似たりよったりよん?」
「いいデータがとれるなら、経費で落とす。そのうち、ハズレで住めるのがみつかるだろう」
「・・・・・・がんばりまっす」

 深夜、2時。
 ナルは、無線で飛ばされてくる荒い映像の中に、白い影を見出した。
 街灯の光が射し込む部屋の中をゆらゆらとさまよう白い影と、数度のラップ音。
 ナルは、調査のための段取りを考えはじめていた。

「お借りします。契約を進めてください」
 ナルの言葉にまーちゃんが浮かれる隙に、滝川がカメラを回収した。
 そうして、賃貸契約の準備が進むのにあわせて、密かに調査の準備も進められていったのである。

 晴れて契約が成立した12月10日。ナルは、昼のうちにリンと2人、機材を運び込みセットした。 初日は無人のままカメラをまわし、翌日画像と音をチェックしたところ、ラップ音が2度ほど記録されて いた。時間は、やはり深夜2時。
「『人』がいないと、この程度らしいな」
 3日間見張っても、よくて白い影が通る程度。
「泊まりこみますか?」
 資料室でリンの後ろから映像や分析結果を見ていたナルは、部屋の図面を放り出す。
「明日、電話が通る。リビングにベースを。ぼーさんも呼ぶ」

 空っぽの部屋に、電話が1台あるきり。電話工事に来た電話局員が帰るなり、ナル たちは機材の運び込みにかかった。
 管理人のおじさんには仕事の説明もしてあり、理解を得ている。両手がふさがっている彼らのために、 エレベーターのボタンを押して協力してくれた。
 機材を設置し、日が暮れる前に一度部屋を無人にする。そうして、滝川と外で待ち合わせてから、 暗くなった部屋へと舞い戻ることとなった。
「安原や麻衣は?」
「安原さんには、女の素性を調べてもらいました。麻衣は、テスト休みですよ」
「あ、そうか。期末テストのシーズンか」
 滝川はぽんと手を打った。下げていた手提げ袋が重そうに揺れる。
「で? 女の素性ってのは?」
「ぼーさんが聞いてた通り、1年前まであの部屋に住んでいた水島の元恋人。篠原真理、当時23歳、死亡 の1週間前に、会社も人員整理の対象になって辞めさせられていた。水島と別れたのは、死の1ヶ月ほど 前」
 説明をしながら、エレベーターに乗り込む。幸い、他に乗り込む住人はいなかった。
「この裏のビジネスホテルにチェックインして、窓を壊して 飛び降りた。騒ぎに驚いた水島も、窓から死体を見たそうだ。その時はまさか自分と別れた女だとは思わ なかったと言っている」
 つまり、ナルが泊まったホテルでのことだ。
「彼女は即死だ。ポケ ットに遺書が入ってた。『私は誠実に生きてきました。シンリ』」
「『シンリ』? ああ、『真理』の代わりの署名か」
「水島が以前つきあっていた女の中に同名の女がいたんで、彼女のことはシンリと呼んでいたんだそう だ」
「はあ〜ん」
 3階に、男3人で降り立つ。2部屋しか入っていないので、スペースは四畳半ほどしかない。
 ナルが部屋の鍵を出したところに、滝川がストップをかけた。
「もう、記録始めてんだろ?」
「はい」
 手提げ袋の中をごそごそやりだした滝川に、リンが答える。
「じゃあ、最初っからいこう。主に奥の部屋にいるってだけで、どこでもうろつくんだろ? シンリち ゃんは。ほうれ、用意万全っ」
 滝川が出したものに、ナルは軽く目を見開き、リンは逆に眉をひそめて目を細めた。
「友人にビジュアル系バンド組んでるヤツがいてな。ファンからのプレゼントだとよ。サイズでかいし、 ほれ、着れる着れる。で、これもプレゼントだってさ。ほれ、完璧?」
「・・・・・・・・・・・・」
 ナルとリンは、しばし言葉もない。
「・・・・・・駄目か?」
 滝川が、くるりと後ろを向いて顔だけ寄越して尋ねる。
  「・・・・・・脱げ」
 苦虫をかみつぶしたような顔をして、ナルが言った。
 肩先までの黒髪のカツラと、赤いギンガムチェックにこれでもかこれでもかと白いレースを飾りたてた、 すそがふくらはぎまであるワンピース。滝川の手提げ袋の中身、だ。
「女がいると男が浮気したと思ってポルターガイスト起こすって話だから、用意してきたんだぜ? 後ろ 姿ならごまかせねーかな。それとも、髪は自前の方が・・・・・・」
「・・・・・・脱いで下さい」
 げんなりと、リンも訴える。
 後ろ姿でも、肩が張っているので一発で男だとわかる。見慣れた男の顔が赤白チェックに白レースの スカート姿で足を踏ん張って立っているのは、精神衛生上あまりよろしくない。調査を前に見たくない ものだった。似合う似合わないは、別である。
「じゃあ、ポルターガイストは諦めるか? それとも、リン、おまえやる?」
 滝川に外したカツラ差し出されて、リンはため息を落とす。
「こんな長身の女がいるわけないでしょう」
 想像した滝川が複雑な顔をする。ワンピースの長さが足りず、足がどこまで見えることになるかを 思い描いてしまったのだ。
「うだうだ言ってないで、とっとと脱いでくれ、ぼーさん」
 ナルは、受け取り手を失ったカツラを奪いとり、服を脱ぐために手を空けさせた。

「SPRの給料ってのは、安かねーよな?」
「安いとは思いませんね」
 小声で話し合うリンと滝川を、ナルが睨みつけた。
「今回の調査の主目的は、調査に適した対象であるか見極めることだ。除霊するかどうかは、その結果次第。 まあ、あまり期待はしていないがな」
 除霊をせずに観測用に保全しておく気になれる霊というものは、あまり存在しない。
 人の訪れる場所に現れるからこそ、調査の依頼がくるわけだから、当然、依頼者はその排除を望む。今回、 その点はクリアしているのだが、たまに白い影が映る程度の霊のために、多額の経費を計上する気にはなれ ないのだ。
「保全用のあてがなければ、依頼人は僕だからな。あまり、経費はかけたくない」
 調査の私的利用を後でつつかれるような面倒な事態は、避けたい。
 ナルは、部屋の鍵を開ける。
 女性が現れると、ポルターガイストを起こす対象。しかし、女性陣を新たに呼べば、人件費がかかる。 危険も大きい。
 ナルの後を、リンと滝川がついて入った。ナルの後・・・・・・赤白チェックのワンピースの後を。
 リビングに向かい、モニターをみつめる女の姿。
 女性にしては太めの眉は、そろえたカツラの前髪に半ば隠され、目立たない。肩先まである髪に白い頬 が引き立ち、モニターをみつめる憂えがちな目に色気を添える。
 いかり型の肩をしているものの、細い ラインは後ろ姿でも性別を疑わせない。
 スカートは足首にまで達しており、やや無骨な靴と体型のでこぼこ のなさと身のこなしの違和感さえなければ、十分、女に見える。
 それも、美女に。
「不在の間の異常は?」
「ありません」
 できることなら、黙っていてくれれば。
 胸元と手首のひらひらレースをもう少し気にして、腕を組んでくれれば・・・・・・。
「暖房入れるか」
 もう少し、歩幅狭く歩いてくれれば・・・・・・。
 空調のスイッチを入れて、ナルは怪訝そうに滝川を見た。
「何か?」
「・・・・・・なんでもありません」
 女装したならしたで、もう少しそれらしくして欲しいと切実に願う滝川であった。

『誰・・・・・・・・・・・・?』
 深夜。廊下に出たナルは、その声に奥へと視線を向ける。
 設置されたカメラを背に立つ、女性が1人。
 ナルは、閉じかけたドアを軽く叩く。声を出しては男だと気づかれてしまう。リンがキーボードを叩く 音が聞こえ、滝川が駆け寄って来た。
「ご登場か?」
 ナルは無言でうなずき、廊下を一歩進む。滝川がその後ろについた。
『その女は誰? 水島さん・・・・・・』
 女は、滝川を元恋人と認識したようだった。
「やあ、シンリちゃん。いらっしゃい」
 滝川は、軽く答える。
「紹介しようか? ・・・・・・この子は、新しい彼女だよ」
 そう言って、ナルを後ろから抱き寄せる。
 シンリが、カッと目を見開いた。
 滝川は、ふいに抱き寄せられてバランスを失っていたナルをドアが開いたままのリビングへと突き飛 ばし、即座に九字を切る。声無き悲鳴を発した女から放たれた何かが、廊下の照明を粉々に砕いた。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 滝川の声に、シンリはふわりと宙に舞い上がり、消えた。
 同時に、バシリと大きな音をたて、シンリの背後にあったカメラが吹っ飛んだ。

「駄目ですね、これは」
「・・・・・・・・・・・・」
 カメラは、リンによって臨終を告げられる。
 ナルの冷たい視線を浴びて、滝川は声もない。
 霊の代わりに、高価なカメラを破壊してしまった。
「予備のカメラを取りに行ってきます。滝川さん、ナルをお願いします」
 リンがカメラを担いで出て行き、2人で細かく散った破片を片付ける。背後の壁紙もカメラがぶつか ったことで傷ついていた。
「あー。すまんねぇ、ナルちゃん」
 新住人を受け入れるため、綺麗に改装された部屋を、住む前から破損してしまった。
「これくらい、気にならない」
 本心であるとわかるので、滝川もそれ以上は言わない。
 片付け終えた頃リンが戻って来て、カメラを再度設置しなおす。それから、記録を再生して見た。
 廊下にナルが出るのとほぼ同時に、カメラの前に立った霊の姿。近すぎて、それは靄がかかったよう にしか見えない。滝川が出てきて、ナルを抱き寄せる。直後、全ての機器がエラー表示に化けた。
「珍しいのが撮れたな」
「そうですね」
 ナルがつぶやき、リンが認める。滝川は首をかしげた。
「霊の接写映像だ。5インチと離れてない」
「ほお」

 ナルと滝川は、西側の部屋に移動する。
 この部屋にだけ、姿見が設置してある。ナルは、その表面に手を触れた。
『ジーン、起きてるか?』
『起きてるよ。楽しそうだね、ナル』
 女装姿のことを言っているらしい。もっとも、鏡に映るジーンの姿もまた、赤白ワンピースに白 レースたっぷりなのだが。霊に不審がられるほどの違和感はないなと、ナルはその姿を見て思う。
『彼女は?』
『いるよ。部屋の隅に。まだ、気づいてない。時間の問題だろうけど』
 部屋の中には、様々なものが転がっていた。
 丸めた紙、クッション、空き缶・・・・・・そして、観測機器内蔵のぬいぐるみ。
 もちろん、カメラ等の機材も構えている。
 ポルターガイスト現象が起きても、比較的被害を抑えられる物を転がしておく。重量のある機材までも 吹っ飛ばしてくれるようであれば、観測不適当な対象と判断することとなり、除霊が必要となる。
『チャージする』
 除霊は滝川の仕事だが、用心にこしたことはない。
 トスした力が育って戻ってくる。繰り返す内に高まっていく内側の熱。手のひらの熱さ。
 ナルは、びらびらレースに隠れるウエストのリボンに引っ掛けた濡れタオルで、手のひらを湿ら せる。
 窓から、ビジネスホテルの部屋が見える。
 そこで点灯された明かりが、差し込んできた。
『彼女も、起きたみたいだよ』
 部屋の隅に、ほとんど真下を向いた女性の姿が見えはじめた。
 顔を上げた彼女は、2人を見る。怪訝そうに眺めるのを見て、ナルは、着替えた滝川の 僧衣をつかむ。途端に、シンリが目を見張った。
 滝川の背後に寄り添うようにすると、彼女は表情を無くした。
 白目で、二人を見ている。
 ナルは、寄り添うふりをして後ろへ下がる。
 シンリは、こわばらせた手を持ち上げていく。閉じていた唇が開き、口元を痙攣させながら、無言の叫び を上げた。リンは、リビングでその声を観測機器から読み取った。
 蜘蛛の巣に張り付けられたかのように髪を衣服を四方に散らし、シンリは天に向け叫んでいた。
 滝川は印を結んだまま、その様子を見守っている。その背後から、ナルがじっと彼女を観察していた。
『ナル』
 片手を伸ばして触れた鏡から、ナルはジーンの声を受ける。
『僕に』
 浄化させてくれ、と。
 哀しい鬼と化した彼女を、そのままにはしておけない、僕に浄霊させてくれ。
 たった一言から、ナルはジーンの想いを受ける。
『まだだ』
 その判断は、まだつけられない。
 叫びをおさめたシンリが、ゆるゆると視線を二人に向ける。
 カサカサと、床に散らしたさまざまなものが揺れ始めた。
「臨・兵・闘・者・・・・・・」
 ゆっくりと九字を切る滝川の後ろで、ナルは鏡から手を離す。
「・・・・・・在・前」
 カッと、シンリに黒目が戻った。
 途端、床の物が二人目掛けて弾け飛んだ。
「ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 滝川の真言と、無言で腕を振ったナルのPKとに、飛ばされた物が跳ね返り、天井や壁にぶち当たる。
 壁に当たる振動が引き金になったかのように、すべてのカメラが横倒しになり、宙に浮いた。
「ぼーさん、出るぞ」
 普段ほとんど動きを見せないにもかかわらず、いざ動くとなれば観測機材まで破壊しかねない。これでは、残す 価値がない。
 ナルが細く開けていた戸を引き開けるより一瞬早く、それは派手な音をたてて閉じられた。指をはさまれ かけたナルは、引いた手を鏡に伸ばす。浮いたカメラのレンズが弾けて割れた。シンリがまた、叫び声を 上げていた。
「オンキリキリバジリホラマンダマンダウンハッタ」
 トスした力が戻って来る。三脚をへし折りながら、カメラが宙に浮かんでダンスを踊る。肝心の 撮影機材が踊っているのだから、意味がない。
 シンリが、息を吸い込んで口を閉じた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前。ナウマクサンマンダバザラダンカン!」
 吐き出された突風に、室内のあらゆる物が滝川とナルへと跳ばされた。その風をぬって、滝川の真言が シンリへと向かう。ナルの手のひらから放たれた力が、一台のカメラを吹っ飛ばした。
「わっ!」
 とっさにしゃがんだ滝川の頭上をクッションが越え、ドアに体当たりして滝川の背中に落ちてきた。
 ナルが避けた機材によって、姿見が粉々に砕け散る。ナルはそれを避けながら、更に跳んできた観測機材 入りのぬいぐるみを受け取める。無事に済んだと思う間もなく、天井に当たって落ちてきた空き缶に頭を 直撃された。
「無事か〜い、ナルちゃん」
 滝川は向かいの壁に半ば食い込んだカメラを見つつ、言う。
 確か、自分に向かって突っ込んでこようとしていたカメラだ。急に角度を変えて吹っ飛んだところを見る と、ナルのおかげなのだろう。
「そちらは? 無事のようですね」
「おう」
 鏡の破片をかぶったナルは、ぬいぐるみを置いてワンピースを脱ぐ。ひらひらびらびらの間に破片が かなり入り込んで いるようだった。カツラをとると、そこからも細かい破片が落ちた。
「ちょうどいい盾になったな」
 女装グッズを床に落とし、ナルは北側の窓へと視線を向ける。誘われるように、滝川もそちらを見た。
 そこには、若い女性が腰掛けていた。
 肩先までの髪。細い首、ノースリーブのシャツに薄地のロングスカート。裸足で、床にはサンダルが落ち ていた。
 それは、シンリだった。
 右の手のひらをじっと見ている。そこに載せられた紙片。
 彼女は、その紙片を半分に折ると、胸ポケット収めた。そうして、窓枠につかまって、その上に立つ。
 人の背丈分ない窓にもかかわらず、壁を抜けて彼女は立った。外を向いて。
「待って」
 滝川は、驚いてナルを見る。シンリがはっと振り返った。ナルが、窓へ向かって歩きだした。
「待って。ねえ、もう、飛び降りなくていいんだよ?」
 シンリは、窓枠につかまり、怪訝そうにナルを見ていた。
「必要ないんだよ。あなたは、もう死んでいるんだもの」
 ゆっくりと、ナルは彼女へ近づいて行った。ジーンに受け渡された、ナルの体が。
「思い出して。あなたが飛び降りたのは、ここじゃないでしょう? ほら」
 そっと伸ばした手で彼女の手をとり、ジーンは外を見るよう促す。シンリは、窓の下に視線を落とした。
「ここは、どこ?」
「・・・・・・水島さんの、部屋」
「そう。彼はもう、引っ越したけどね」
 驚いた彼女を、ジーンは軽く引く。まるで実体があるかのように、彼女はジーンの動きに 従って床に下りた。ふわりと、身軽に。
「遺書を、書いたでしょう?」
 ジーンが胸ポケットを示すと、彼女はそこを手で押さえた。
「私は・・・・・・」
「うん。覚えてるね? 何を書いたか」
「私は、誠実に・・・・・・」
「うん。あなたが行きたいところは、どこ?」
「私は・・・・・・」
「見える? ほら、あっち。光があるよ」
 シンリは、顎を上げて天井を見上げた。
「少し遠いけど、行けるよ、あなたなら。だってほら、こんなに軽い」
 彼女は、両手を支えられて足元を見た。床からつま先が浮いているのを見て、軽く目を見張る。
「ね? あそこに行くために、軽くなったんだよ。行きたいでしょう?」
 再び天井を見上げた彼女は、上を見たままうなずいた。ジーンは、支えた手で上に押し上げる。シンリは、 宙に浮かび上がった。
「さようなら」
 天井を抜ける直前に、シンリが下を見た。笑顔で。
「さよなら」
 そう言って、天井を突き抜けて行った。

「駄目ですね」
 リンが宣言した。
 声は落ち着いているが、なにやら気配が怖い。滝川は、黙って臨終した観測機材に手を合わせた。
 ナルに吹っ飛ばされたカメラは一目で修理不能とわかる。他のカメラもレンズが割れ、三脚が曲がった ものもある。他の観測機材も無傷なものはない。
 ナルはナルで不機嫌の塊だ。普段冷静な機械屋まで不機嫌では、滝川としては念仏でも唱える他ない。
(なんで、麻衣もジョンもいないかな〜)
 仲間たちを懐かしんだところで、今はどうしようもない。
「な〜、ナルちゃんよぅ」
 ナルは、モニターに向かったままだんまりだ。
「なあ、俺が除霊したはずなのに、なんでまだ出たんだろうな? 彼女」
「ぼーさんが失敗したんだろう?」
「あ、ひどい・・・・・・」
 あっさり片付けられて、滝川はよろめいて泣きまねをする。が、誰も反応してくれないので、すぐに やめた。
「幽体が二つに分裂していた可能性もある。水島を道連れにしようとしたシンリが除霊された後に、死んだ ことをわかっていないシンリが現れたんだろう。珍しいが、出てくるのが遅い」
 記録できなければ意味がない。
「えーと。その場合、シンリちゃんは、除霊と浄霊、どっちになるんだ?」
「両方だろう。一部は除霊され、一部は浄霊されて向こう側だ」
「バランス悪そうだなあ」
「仕方ないだろう」
 言って、ナルは自分の頭をなでる。落ちてきた空き缶でコブができたのだ。
 ナルは、ため息を落とした。
「住む前から、改修しなくちゃな」
「ああ、壁は直さないとなあ。リフォームの会社経営してるヤツ知ってるぞ? 紹介する か?」
「お願いしますよ、滝川さん」
 無論、修繕費は経費では落ちない。
 機材は保険で済むだろうが、今回の調査費用はナルに請求書がまわってくるのだ。 女装するはめになるは、空き缶が当たってコブはできるは、鏡の破片を被るは、ジーンに体を乗っ取られ るは、住む前からろくなことがない。
 とはいえ、新たに探すのは面倒だ。

 ナルは、あっさり諦めて部屋の傷を直し、リンのつくった請求書を受け取り、支払いを済ませ、 引越しも済ませた。
 転居して一週間がたったある日・・・・・・。
 ガチャーンッ、と、皿が割れた。
 エレベータを降りたナルの目の前を飛んでいった、皿が。
 そして、降りようとしたナルの目前に、しゃがみこみ頭を抱えた男が一人。
「あら? ごめんなさい」
 声に振り向くと、唯一の隣家の奥方だった。よく見れば、しゃがんでいるのはその夫だ。
「足元に気をつけてくださいね。あ、これはちゃんと片付けておきますから。ごめんあそばせ」
 にっこり笑顔な若奥様の無言の圧力に、ナルは何も見なかったふりをして部屋に入る。扉を閉めた 途端、男の悲鳴。
 ナルはその後たびたび、隣家の夫婦喧嘩に巻き込まれることになるのであった。

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