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怖いもの

 翌朝気づいたら、境はすでにいなかった。ひどく体がだるい。額に手をやると、少し微熱があるようだった。医者がどう判断するだろうか。
 まもなく、医者が現れた。
「悪いけど先に点滴ね。僕らは朝食食べたらすぐ出かけるから」
 朝食の間点滴してろということらしい。
「んん?」
 脈をとって、医者が唸った。まだ正常に戻っていないということか。
 医者は何も言わず、聴診器を出す。
 念入りに名取の胸に聴診器をあててから、体温計を預け、何も言わずに点滴の準備を進めた。
「夕べ、苦しくなったりしなかった?」
「はあ、少々」
 本当は少しどころではなかったが。体温計が鳴り、見ると、38度手前だった。
「う〜ん。まあ、夕べの約束どおりね。最低限の出番以外はベッドでおとなしくしててね。何か急変があったら、僕の帰りを待たずに救急車呼ぶように言っておくよ。明日は出番ないの?」
 明日はない。名取は泊まる予定だが、境など東京組の役者らは今夜帰るという。帰宅用にロケバスが出るので。名取は一度東京に行ってからだと帰宅が遅くなるし、東京の部屋に泊まるくらいなら、ここに残って翌日自宅に帰った方が近いし、手間がはぶけるのだ。
「じゃあ、明日の分の点滴も用意してきてるけど、それなしね。明日僕は奥さん家に降ろしたら病院直行だから、名取さんも一緒に乗ってって。少し検査したいから」
 おとなしく従うことにして、医者が朝食を済ませて戻ってくる頃ちょうど点滴も済み、それから運ばれてきた五分がゆとお茶を少しだけ摂取して、出番だと声がかかるまでベッドに寝ていた。
 本日の出番は3シーン。
 最初の名取の出番は、室内だ。夫婦の家で、夫婦と探偵と探偵助手の4人で会う。話をしている内に夫婦喧嘩に発展し、探偵と探偵助手はソファに身を縮めてあきれ果てるというシーン。台詞もあまりないし、これは問題ないのだが、残る2つのシーンの説明を聞いたら、医者はどう判断しただろうか。
 昼前の撮影シーンは湖で、夫婦の妻の方と会っていて誘惑され、断って張り倒されて湖に落っこちる。
 最後のシーンは殺陣があって、かなりの距離走らされる。
 医者はもう出かけて行った。名取は、撮影に支障を出すまいと、体力を温存させた。
 的場は、いつ現れるのか。
 どこで仕事をこなすのかわからないし、どれくらい時間のかかる仕事かもわからない。そもそも、朝は早くないはずだ。早くて夕方だろうとは、思う。
 的場に会ったからといって、この体内の毒がすべて消えるわけではない。核となる部分が除去されるだけだ。なので、急激に体調が良くなるということもあるまい。
 しかし、名取の中の的場を除去してもらえれば、後は単純に回復するのみとなる。
 この一月半のことを思う。ずっと体がつらかった。これが楽になるのか。
 でも、そのためには、的場に会わなければならない。
 式たちは正しい。これがもっとも最適な方法なのだ。
 名取もわかってはいた。わかってはいたが、逃げていた。それくらいなら、多少具合が悪いままでいたほうがマシだと、そう思っていた。
 あの晩のことを思えば。
 思い出すと、今でもぞっとする。行為そのものについては媚薬を与えられていたし、痛かった印象くらいしか残っていない。名取を苦しめるのは、名取が十何年も悩まされてきたヤモリの妖を、的場がいとも簡単に引き剥がし、それを喰らったことだった。
 あの程度の妖は、毒にも薬にもなるまい。的場にとっては、ただの戯れだったろう。けれど、名取には、自分の生きてきた年数すべてを、食われたかのようだった。
 あのヤモリを食ったところで歯ごたえも舌触りも実際には何もなかったろうが、飲み下す的場の喉の動きを覚えている。
 思い出して、名取はまた気持ち悪くなってきた。そのことを忘れようとする。頭から離れなくて、これまで実際、何度も吐いた。未だにきちんと食事が摂れないのも、無理に食べて吐くのも、その記憶のせいだ。
 頬の痣は、少しずつ、色濃くなってきている。気配もだんだん顕れてきた。ヤモリの妖はしぶとく生きている。
 一月半ぶりに、的場と会って。
 どういうことになるのかは、まったく予想がつかなかった。

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