島の調査の後、怪我と高熱でダウンしたナルは、その後も完全に復調することなく時が経っていった。
一見わからないが、息をつくことが増え、動作がワンテンポ遅い。協力者たちが騒いでいても、嫌味を言いにわざわざ出てくるようなこともない。
ジーンにナルが乗っ取られた時のことを知る者たちには、その原因は明らかだった。
ジーンの存在が、ナルへ影響を与えているのだと。
精神的結合の強い双子であったナルとジーン。この二人が本当に分離することは、実は本当に大変なことなのだと、ジーンが示唆していた。ジーンがあの世へ旅立てるのか、それとも居続けることになるのか。誰もが口を出すこともできず、ただ見守ることしかできずにいた。
そんな頃、一つの事件が起きた。
麻衣が、お昼に人と会う、と出かけて、戻って来た。
その時、部屋にはナルとリン、安原とジョンがいた。
前日に来た依頼を受けることになっていて、慌ただしくしていたときだった。
麻衣は、まるで霊の声でも聞いているかのように、ぼーっとしていた。
「谷山さん、おかえりなさい。今日のお茶にブラウンさんが海外出張のお土産持ってきてくれましたよ。あれ、どうしました? ぼーっとして」
麻衣は、ただナルを見ていた。安原の声などまったく耳に入っていないようだった。
持っていく機材についてリンと話していたナルが、怪訝そうに麻衣を見る。
「なんだ?」
と。
麻衣は、しばらく薄く唇を開けていたが、ナルがしびれを切らす直前、声を出した。
「ナル、カオリさんと、寝たの?」
表情もなく、ただ、ナルを見据えて、麻衣はそんな言葉を紡ぎだす。
その内容に、リンと安原が目を見張る。ジョンは意味がわからなかったようできょとんとした。そうして、ナルを一同、見る。
ナルは、はじめ何を言い出すんだ、と言わんばかりに麻衣を見ていた。『寝た』の意味が、ジョン同様、すぐにはわからなかったのだ。そうして、何かに思い至ったようで、目をわずかに見開く。
もしそれが真実なら、普通、慌てふためく様がみられるものだろう。けれど、ナルは違った。全然。
三人に見つめられる中、ナルは音がしそうなほど急激に、青褪めた。青いのをとおりこして、透けるほどに。
「! ナル!?」
手にしていた書類が散り、リンが崩れるナルを支える。ナルは膝をくじかせたまま、片腕で自らを抱き、もう片方で口をおさえていた。
麻衣は、はっと正気に返る。
「ナル!?」
自分は、何を言った?
ナルは、身を震わせていた。自らを抱いた片腕では抑えきれず、音がしそうなほどに。眼は戸惑うように見開かれて、ただ前方を見据えている。
耐えかねたように更に上体を崩すのを、リンが抱き止め、抱え上げる。
「吐きますか?」
かすかに頷くのを見て、そのままドアへと向かう。麻衣は、慌ててブルーグレイのドアを開けた。二人の後をジョンが追って行く。二階のテナント向けの集合トイレは、廊下の先にあるのだ。
麻衣が自分の一言で発生した事態におろおろしていると、安原がその隣に立った。
「所長室の仮眠ベッドを整えておきましょう」
三人が出て行ったドアを、固い表情でみつめながら言う。
「・・・・・・安原さん、あたし・・・・・・」
「谷山さんがなんのことを言ったのかはわかりませんが、所長のあれは、フラッシュバックでしょう」
安原が、説明しながら所長室へと足を向ける。
「フラッシュバック?」
麻衣も、慌てて後を追った。
「色々、体験しているわけですよね? 所長は。まだ小学生中学生くらいな年齢の頃、凶悪犯罪の被害者体験を」
サイコメトリの能力によって、我がことのように。
「・・・・・・性犯罪の被害者も、いたでしょうね」
「っ!」
「フラッシュバックとは、そういった体験や記憶や感情などが急激に戻ってきて追体験することを言うんです。度合や反応は様々のようですが・・・・・・」
自分の考えなしな発言の結果、こんなことに。
「カオリさん、て?」
麻衣を見ずに、安原が問う。所長室のドアを抜けながら。
麻衣は、安原を手伝いながら、ジーンが沈んでいた湖を訪ねたときの話をした。
すべて、包み隠さず。これほどの事態を呼び込んでおいて、何を隠すことがあるというのか。
安原は、聞きながらソファを仮眠ベッドに整え直し、事務室に戻ると救急箱の中身や冷蔵庫の中身を確認する。その間に、麻衣にヤカンを火にかけさせる。
落ち着かないのか、三人はまだ戻って来ない。
イオン水と救急箱を所長室へ運び、更に冷感地での機材保温用の湯たんぽを所長室の一角にある使用率の低い機材棚から発掘する。
麻衣はその後を追いながら、今日の顛末までを語った。
「・・・・・・ようするに、所長が肉食系女子に襲われたかもしれないということですかね」
「襲われ、た・・・・・・?」
「かも、です。お話のとおりの女性であれば、当然、襲ったでしょう。そうして、仕損じたとしても、成立したと話すでしょう。だって、迫って逃げられた、なんて、肉食女子としてはこれ以上ないくらいプライドが傷つくでしょうから」
仕損じた。の、だろうか?
「なんて言っていました?」
具体的な発言を問う安原に、彼女の言動を正確に伝えた。
「・・・・・・サイズの話ですか。谷山さん。嘘を真実と思わせる基本はですね、真実を混ぜることなんですよ」
「・・・て?」
この場合の真実とは、サイズの話だろうか?
「誰にもわからないでしょう? 谷山さんが所長のサイズを知らないと、カオリさんは知っていた。それが、真実です。実際どうであろうと関係ないんですよ。自分が知っていると匂わせさえすれば、本当らしく思えるでしょう。おそらく彼女は、所長が外国人だと気づいたのでしょう。よく見ればあの目の色は日本人とは違いますからね。背も高いし、美形度も外国人の血が混じっている可能性を示唆します。欧米の血が入っていればサイズが大きめと推察できるわけですよ。十中八九、谷山さんはフラれた彼女のプライド維持に利用されたんですよ」
「・・・・・・利用、された・・・・・・?」
「谷山さんが真に受ければ、所長へ何かしらリアクションを起こす。それで所長が困れば、彼女の溜飲が下がる、ということです」
安原は、固い表情で言う。
この事態は、そんなレベルの話ではない。
男にフラれた肉食系女子のプライド、なんて話ではすまない。
古傷をえぐり出され、自身のプライドなどまるで維持できない状態に追い込まれて。
「ちょっと、長引くかも知れませんね。お兄さんの件で、弱ってるし」
所長室の扉の向こうで、ブルーグレイの扉が開く音がする。
「今回の依頼、どうなるんでしょうね」
安原は、所長室のドアを大開きにして戻って来た三人を迎え入れる。
「!」
安原と麻衣は、その様子に息を飲んだ。
リンに抱かれジョンに付き添われ戻ってきた、ナル。
仮眠ベッドに身を置かれ、上着を脱がされ横たえられた。
意識はあるようで、苦しげだった。青から透明を更に通り越し、顔色はもはや土気色だ。体を固くしたまま身を縮めている体に、毛布を掛ける。
滲む冷たい汗に、髪が額にへばりついている。右の頬に、ひどい蚯蚓腫れが浮いていた。その蚯蚓腫れは、そのまま右目まで続いている。
汗に濡れ身にまとわりつくシャツの胸元を握り締める左手首と、右目を押さえる右手首には、縛られた跡のような圧迫痕があった。
「お湯と湯たんぽは用意しましたけど、冷やした方がいいんですかね?」
安原が問うのに、リンが悩ましげに自身の前髪を掻きあげる。
「とりあえず、温めた方が。体温が下がっていますので」
湯たんぽを用意し、毛布を増やす。その間、ナルは目を固く閉じたままガタガタと震えていた。ただ、ひどい苦痛と寒さに耐えている。
「・・・・・・ごめんなさい」
麻衣が、ソファベッドにしがみついて言う。
触れてはいけない。そう思えた。
ナルの反応はない。聞こえてはいるのだろうが、反応する余裕がないのだろう。
「できることはたいしてないので・・・・・・。谷山さん、ついていていただけますか? 胃液が溜まるまでは、吐かないと思います」
麻衣は、涙をにじませて、うなづいた。
大勢いる方がナルにはよくないだろうと、男性三人は退場し、麻衣一人を残した。
麻衣は、床に座り込んでナルのそばに寄る。
ナルは呼吸さえも痛みを伴うようで、慎重に息をしている。意識はあるのだろう。
「ごめんなさい。信じなくてごめんなさい。騙されてごめんなさい」
ナルが薄く左目を開いた。右目は手で押さえたままだ。苦しげな息をつきながら、シャツをつかんでいた手がのばされる。麻衣は、とっさにその手をつかんだ。
強く握り返され、そのまま胸元まで引き寄せられる。ナルは、麻衣の右手を抱くようにして、再び目を閉じた。
「浄霊と同じだよ」
突然、背後から聞こえた声に、麻衣は振り返る。ジーンがいた。
「暖かい、明るい気持ちを伝えて。ナルを安心させてあげて。今は怖いことなんてないって」
「・・・・・・ジーン」
「ナルは何もしてないよ、麻衣。トイレに逃げ込んで一晩明かしたとは自分じゃ言わないだろうけどね」
麻衣は涙を浮かべながらも軽く笑った。
空いた左腕で、ナルの肩を抱く。
「ナル・・・・・・」
彼を信じる。外敵に怯える彼に、安心を。
「あたしが守ってあげるから。大丈夫だよ」
自身の呼吸を整え、心を定めて、伝える。
「怖がらないで。ほら、あたしは平気。ナルも、問題ない。大丈夫」
言いながら、気持ちをこめた。
触れる手のひらから、想いを伝えた。
麻衣の左手に、ジーンの手が添えられる。なんの感触もないが、少し涼しい空気が感じられた。
少しずつ、ナルの体の力が緩んでいき、震えが収まっていく。
冷え切っていた手も、体温を少し取り戻してきた。
逆に、頬の蚯蚓腫れは頬を腫らしたうえに内出血で赤黒い線になり、手首の圧迫痕は青紫色の痣となって縄の痕だとはっきりわかるようになった。
実際にあちこち痛みがあるようで、だいぶ落ち着きはしたものの、呼吸も表情も安らいでいるとは言いかねた。
「この傷痕や痛みは、すぐには消えない。精神が休まれば、十分だよ」
弟の様子を見ながら、ジーンが痛ましげに語る。
「・・・・・・すごい、痛そう」
「実際にこの傷を受けた人は死んでいる。見えないところにも出ているはずだよ。内臓や骨までは影響しないから、ひどいところでも一か月くらいで治るけどね。繰り返さなければ、だけど」
「フラッシュバックを?」
「そう。一度起こすと、見た目や痛みを引き金に、起こしやすい」
そこに、ノック音がした。そうして、すぐに扉が開いた。
「話し声が・・・・・・」
リンが、入ってすぐ、ジーンを認めて動きを止めた。二人の会話を、ナルが話せるほど回復したのかと思って見にきたのだろう。
「・・・・・・ナル?」
眼をすがめて、リンが問う。
「ジーンだよ、リンさん」
麻衣が言うのに、ジーンが手をひらりと動かす。
「久しぶり。見えるんだねえ」
後ろからジョンらも現れて、リンを所長室に押し込んで続けて入ってきた。
「僕にも見えますです」
「僕だけ仲間外れですか?」
見えた二人が、顔を見合わせる。
「あ、ナル?」
麻衣の声に、ナルが注目される。
ナルが、細く左目を開けていた。
「ジーン」
そうして、呼ぶ。
視線が上がり、ナルが確かにジーンをみつめた。
「ジーンの、未来が、見えた」
ジーンが、息を飲む。すでに死んでいる者の、未来。
ナルは、つらそうに眼を伏せる。
「上がるのは、僕が死んでから」
予想されていた答えに、ジーンは息を吐く。
「ジーンはもうすぐ、霊ではなくなる」
眼を閉じたまま、ナルは言葉を続ける。
「僕と、いっしょになる」
その場にいた全員が、目を瞠る。
「統合される。元々、一つのものだから」
それだけ言うと、ナルは細く長い息を吐きだし、動かなくなった。麻衣の腕を抱え込んだまま。
ジーンは、そんな弟の姿を表情もなく見下ろしていた。
安原以外の全員に、その身をさらして。
「渋谷さんの、お兄さん」
ジョンが、まず口を開いた。
「僕には、死んでいるようには見えません」
麻衣と安原が、驚いてジョンを見る。
「死霊とは、パワーが違っていますです」
ジーン自身も、首を傾げる。
「僕は死んでいますよ?」
リンが、ジョンを見、状況を確認すると、ジーンに向き合った。
「ジーン、私には、あなたが生きているように見えます。幽体離脱した霊体のように。ですから、ナルと間違えたのです」
「・・・・・・僕は、死んでいる」
言い返して、ジーンはナルを見る。生きている弟は、苦しげに眉間に皺を寄せたまま、意識を失くしている。
「解離性同一性障害。いわゆる多重人格、と同じ状態だと思えば、可能かもしれませんね」
安原が言う。
「統合、というのも」
「ナルが言うなら、それは確定した未来です」
リンが、立ち尽くしたまま、言う。
「ナルの能力は、サイコメトリ。過去・現在・そして未来を視る。けれど、ナルの未来を視る能力には、副作用があります。なので、普段は現在まででとどめるようにしているはずですが、もしかしたら今回のことを忘れたくて、あえて未来を視ることを止めなかったのかもしれません」
未来を視る。
ナルは現在と、そして未来も視ることができるから、サイコメトリストと呼ばれているのだ。
しかし、これまで未来を視た話はきいたことがなかったので、まるで考えていなかった。
「・・・・・・時々おおざっぱなんだよね、ナルってば。大事な試験前に二日分の記憶を失くして覚えたことがパーになったことがあるのに」
「ああ、あの時は、怒り狂ってましたね、自分に」
「しかも何を見たのかよくわからなかったしね。結果が出てからわかったけど」
ジーンが、懐かしそうに笑った。綺麗な笑みだった。ナルと同じくらいの年の、青年の顔をしている。自分ではわからないのだろうが。
「まとまったら、どちらでもない第三の僕らになるわけかな。ナルが許容するとも思えないけど?」
「けれど、間違っていたことはないですよね」
「そう、だね。まあ、いつのことだかわからないけど。気長に待つよ。そろそろきついから、戻るよ。眠すぎ。じゃあね」
軽く手を振って、すぅっと、ジーンが消えた。
「・・・・・・谷山さんは、ジーンと何を話していたんですか?」
リンに尋ねられて、麻衣は我に返る。
「えっと。一晩トイレに逃げ込んでたとか」
「・・・・・・」
『寝た』疑惑のことだと、三人はわかったが感想はもらさなった。
「繰り返さなければ、一か月くらいで治るとか」
「そうですね。繰り返さないといいんですが」
リンが言うのに、安原が思案気に尋ねる。
「どれくらい消えちゃうものなんですか? その、記憶は」
「その時にしたサイコメトリの記憶は完全に消えます。短くて一〜二時間。最長記録は四日です」
「所長の四日って、すごいロスでしょうね」
「それはもう」
「論文が勝手に進んでたりするんでっしゃろか?」
「自分で『なるほど』と呟いているのを聞いたことがあります」
「ナルのサイコメトリって、いつもは全然、途中でしゃべったりしないよね?」
麻衣が、話を戻した。
「はい。ナルは、サイコメトリをするときに、いくつか習慣づけをしてあります。凶器や血を見たら『カットしろ』と自分に命じる、などですね。そうして危険回避をするわけです。『現在』にたどりついたときにも、『カットしろ』という命令が出るようにしているそうです。そうして『未来』を見たときは、戻ったときに語る言葉を決めておくように言うのだそうです。ですから、さっき語った時は、すでにサイコメトリは終わっているんです。目覚めたときに、未来を視ながら決めておいた言葉を言う、と設定してあるんです。次に起きた時には確実にそれも忘れています。そのまま起きた時でさえ、何を言ったかは覚えていません」
皆が、沈黙したままナルを見た。
麻衣の腕を抱きこんだまま、苦しげに意識を手離している。ひどい傷が顔に出ているので、きれいなだけにひどく痛ましい。
「ブラウンさん、お願いしてよろしいですか?」
ジョンが顎を引く。
「はい。入院設備はないので、僕の部屋ですけど。預からせてください」
調査用の備品である寝袋を用意し、ナルを包む。苦痛に呻いたが、意識は戻らなかった。 一階の裏側半分は駐車場になっている。貴重な機材の一部は積みっぱなしになることもあるので、各スペースはシャッター付だ。ただし、中はぶち抜きになっているため、人間は内階段から行くことができる。リンが、ナルを抱いて降ろした。
ハイエースの後ろの機材棚の隙間にナルを寝かせて、ジョンを助手席に、事務所を出発した。
「ブラウンさんが元々いた教会には、ボランティアで医師が来るんだそうです。不法滞在の外国人とか、病院いけないじゃないですか。そういった方々のために医療を提供しているんだそうです。そういうところに来てくれる先生方なので、秘密も守るし、特殊な怪我も理解してくれるだろうということで。あの状態じゃ、病院に行けば警察を呼ばれてしまいますしね。リンさんが言うには、自室に戻すと、そこでフラッシュバックを起こすとそこに住めなくなる可能性も出るということで、ブラウンさんが申し出てくれたんですよ」
車を見送り、安原が説明するのに、麻衣はうなだれて返事もない。
安原はため息を落とすと、麻衣の頭をぽんとはたいた。
「お茶をいただけますか? 僕はこれから明日からの調査の依頼主を説得しないといけないので、まずは喉を潤して気分転換したいんですけど?」
にこやかに言うのを、麻衣は上目使いに見る。
「・・・・・・とびきりおいしく入れます」
「お願いします」