柊は、深く眠る名取の顔を見ていた。
瓜姫と笹後はいない。名取の神の気がまだ強すぎて、紙人形に寄り付いた状態で懐に入ることができなかったのだ。柊だけが、車に同乗し、ついて来た。
柊は、妖といっても元は山守。神よりは妖に近い、という存在だった。呪術師の中には、古来からの八百万の神々も妖も同じだと思っている者もいる。
柊に言わせれば、同じであり、そして違う。男と女が共に人間であるようなものだ。そして、柊のような存在は、男と女の性の狭間にいる少数派の中性。
神でも妖でもあり、そして、ない。
柊は、元はヒトだった。
二〜三百年前のことだ。
冷害があった。
空は暗い雲に覆われ続け、大飢饉となった。
柊は、おそらく、十をわずかに過ぎたくらいの年だったろう。
晴れ着を着せられて、近くの山へ連れて行かれた。
父親はすでになく、母親は飢え死に寸前の弟を抱いて、泣いていた。
弟妹はもう幾人も死んでいた。
姉が2人、どこかへ売られていた。
自分も売られて行くのだと思った。けれど、姉たちは晴れ着など着せられなかったし、村中の者に見守られて神社での祭礼の中央に置かれたり、見送られたりもしなかった。
途中まで、輿に乗せられて山を登った。
輿が通れなくなってから、3人の男たちは先に帰り、祭祀を取り仕切る男一人の案内で、険しい道のりを進んだ。
着いた、と男が言った場所には、沢があった。そこで手足を洗い、のどを潤した。
人心地して見れば、村は、はるか下にあった。
それから、柊は男に、そばにあった横穴へ連れて行かれた。
この山の神の棲家だと、男は言った。
お前は、神への捧げ物だと。
山の怒りをおさめるため、実りを請うための。
そうして、男はにまりと笑った。
本当は、ここでお前の足をへし折って置き去りにせねばならないのだ、と。
柊は、遊んでいて手足を折った子供らの行く末を思い出す。
うまく治ればよいが、故障が残れば仕事もできぬとろくに食事も与えられず、真っ先に飢え死にしていった。
怖かった。
だから、折るのは勘弁してやるという男の、なすがままにさせた。
男は、晴れ着の裾を開いて、神の棲家で柊を汚し、血を流させて、首を絞めた。
そうして、去って行った。
次に柊が気づいたとき、その身は冷たい水の流れの中にいた。
誰かが、襟首を掴んでいた。
見上げると、白い髪の若い女だった。
女は、柊を晴れ着ごと清い流れで洗うと、自分が濡れるのも構わずかついで、別の洞穴へと連れて行った。
火を起こしてくれて、着物と柊を乾かしてくれた。
「もうすぐ、この山は火を噴く」
女はそう言った。
「この飢饉も、遠くの山が火を噴いたからだ」
女は、穴の外を見やる。
「おまえの村は、のまれる」
翌日、女に連れられてまた山道を歩きに歩いた。
清流で渇きを凌ぎながら。
何日も歩き続け。下りた谷から別の山に登り。
たどりついたのは別の洞穴で。
そこで、女と共に暮らし始めた。
女は、わずかな実りと水で事足りたが、柊のために火を起こしてくれたので、足りない分は自分で魚を採って焼いて食べた。
しばらくして、近くの山が轟いた。
女は、そこが前にいた山だと言う。あの麓に、柊が生まれ育った村があるのだと。
数日して、山は火を噴いた。
ただ轟いたり、時に火を噴いたり。
柊は、ただ、見守ることしかできなかった。
2〜3ヶ月後、とうとう、大噴火が起きた。
山は、姿を変えた。
柊の育った村へと、崩れて行った。
母も、弟も、死んだろう。
あの男も。
更に数年、女と柊の暮らしは続いた。
柊は、少しずつ成長して行った。
ある日、女の元へ、男がやって来た。
別の山の神だという。
柊は、ようやく、女が神だと知った。
男神は、女に呼ばれてやって来たのだと言った。
男神は魚も食べた。二人で歓待した。日が暮れて、女はすべては男神にまかせろと言っていなくなった。
柊は、男神に抱かれた。
思い出すと、今でも身震いする。
幼い身をヒトに犯されたときとはまるで違った。
身に起きていることなどわからないほどの白い光の中で、柊の意識は翻弄された。
数日留まり、男神は帰って行った。
そうして、柊の身は成長を止めた。
寒さもほとんど感じず、食も細くなり、女と同じ程度の衣食で足りるようになった。
やがて、女は薄れて消えていった。
自分の山を離れたからだと。
ただ、お前を一人残すのもと思い。
この山の守とするため、男神に清めてもらったのだと。
柊がすでにヒトに汚されていたため、神となることはできないが、妖にすることはできたから、と。
そう、言い残して。
そうして、柊は一人、山を守って二百年生きた。
呪術師にとらわれ、蔵守りとされるまで、山で一人、生きた。
蔵守りにされて、人はやはりろくな物ではないと思いながら捕らわれていた。
そこへ、現れた幼子。
自分がヒトだったことを思い出させた。やさしさをくれた男の子。
今、目の前で眠っている。
名取は、おそらく柊と同じように、あの光の中で翻弄される体験をしたのだろう。
意識だけが。
柊は体ごとだったのでヒトではなくなったが、名取は、ヒトとしての体と神に近づいた意識とで調整がとれていないために、眠りの中にいる。
柊は、ただ見守っていた。
誰を恨むこともなく。
ただ、回復を願って。