カタン、と音がして、名取はびくりと体を震わせた。座敷の出入口の襖が開いて、また別の男が入って来たのだった。
いったい、何人がこの件にかかわることになるのか。
「ご用意を」
それだけ言うと、押入れの襖を開ける。布団が入っているのが見えた。
名取は、重い体を座卓に手をついて立たせると、座敷を出た。
出てすぐのところに、洗面所とトイレと風呂がまとまってある。そこに入って、戸を閉めた。
きれいにしとけということか。
確かに、妖を封じてそのまま来たので、全身ほこりまみれだ。
知識はある。家の蔵書に載っていた。『ヒト』同士の場合は、必ずしも誰でもできるものではないということも、
男しか得る側になれず、与える側は男女いずれでも可能であると知っている。
名取は得る側になることはできない。扱える術の種類でわかるのだ。的場は得る側にしかなれない。
夏目だったら能力的には得る側だが、彼と同じ性質の力を持つ人間を名取は知らない。だから的場も、
夏目を狙うことはないだろう。
ため息を落とす。少し、肩の力が抜けた。もう、そういう役を演じるのだと思うしかない。
役者としての職業意識を動員するのだ。
布団を敷き終えたのか、さっきの男が出て行く気配がした。
顔を上げると、鏡があった。何やら、なさけない顔をした男がいた。名取は、それをきつく見返した。
覚悟を、決めるしかない。
用意されていたバスローブを身に着けて座敷に戻ると、すでに的場が床の間の前に座って待っていた。
「・・・・・・お待たせしましたか?」
「いいえ、今来たところですよ」
こちらは特に身綺麗にしてきたわけではなく、さっき会ったままの着物姿だった。
座敷の中央には幅の広い布団が敷かれ、枕が二つ並んでいた。掛け布団は足元の方へ折られている。
シーツに、陣が描かれているのがわかった。
「じゃあ、早速始めましょうか」
そう言って、的場は身軽に立ち上がると帯を解いた。
外に面した窓の、障子が開いている。すでに、満月が高く上がっていた。そう、この術は満月も条件だった。
名取は窓に寄り、外を見る。外は、庭ともいえない雑木林だ。その上に、枝葉に隠されながらも燦然と月が輝いていた。
「名取さん?」
低い位置から声がする。すでに、着物を脱いで布団に入ったらしい。
名取は、障子を閉めた。戸口の方へ行き、照明をすべて落とす。振り返ると、障子ごしの月明かりが布団にまで届いていた。
的場の姿が陰影となって見える。目が慣れてくれば、この月明かりだけでもかなり見えるだろう。
「時間はあまりない。明日の用意もあるしね」
「明日撮影があるので、体に傷や痕はつけないで下さい」
「・・・・・・へえ? ヌードでも?」
「シャワーシーンなんですよ」
「・・・・・・大変ですねえ」
あとは、とっとと済ませるしかない。
これは撮影だ、必要な演技だ、仕事だ、と言い聞かせながら、名取は布団に歩み寄る。そばでしゃがみ、バスローブの前を解く。
的場はすでに全裸らしい。バスローブを肩から落とすと、すばやく的場の横にすべりこんだ。
相手を女だと思うべきか、自分が女になったつもりになるべきか。
的場の手が、顔に伸びてくる。起き上がり、上からのぞきこんできた。眼帯はつけたままだった。
その柄が見えるほど、明るい。
まだ濡れている名取の髪に触れ、頬に手を当てる。
そこに、ちょうどヤモリの痣が移動している。ヤモリの動きが、的場の手の中で止まったことに、名取は気づいた。
「捕まえた」
「!」
的場の手が離れていく。そして、頬から何かが引き剥がされていく。
的場の指に挟まれて、黒いヤモリが体をうねらせている。何を調べても取り去る方法のわからなかった名取の肌の妖が、
今、目の前で暴れていた。
的場が、笑った。
黒いヤモリが、引き上げられていく。
つままれて、的場の顔の前に。頭から、その口の中に消えていく。
尻尾が最後に振られ、消えた。的場が喉もとをなでるようにする。飲み下す喉の動きが見えた。
食われた、のだ。
「!」
名取は、跳ね起きた。
「捕まえろ」
とっさに逃げようとした名取の両腕を、何かが掴んだ。
「うっ!」
強い力で引かれ、左肘に激痛が走った。腕を上げたまま、布団に引き倒される。両足も布団の上から押さえられた。
体の上には、的場が乗った。
「心配しなくても、影は残っている。いずれ影から再生しますよ」
ヤモリの痣のことだ。そのヤモリを食った口が、薄笑いを浮かべている。そう、いつもどおりに。
血の気が引いていく。目の前にいる、この男。ただのヒトであるはずの同年輩の男。
それが、とても、恐ろしくなった。
手足を押さえたのは的場の式だ。命のない人形で、熱はない。
腹の上に乗った男には、体温があった。その下にいる自分は、人形のように冷えている。
怖かった。名取は逃れようと暴れた。後のことはどうでもいい、とにかく、今、この恐怖から逃れたかった。
この男の前から逃げ出したかった。
けれど、式たちが一層しっかりと押さえつけてきた。痛めた肘だけが、名取の意識を保つものだった。
逃れられないならいっそ、気絶してしまいたい。それとも舌を噛んでしまおうか・・・・・・。
考えを読んだかのように、的場の指が口に入ってきた。
「いまさらどうしたんです? 怪我しますよ?」
指が抜かれた。今のうちに、と舌を噛む前に唇で口を塞がれた。舌が焼けるような液体が流れ込んできた。
顔を押さえられ、鼻をつままれて、名取はやむなく、それを飲み下した。
鼻は開放されたが、両手で顔を押さえられたまま、ヤモリを含んだ唇が名取の唇から頬へ、あごへ、喉へと這っていく。
舌を噛みたくても、もはやそれはできなかった。
顔から手を離し、名取の胸をなでながら、的場がささやく。
「効いてきましたね。媚薬ですよ」
何か指示したのか、手足の押さえがなくなった。ひどく、体がけだるく、重い。あんなに冷たく硬くなっていた全身が、
緊張を解いて熱を取り戻していた。
恐怖に飛びかけた意識も戻ってきていた。
「心配しなくても、麻薬成分はありません。少量含めば媚薬の効果で、感度が上がります。けれど、少し加減を間違えると、
毒になる。体の自由が利かなくなって、目眩などの症状が出るそうです。あなたが悪いんですよ、暴れるから」
左腕が動かない。右腕は、なんとか頭の横まで下ろすことができた。話はできそうにない。目を開くことはできるが、
頭は動かせない。なのに、体を這う的場の動きが、明確にわかる。
「今度こそ、よろしくお願いしますよ?」
よろしくも何も、もはや抵抗できない。幸い、恐怖心も嫌悪感も、緩んで消えていた。
術は成功した。意識を失った名取の体から、開放されたものが的場へと移っていく。
的場は、全身の肌からそれを吸収していった。力が満ちていく。強く、もっと、なじんで、心臓が熱くなるように、
力がみなぎっていく。無駄なくとりこまれなじんでいく。
的場にとって、初めてではなかった。これまでは女だったが。それにしても、これほどになじむとは。
どんな術でも使えそうだ。
移行が終わり、的場は定着した力の具合に満足した。
名取はまるで死んだかのように動かない。口元に手をやると、かすかにだが息をしているのがわかった。
足元に蹴り飛ばしてあった布団を引き上げてかけてやる。自分は、脱ぎ捨てた着物を拾いに立った。
遣り残している仕事がある。的場は、着物を着ると、もはや名取に関心を示すことなく、部屋を出た。