気づいたら、夜明けだった。
冬の、遅い朝だ。
的場の姿はすでになかった。コタツには、カラの酒瓶と、杯が二つ。
シャワーを浴びて風呂場を出ると、先ほどはいなかったはずの柊が、シンクの前に座り込んでいた。
「帰るぞ」
「・・・・・・はい」
洗濯して室内を片付けて室内干しをして。名取は帽子に眼鏡で、外へ出た。
湿気が降りたような、冷たさがあった。
雨か霙になりそうな、暗い空。雪にはまだ早いはずだ。この冬は、年を越したら東京でも雪が降り出すだろう。
動き始めた人々に紛れて、駅へと向かう。
体はつらい。が、名取は、顔を上げて歩いていた。
細かい、様々なものがよく見えた。
人も、店も、物も、地面も、空も、隙間も、妖も。
世の中は、こんなにもはっきりしていただろうか、と思う。
この2ヶ月ほどのことを思い起こす。
なんだか、とても狭い視界の中で生きていたように思えた。
長時間の電車は、更に体にきた。
それでも、名取は地元の駅に着くと、家までゆっくりと歩いた。
見慣れた景色が、とても綺麗に見えて。
家に着くのが、もったいないほどだった。
離れに戻って、もう一度シャワーを浴びる。最後に水を浴びた。
頭を乾かしてから、神職の衣装を身に着けた。
まだ、家人は名取が戻ったことを知らないだろう。
神社へ向かうのがわかっているので、式たちも構ってこない。
名取は、しばし、座敷から庭を眺めた。
つい昨日見たのと、同じ景色。
なのに、全然、違って見えた。
みはしら様の拒絶は、消えている。
名取は、離れを出て、道場の前を通り、通用口から神社側へ入った。
年末準備に追われる社務所に人がいるのは見えたが、まっすぐ、社殿脇の戸へ向かい、鎮守の森へと歩みを進めた。
すぐに、神池が現れる。
薄く、氷が張っていた。
名取は、衣装を脱ぐと、身一つで氷を割りながら神池へと入った。
腰まで浸かって、氷のかけらを手にしてみた。
じわじわと、名取の熱に融けていく。ガラスのように透明な、池の氷だった。
氷が融けて落ちると、名取は頭まで池の水で清め、手を合わせた。
髪や皮膚が、凍っていく感じが少しした。
すぐに、意識が別のところへ移行した。
体から離れただけで、鎮守の森の中であるような。まったく違う場所であるような。
初めてだった。こんなことは。
ただ、誘われるように、池に入ったのだけれど。
みはしら様が、実際に呼んでいたのだろう。
そこには、みはしら様がいた。
いつもの姿はなく、ただ気配だけで。
満足げな様子がうかがえた。
近づいてくる気配がした。
一瞬、子供のような顔が見えた。
次には、初めて、その手が名取の両手をとった。
その接触は、あらゆるものを超えていた。
わずかに残る母の手の思い出も、父に殴られた衝撃も、女たちの温もりも、的場から受けた心身への陵辱も。
数秒で、ヒトに耐えられる限界を超えた。
その不思議な空間で、名取は意識を失った。
みはしら様が、楽しげにその体を抱いていた。
名取の本体は、意思を失って膝を折り、池に沈んだ。
冷たい、氷を含んだ雨が、池にたくさんの波紋をつくり始める。
名取が沈んだ波紋が消えて、一面に霙が降り注ぎ始めた。