カタン、と音がして、名取はびくりと体を震わせた。座敷の出入口の襖が開いて、また別の男が入って来たのだった。
いったい、何人がこの件にかかわることになるのか。
男は二つの盆を部屋に入れ、何やら持って一度引っ込んで風呂場らしい場所へ置いてきてからまた戻ってきた。
二つの盆を床の間の近くに置くと、名取に向き直って座り、上目遣いに、言った。
「ご用意を」
それだけ言うと、立ち上がって別の襖を開ける。布団が入っているのが見えた。
名取は、重い体を座卓に手をついて立たせると、座敷を出た。
出てすぐのところに、洗面所とトイレと風呂がまとまってある。そこに入って、戸を閉めた。
きれいにしとけということか。
確かに、妖を封じてそのまま来たので、全身ほこりまみれだ。
服を脱ごうとして、洗面台に載せてあるものに気づいた。
「・・・・・・そーにゅーありかよ」
思わず、一人ごちた。
知識はある。家の蔵書の中に、性の交歓によって力を得る方法が載っていた。『ヒト』同士の場合は、
必ずしも誰でもできるものではないということも、男しか得る側になれず、与える側が男女いずれであろうとも挿入を
要することも知っている。
名取は得る側になることはできない。扱える術の種類でわかるのだ。的場は得る側にしかなれない。
夏目だったら能力的には得る側だが、彼と同じ性質の力を持つ人間を名取は知らない。だから的場も、
夏目を狙うことはないだろう。
ため息を落とす。少し、肩の力が抜けた。もう、そういう役を演じるのだと思うしかない。
役者としての職業意識を動員するのだ。
中まできれいにしておけってことね。
布団を敷き終えたのか、さっきの男が出て行く気配がした。
顔を上げると、鏡があった。何やら、なさけない顔をした男がいた。名取は、それをきつく見返した。
覚悟を、決めるしかない。
用意されていたバスローブを身に着けて座敷に戻ると、すでに的場が床の間の前に座って待っていた。
「・・・・・・お待たせしましたか?」
「いいえ、今来たところですよ」
こちらは特に身綺麗にしてきたわけではなく、さっき会ったままの着物姿だった。
座敷の中央には幅の広い布団が敷かれ、枕が二つ並んでいた。掛け布団は足元の方へ折られている。
シーツに、陣が描かれているのがわかった。
そばに、さっきの男が持ってきた二つの盆も置かれている。片方には行為用の潤滑剤らしきものと、避妊具が。
もう片方には何やら液体の入った緑の瓶と、グラスが二つ載っていた。
「じゃあ、早速始めましょうか」
そう言って、的場は身軽に立ち上がると帯を解いた。
外に面した窓の、障子が開いている。すでに、満月が高く上がっていた。そう、この術は満月も条件だった。
名取は窓に寄り、外を見る。外は、庭ともいえない雑木林だ。その上に、枝葉に隠されながらも燦然と月が輝いていた。
「名取さん?」
低い位置から声がする。すでに、着物を脱いで布団に入ったらしい。
名取は、障子を閉めた。戸口の方へ行き、照明をすべて落とす。振り返ると、障子ごしの月明かりが布団にまで届いていた。
的場の姿が陰影となって見える。目が慣れてくれば、この月明かりだけでもかなり見えるだろう。
「時間はあまりない。明日の用意もあるしね。けれど、ちゃんと終わるまで、しますからね」
名取がちゃんと達するまで、という意味だ。そこまでつきあわなくては、的場の目的は達成されないのだ。
名取の体は、ベッドイン直前だというのに、まったくその気になっていない。
「明日撮影があるので、体に傷や痕はつけないで下さい」
「・・・・・・へえ? ヌードでも?」
「シャワーシーンなんですよ」
「・・・・・・大変ですねえ」
あとは、とっとと済ませるしかない。
これは撮影だ、必要な演技だ、仕事だ、と言い聞かせながら、名取は布団に歩み寄る。そばでしゃがみ、
バスローブの前を解く。的場はすでに全裸らしい。バスローブを肩から落とすと、すばやく的場の横にすべりこんだ。
相手を女だと思うべきか、自分が女になったつもりになるべきか。
的場の手が、顔に伸びてくる。起き上がり、上からのぞきこんできた。眼帯はつけたままだった。
その柄が見えるほど、明るい。
まだ濡れている名取の髪に触れ、頬に手を当てる。
そこに、ちょうどヤモリの痣が移動している。ヤモリの動きが、的場の手の中で止まったことに、名取は気づいた。
「捕まえた」
「!」
的場の手が離れていく。そして、頬から何かが引き剥がされていく。
的場の指に挟まれて、黒いヤモリが体をうねらせている。何を調べても取り去る方法のわからなかった名取の肌の妖が、
今、目の前で暴れていた。
的場が、笑った。
黒いヤモリが、引き上げられていく。
つままれて、的場の顔の前に。頭から、その口の中に消えていく。
尻尾が最後に振られ、消えた。的場が喉もとをなでるようにする。飲み下す喉の動きが見えた。
食われた、のだ。
「!」
名取は、跳ね起きた。
「捕まえろ」
とっさに逃げようとした名取の両腕を、何かが掴んだ。
「うっ!」
強い力で引かれ、左肘に激痛が走った。腕を上げたまま、布団に引き倒される。両足も布団の上から押さえられた。
体の上には、的場が乗った。
「心配しなくても、影は残っている。いずれ影から再生しますよ」
ヤモリの痣のことだ。そのヤモリを食った口が、薄笑いを浮かべている。そう、いつもどおりに。
血の気が引いていく。目の前にいる、この男。ただのヒトであるはずの同年輩の男。
それが、とても、恐ろしくなった。
手足を押さえたのは的場の式だ。命のない人形で、熱はない。
腹の上に乗った男には、体温があった。その下にいる自分は、人形のように冷えている。
怖かった。名取は逃れようと暴れた。後のことはどうでもいい、とにかく、今、この恐怖から逃れたかった。
この男の前から逃げ出したかった。
けれど、式たちが一層しっかりと押さえつけてきた。痛めた肘だけが、名取の意識を保つものだった。
逃れられないならいっそ、気絶してしまいたい。それとも舌を噛んでしまおうか・・・・・・。
考えを読んだかのように、的場の指が口に入ってきた。
「いまさらどうしたんです? 怪我しますよ?」
指が抜かれた。今のうちに、と舌を噛む前に唇で口を塞がれた。舌が焼けるような液体が流れ込んできた。
顔を押さえられ、鼻をつままれて、名取はやむなく、それを飲み下した。
鼻は開放されたが、両手で顔を押さえられたまま、ヤモリを含んだ唇が名取の唇から頬へ、あごへ、喉へと這っていく。
舌を噛みたくても、もはやそれはできなかった。
顔から手を離し、名取の胸をなでながら、的場がささやく。
「効いてきましたね。媚薬ですよ」
何か指示したのか、手足の押さえがなくなった。ひどく、体がけだるく、重い。あんなに冷たく硬くなっていた全身が、
緊張を解いて熱を取り戻していた。
あの、緑の瓶か・・・・・・。
恐怖に飛びかけた意識も戻ってきていた。
「心配しなくても、麻薬成分はありません。少量含めば媚薬の効果で、感度が上がります。けれど、少し加減を間違えると、
毒になる。体の自由が利かなくなって、目眩などの症状が出るそうです。あなたが悪いんですよ、暴れるから」
左腕が動かない。右腕は、なんとか頭の横まで下ろすことができた。話はできそうにない。目を開くことはできるが、
頭は動かせない。なのに、体を這う的場の動きが、明確にわかる。
「今度こそ、よろしくお願いしますよ?」
よろしくも何も、もはや抵抗できない。幸い、恐怖心も嫌悪感も、緩んで消えていた。
愛撫を受けているうちは、媚薬成分のせいか体がなじんでいった。触れ合う体の温かみが心地よい。
硬くなった自分を掴まれて、初めて自分がその状態になっていることに気づく。達するにはまだ足りない。
男の腕の中で、嫌悪感と恐怖心を抱いた男の腕の中で、抱かれている。
自覚はできても、抵抗感が湧いてこない。
何か、畏れていたはず・・・・・・。
互いの体の間でこすれて動く硬いものは、的場のものか。熱い息が首筋にかかる。頭の上で音がする。
的場が離れて、急に体が冷えた。
なんだ?
ああ、もう一つの盆・・・・・・。
いよいよ、名取の中に入る準備らしい。左肘が熱い。潤滑剤の冷たさが与えられた。そんな場所を触れられても、
体はまるで動かない。的場の体温が戻る。冷やされた場所に、熱があたった。
「んっ、う・・・・・・っ」
声が漏れた。一応出るらしい。
押し入ってきた痛みに、反射的に手も動いた。足は体につくほど折られている。名取のものは、互いの腹の間にいる。
「痛みますか?」
気遣うわけではなく、ただ確認しただけ。
「く・・・・・・ぅっ」
潤滑剤の力を借りて、的場が深々と押し入った。
痛い。ひどい違和感だ。呼吸の仕方がわからなくなる。急に目眩が襲ってきた。
「動かないと、そちらが気持ちよくないでしょうね」
的場がゆるく動きだす。腹に挟まれた名取のための動きだ。
乱れた息に、声が混じる。痛い、苦しい、目が回って気持ちが悪い。硬くこすられているものの、快感はない。
「や・・・・・・め・・・・・・」
やっとのことで言葉にすると、的場が動きを止めた。一部を残したまま、少し離れる。
「つらそうですね」
「・・・・・・あ、あっ!」
再び、深く押し入って来た。
激しく体を揺する。名取の喉が引き攣れた音を出した。女相手に達する時のような、激しい動き。頭の中で白い光がはじける。
痛みと媚薬が絡み合う。右腕が、的場を押しのけようと上がる。その手を掴まれ、指先を口に含まれた。舌が指先を舐める。
痛い。痛い。痛いっ。
涙がにじんできた。それが見えたわけでもあるまいが、的場が急に離れた。
「どうも勝手が違いますねぇ」
女とは違う、ということらしい。それはそうだ。作りが違う。そういう作りのはずの女だって、
初めから快感を感じるようにはできていない。
また、潤滑剤を与えられる。しみるということは、傷ついているということか。
「・・・・・・・・・・・・」
もう、やめてくれ、と言いたかった。的場は名取の体を横にすると、覆いかぶさってきた。そして、耳元で囁いた。
「やめてもいいですよ? あの、先ほどの式をいただけるなら?」
柊を。
名取は、落ち着かない呼吸を無理やりおさめた。唇を結んで、的場の視線を避けた。
的場が、勝ち誇ったように笑むのがわかる。名取に比べれば、細い体だ。その細い腕が名取の足を広げ、
横向きにしたまま上から入ってきた。片手で名取を掴む。緩く腰を使いながら、名取に刺激を加えていく。
覚悟を改めたせいか、潤滑剤のおかげか、我慢できないほどの痛みではない。与えられる刺激に集中しようとする。
名取が達しなければ、これは終わらないのだ。
登りつめ、達することで、名取の力が開放される。そうして、楔を打ち込んでいるものへと、それは移行する。
このシーツに描かれた陣の中で、得る側の性質の者と、与える側の性質の者が交わって、それは成されるのだ。
ああ、始まった・・・・・・。
名取の中から、浮き出してくるものがある。
体の中心から浮き出し、離れていくもの。快感にのせられて、体から出て行こうとするもの。
的場もそれを感知したらしい。手の動きと体の動きが激しくなる。自身も達するつもりらしい。
もう何も考えない。達するよう意識を向けるだけ。自分の呻き声が耳障りだった。左肘の痛みが、熱くはじける。
目にたまっていた涙がこぼれた。自由の利かない手が、シーツを引っかく。高みへ、高みへ・・・・・・。
的場が達したのがわかった。
自分もたどり着いたのがわかった。
この瞬間の感覚だけは、相手がなんだろうと、同じ。
月明かりが消えた。暗闇が見えた。頭が沈んでいく。
重く、自身の中身を手放し意識を失った名取の体から、開放されたものが的場へと移っていく。
的場は、全身の肌からそれを吸収していった。力が満ちていく。行為によって消耗した分はあっという間に補充され、
はるかに、強く、もっと、なじんで、心臓が熱くなるように、力がみなぎっていく。無駄なくとりこまれなじんでいく。
的場にとって、性の交歓は初めてではなかった。これまでは女だったが。それにしても、これほどになじむとは。
どんな術でも使えそうだ。
移行が終わり、的場は定着した力の具合に満足した。そうして、まだ結合したままだったことに気づく。
離れても、名取はなんの反応もない。死んだかと思ったが、口元に手をやると、かすかにだが息をしているのがわかった。
足元に蹴り飛ばしてあった布団を引き上げてかけてやる。自分は、避妊具の始末をして、脱ぎ捨てた着物を拾いに立った。
男相手に避妊もないが、子を成さない性交には必ず使うもの、と言われているので。
遣り残している仕事がある。的場は、着物を着ると、もはや名取に関心を示すことなく、部屋を出た。