顔色はメイクさんにごまかしてもらって、本日最初の撮影に臨んだ。
夫婦が緊張した面持ちでいるところに、探偵と2人、家を訪ね、リビングに通される。調査結果を話しているうちに夫婦喧嘩が始まり、探偵と2人、慄いてソファの隅に縮こまり、視線を交わす。呆れて、探偵はうつむいてため息を落とし、探偵助手は上向いて手にした帽子で顔を隠す。
一発撮りだ。立花の撮影は、役者も気分が違うのか、ミスはめったにない。ミスを連発したのはクビになった小谷くらいだ。名取は早々に部屋の鍵を取って2階に上がった。
医者の言いつけを守るため、というより、熱が出始めたからだった。
ソファに追い詰められる辺りで、寒気がした。撮影をしていた部屋を離れる頃には、全身がこわばるように感じた。階段を上っているうちに体が震え出した。
寒い。部屋のドアノブに鍵を挿そうとしても、手が震えてうまくいかない。鍵を取り落として、拾おうとかがんだらもう立てなくて、ドアに手をついて体を支えているのが精一杯だった。
「名取さんっ?」
近くの、ドアが開いていた部屋から、メイクと衣装担当の女性が出てきた。部屋にいた、次の出番の妻の浮気相手役も出てくる。
結局、2人に手伝ってもらって部屋に入り、上着を預けてベッドに倒れこんだ。
「おいおい大丈夫かよ?」
浮気相手役が額に触れる。一気に上がっているのが自分でもわかる。
「少し、休めば、落ち着きますから」
おさえようのない震え。ごまかしようがない。でも、入院当時の感覚からすれば、これなら意識がなくなるほどの高熱にはならないはずだ。高くても40度くらいで治まるだろう。
「出番まで、休みますから」
下から役者を呼ぶ声が聞こえる。誰か寄越すから、とメイクさんが言って、2人は部屋を出て行った。すぐに、『力持ち』がやって来て、衣装がしわにならないよう、着替えを手伝ってくれた。
「医者呼びますか?」
「いらない。熱、上がりきれば、いっそ大丈夫だから」
「でも、次、湖ですよ?」
「いい具合に冷えて、いいんじゃないの?」
大丈夫だからと、忙しいスタッフを追い出して、名取は布団にくるまった。熱が上がりきってそれに体が慣れて、落ち着いてくる。予想通りな体温で留まったらしい。次の出番は、昼前頃だ。
名取は、うとうとと眠った。途中、何度か誰か現れて、氷枕を仕掛けていったり、額にタオルを載せていったりした。境だったり片桐だったり他のスタッフだったり。一度は立花も顔を出した。名取は、大丈夫だ、とだけ、独り言のように心配して声をかけてくる彼らに応えた。
次の出番前、スタッフに起こされて準備を始めた頃には、熱は高いが、意識ははっきりしていた。これなら大丈夫だ。
風の音が強い。帽子もかぶるし、髪やコートが風に煽られれば、うまい具合に少々むくんだ顔もごまかせるだろう。
湖落下用にウェットスーツが用意されていたが、名取は断った。ちょうどいいから禊をしようと。本来禊は全裸だが、どうせ長く浸かってはいさせてもらえまい。
徒歩10分ほどの湖まで車を出して貰って、すぐに出番だった。待ち時間がないように調整してくれたらしい。すでに名取の不調は知れ渡っているようだった。
そういえば、と、名取は周囲をうかがう。昨日と同じ木の上に、妖がいた。ちらりとだけ見て、後は気づかなかったふりをして気配を読む。熱のせいで、うまく集中できない。しかし、昨日よりも状況をわかってきているような、そんな落ち着いた気配がした。
強風に煽られて、名取の帽子が飛んだ。その先に、片桐がいた。片桐が帽子を拾って駆け寄ってくる。名取は、帽子を受け取りながら「気をつけて」とささやいた。
「え?」
「永井さん。そろそろ次、仕掛けてくるかもしれない」
片桐がきょろきょろと見回す。ぱっとみつけられるほどは見えないらしい。
「まあ、この場面で一番ヤバイのは、私ですがね」
帽子をかぶって、名取は探偵助手風ににやりと笑った。
それ以上話す時間はなかった。軽く打ち合わせをする。予定通り決行が決まった、ウェットスーツを着ていないので、落下後水中から這い出してきたところで、一言ある台詞のところで、襟元をゆるめることになった。
元々、探偵助手はワイシャツの第一ボタンを外していてネクタイもやや緩い。おなじみのワンカメラ撮影なので、スタントなしウェットスーツなしで真冬の湖に落ちて水につかったまま白い息を吐いているのは本物の役者だ、とわかるよう、強調したいらしい。
立花は、やれるか? と訊く。大丈夫か、とは、現場では誰も言わない。名取は、やります、とだけ言う。
湖に突き出た桟橋に立つ夫人のもとへ歩み寄る。夫人が、浮気がばれないようにしたいと言い出す。
探偵助手がうまくなだめる台詞を吐けずにいるうちに、夫人は調子を上げていって悲劇のヒロインのように演じ始め、助手が呆れているうちに今度は探偵助手を誘惑にかかる。ヒロインを救う王子様風に。
この手に引っかかって何人もの男がお相手になっているということは、他のシーンで撮影済みだ。真相を知っている助手が引っかかるはずもないが、助手はカッコつけなわりに自ら女を口説くとき以外は口下手という設定なので、演技がかった夫人にどうしたものかと不器用に断りを入れる。
更に誘う夫人、更に断る助手。それを繰り返す内に、お互い極端になっていって、とんでもない台詞を交わしあうことになる。あまり悪気のない助手のトドメの台詞にぶち切れた夫人が、力いっぱい助手を張り倒し、助手はぶざまに湖に落下、水しぶきが上がる。
夫人は怒りのまま立ち去り、カメラは桟橋の端まで移動し、桟橋の柱につかまっている探偵助手を映す。助手はネクタイをゆるめて白い息を吐き、台詞を一言。
カット、と、立花の声が響いた。
すぐに『力持ち』が名取に手を伸ばした。
「ああ、しばらく浸けといて下さいよ。熱さましに」
「何言ってんですかっ! 肺炎起こしますよ!?」
「別に風邪じゃないし。冷たいの慣れてるから、私は」
「名取さんっ!」
「最後でいいです最後で」
無理やり引き上げようとする手から逃れて、名取は流されかけた帽子を拾いに行った。
「片桐さーん、なんとかしてー」
『力持ち』が『霊感娘』を呼んでいる。たしかに、性格的にはあちらの方がきつそうだ。
服を着たままだと重いが、ぎりぎり足が届くし、流れはほとんどないのでおぼれる心配はない。
ざわりと、いやな気配が走る。帽子を拾って桟橋を振り返ると、『力持ち』のわきに、例の妖が立っていた。
どうやら、永井の周囲での不幸の対象に、水中の人物、すなわち名取を選んだようだった。
妖が桟橋から跳ねる。名取の上に着地し、沈ませるために。
「波間にただよいし者、汝が分身を受けし者はこれ汝なり」
名取は手にしていた帽子を投げつけた。妖の顔にぶち当たる。名取は音を立てて両手を合わせ、
「連れ戻されよ」と、唱えた。
女優は、寒さから逃れるために車に逃げ込んでいたので見なかった。片付けに追われていたスタッフは、その水音に、一様に湖を見た。名取の方へ向かっていた片桐は、すべてを見た。
湖面が、壁のように立ち上がり、一点をめざして動き、イソギンチャクが小魚をとらえるかのように帽子に集中して、落ちた。
湖面が波立ち、しぶきが飛び、桟橋のスタッフは水をかぶった。
名取も流されたが、幸い、桟橋の方へ引っ張られたのでなんとか柱にとりつき、水中に引き込まれるのは逃れることができた。
予定外に、祓ってしまった。
『自分を取り戻す』という術なので、陣を張らずにできたが、力は消耗する。ただでさえ体力も何も衰えている時だというのに。
ずるりと、柱にすがっていた手がはがれた。荒れる湖に、顔が沈む。足が湖底をかすめるが、立てない。服が重い。体も思うように動かない。とっさに息を止めたが、長くは持たない。ヤバイ、と思った瞬間、両腕をつかまれた。
頭が湖面から出る。息をつきながら仰ぎ見たのは・・・・・・。
「瓜姫? 笹後?」
左の腕を瓜姫が、右の腕を笹後が引っ張り上げていた。
更に、桟橋の上から名取の襟を捕らえ引き上げたのは・・・・・・。
「柊・・・・・・」
名取の、3匹の式たち。
妖が見えないびしょぬれの『力持ち』らが更に名取を桟橋に引っ張り上げた。
女性スタッフがタオルを持って駆け寄ってくる。その向こうに。
近くのペンションに宿泊している若者が見物に来たかのような、ラフな服装にフードつきコートを羽織った、眼帯に長髪の的場家当主が、秘書の七瀬を従え、立っていた。