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浄化

『捕まえた』
 暗闇から、男の手が伸びてくる。
 背には壁。袋小路だ。逃げられない。
 避けようとする名取の頬を、男の手がなでる。
 知っている。この手は・・・・・・。
 離れていく手につままれ、暴れる黒いヤモリ。暗闇が口を開く。ヤモリが巨大になり、開いた口へと流されていく。 その口が閉じたとき、それは、不吉に笑む的場の顔になった。
『あなたが悪いんですよ?』
 巨大な顔が近づいてくる。笑んだまま開いていく口。
 食われるっ!

「・・・・・・ちゃん、周ちゃんっ」
 名取は、びくりと目を見開いた。
「大丈夫? ずいぶんうなされてたわよ?」
 ずいぶんというわりにはあっさりと言い、名取の額にあったタオルをとりあげた。額に手をあてて熱を測る。
「まだ熱高いわねえ。医者行った方がいいんじゃないの?」
「やだよ」
「原因不明ですっ、自律神経ですって言われちゃうから? 熱ある人には言わないと思うけど?」
「単なる風邪だよ」
「風邪は万病の元っていうのよ?」
「大丈夫だよ」
「ふうん。熱だけの風邪なんて、変よねえ」
 名取の姉は、特に追究しようとせずにまた冷やしたタオルを名取の額に載せると、寝てるのよ、 と言い置いて出て行った。
 襖の向こうから、賑やかな声が聞こえてくる。婿をとった姉の一家だ。
 本当は、名取は離れに住み着いている。
 昨日、迷惑を掛けるだけだと判じて、撮影先の旅館に泊まらずに帰って来た名取は、 予想通り電車の中でひどい寒気に襲われた。やっとのことで自宅に帰りつくと、何日も家に帰らなかったせいか、 気づいた家人が姉を呼んだ。その姉に発熱を気づかれて、母屋に床をとらざるを得なくなったのだ。
 過労のせいか、生気を奪われたせいか、媚薬の過剰摂取のせいか、『傷』のせいか、妖の毒気のせいか、 水シャワーのせいか。
 全部か。
 これだけ重なれば、熱も出るだろう。
 脱水症状を起こさないよう、なんとか水分だけはとっているが、おかゆさえ喉を通らない。
 それでも、医者には行きたくない。昔、よく妖の毒気に当てられて体調を崩していたが、病院では原因がわからず、 精神的なもの、と決め付けられた。妖の知識を得ることで防御を覚え、体を鍛え、 多少の毒気なら影響を受けることはなくなったが、医者嫌いは治らない。
 今日はオフだが、たしか、明後日は2時間ドラマの台本読みだ。明日の朝までに熱が下がらなければ、 対策を考えなければ、と考えた。
 自分の首筋に触れてみる。確かに、熱が高い。ここまで高い熱を出すのは久しぶりだ。
 体のバランスをとれば、風邪などひかない。心身を整え、妖力を高い状態に保つ。常にそうしているからこそ、 オーバーして煌いてしまうのだ。
 的場に力を奪われたせいで、全体のバランスが崩れてしまった。しかも、立て直すことがなかなかできないのだ。 熱のせいで、なんとかしようと思っても、意識がおかしくなって失敗してしまう。
 また試してみようか、と思いつつ、気力がわかないでいると、また襖が開いた。
「周ちゃ〜ん、お電話〜」
 幼い甥っ子が電話の子機を持ってきた。
「ありがとう」
 礼を言って受け取ると、にっこり笑って駆けて行く。名取は、横になったまま「もしもし?」と嗄れた声を出した。
 マネージャーの安藤だった。「おまえやっぱり体調崩したまんまだなーっ!」と、声だけで察している。
「明後日迎えに行くから、病院直行な。どうせ行ってないんだろう?」
 お見通しだ。
「いいですよ。熱だけだから大丈夫ですよ」
「そんなんで電車乗ってくるのか? とにかく迎えに行くから、また連絡する。じゃああとは寝てろ、じゃあな」
 ほとんどこちらが話す間もなく、通話が切れた。話す元気がないので、ありがたい。
 とにかく、今日一日で熱を下げて明日は体を慣らす、くらいでないと、明後日はかなりきついだろう。
 枕元に子機を置く動きで、首が痛んだ。寝すぎたか。
 呼吸を整えて、胸の前で手を合わせ、体を楽にする。全身の気の流れに意識を向ける。体の中心に気を集めて、 流れを整えて行く。
 そもそも、全体量が足りない。普段なら増幅することもできるのだが、それもできない。 なんとかある分で流れを整えようとしても、集めた段階で意識が遠のいていく。
 また、ダメか・・・・・・。
 名取は、また、眠りの中に落ちていった。深く。深く。

『おまえがおかしなことばかり言っているから』
 母の葬儀の時、親戚に口々に言われた。身内はかばってくれたけれど。
『やさしい子だよ』
 首を縄で繋がれた妖が言った。
『その、黒いヤモリは、妖だよ』
 誰が言った? 小さいころ過ぎて、わからない。
『左足に行かない理由は、ね・・・・・・・・・・・・』
 頭の中を、記憶の断片が巡る。
 ああ、夢だ。
 名取は思う。どれくらい時間が経ったのだろう。夢の内容はともかく、気分は悪くない。夢から覚めて、 時間を確認してみようか。そう思う。
 思うと、急激に覚醒へと向かう。目を開けると、薄闇に、人影があった。すぐそばに座っている。誰かが、 名取の両手を、両手で握ってくれていた。
「気づいたようだぞ」
 低い声。この声は・・・・・・。ねこまんじゅう?
「誰がねこまんじゅうだ、クソガキ。ダダ漏れだぞ思考が」
「黙れよニャンコ先生病人相手に。大丈夫ですか? 名取さん」
 夏目と、用心棒の猫、だ。
 夏目が、そっと名取の手を布団に戻した。
「すみません、ニャンコ先生がなんか、手を握ってやればいいとかなんとか。なんか、熱で苦しそうだったし、 試しに握ってたんですけど」
「・・・・・・ああ、ありがとう」
 確かに、少し全体的に改善された気がする。
「何か中心が思いっきり欠けた感じだぞ、名取。妖にでも食われたか?」
「まあ、そんなとこ」
 相手はヒトだが。
「む。まだ漏れ漏れだぞ、名取」
「そうかい? そこまで制御できないな、まだ。内緒にしてくれ」
「え?オレだけハズレですか?いったいどんな妖とやりあったんですか名取さん」
「はは。大丈夫、片付いたよ。それより、なんでここに?」
 確かに自宅の電話番号は教えてあるが、夏目から連絡をとってきたこともないし、もちろん家に来たこともない。
「いえ、その、夕べ変な夢見て、気になって。電話したらお姉さんが来てって言ってくれたんで、 お邪魔しちゃいました」
 無意識に、夏目に助けを求めたのだろうか? そうかもしれない。
「まったく、余計なことに首つっこみたがりでしょうがないガキどもだ」
 ども、というからには名取も入るらしい。いったい、どこまで読まれたものか。
 体を起こそうとすると、今度は喉が痛んだ。本格的に風邪かもしれない。
「あ、寝てて下さい」
「いや、寝すぎて体痛いくらいだよ。おかげで少し楽になったし」
 熱がこもって、布団の中が暑くなっている。額にあったタオルで、顔と首筋を拭くと少しすっきりした。
「周ちゃん起きたの?」
 姉が襖を開けて入って来た。向こうの部屋も薄暗い。
「?」
 暗い、んじゃない?
「む。名取、明かりは点いてるぞ」
「え?」
 見上げると、照明だけぼんやりと輪郭が見えた。点いている、らしい。
「! 見えないんですか?」
「ええ?」
 自分の手を見てみる。薄闇の中で見ているようだ。
「いや、一応、見えるんだけど。暗くて」
「それだけ中が欠けていたら、あちこち支障が出て当たり前だ。すっかり病魔が憑いてるぞ」
「そんなに欠けてるかい?」
「私から見れば穴の空きまくったチーズみたいだぞ」
「だ、大丈夫ですか? 名取さんっ」
「なんか、さっきから猫がしゃべってる気がするんだけど・・・・・・?」
 姉が一人、話から外れている。姉弟なのに、姉にはまったく妖が見えないのだ。しかし、姉の夫は見える人なので、 今は名取が見えることを納得しているが、子供の頃は幼くして母を亡くしたせいでおかしくなったと信じ込んでいた。
「あれ? 名取さん」
 夏目が、そっと手を伸ばす。
「ヤモリが、薄くなってますよ?」
 そっと、頬に触れる。とっさに、名取はその手を振り払った。
 夏目が驚いて手を引く。
「周ちゃんっ?」
 自分の頬を押さえた。ヤモリの気配はない。影だけ、が、見える者には見えるけれど。
「・・・・・・ごめん、夏目」
「いえ、すみません。考えなしで」
「ごめん」
 手の中に、顔を埋めた。
 一瞬、よみがえったあの恐怖。
 覚悟を決めたはずだったのに、逃げ出したくなった。
 ヤモリを食った、あの薄闇の中の顔・・・・・・。
「だだ漏れだぞ、名取」
「周ちゃん、大丈夫?」
 なんだか呼吸の仕方がわからなくなって、苦しい。
 肩を抱いてきた姉に寄りかかるようにして、体を布団に戻した。
 姉が夫を呼んでいる。音が遠くなる。
「夏目、帰るぞ」
 ねこまんじゅうの声が聞こえた。

「大丈夫かなあ、名取さん」  救急車とすれ違って、夏目はニャンコに聞いてみた。名取の義兄も出てきて、救急車を呼ぶというので邪魔に ならないよう失礼させてもらった。あとで、連絡をくれることになっているけれど。
「死にはせんわ。高熱は妖の毒のせいだな、主に。その前に中身が欠けたようだ。毒を内側から受けているようだし、 回復には時間がかかるだろう」
「そんなすごい妖とやりあったんだ、名取さん。片付いたって言ってたけど」
「・・・・・・そういや、柊が顔を出さなかったな」
「柊たちも怪我とかしたのかも」
「そうだな。主があれじゃあな」
 救急車が近くに止まったことに気づいて、そちらへと向かう人たちとすれ違う。近所には、 名取の家と知られているのだろうか? あれでも人気俳優なのだから、明日以降、マスコミも騒ぎ出すのかもしれない。
「手、握っても全然きかなかったじゃないか、ニャンコ先生」
「効いとったぞ、十分。めちゃくちゃだった体の気の流れを整えてやったんだ。ただ、 そもそもその『気』が思いっきり足りなかったんだ。穴あきチーズをスポンジチーズにしたような感じで」
「それはいいことだったんだろうな? また倒れちゃったじゃないか。熱全然下がらないし」
「あのままだったら衰弱して死んでるぞ。やってやったから、時間はかかっても回復すると言っとるんだ。 それに、倒れたのは熱のせいというより、ありゃ、精神的なもんだぞ」
「精神的?」
 夏目は、眉を寄せた。毒じゃなくて?
「よっぽど怖い目でもみたんじゃないのか? ヤモリ絡みで」
「内緒とか言ってなかったか、そういえば。どういうことだ?」
「内緒だって言うんだから内緒にしといてやるさ」
「そんな律儀だったか、先生」
「何を言う。律儀に甘ったれたクソガキの用心棒やっとるじゃないか。それに、名取の頼みだぞ?  ここで恩を売っておけば、今後、酒も刺身も温泉卵も飲み放題食い放題じゃないかっ!」
「・・・・・・わかった、聞かないでおくよ」
 振り返ってみる。
 遠くに、停車した救急車の赤い光が見えた。
 早く、元気になってくれるといいけれど。

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