薄暗い中、金色に反射する髪を見た気がする。
低い天井の漆喰のムラに、安心感を抱いた気もする。
木枠の窓から差し込む日光に、塵が光るのを眩しく見たと思う。
ぼんやりと、再び眠りに引き込まれることなく視界に映るものを視る。
暗くなろうとしている。
狭い部屋。狭いベッドに書架がのしかかるように壁を占めている。並ぶ本の背表紙は、英字もあればラテン語もあり、背表紙さえない紙束もある。書架を見るのに異物が一部遮っている。ようやく焦点を合わせてみれば、点滴の袋が下がっていた。
自分は治療を受けている。
まず、そう認識した。
どこなのか、いつなのかは、わからない。
サイコメトリ中なのだろうか?
無意識に取り込まれてしまったら、その境界はわからない。それを意識した以上は、ある程度経過すれば判断は付くけれど。
視線を動かす。足元の方にドアがある。
点滴は自分の左腕につながっている。
右側はすぐ壁で、窓から差し込む光は見えるが、外は見えない。
書架が迫っているが、間に通路くらいあるだろうから、自分はベッドが狭いと認識したのだろう。
これだけ自分の意志で視線を動かせるのだから、これは自分の現実なのだろう。
自分の状態をまずは考察する。
熱がある。
視界が狭い。半分しかないようだ。片目を閉じている。
現在地がわからないほど長時間、意識が怪しかった。
体を動かすのを『怖い』と思う。
『怖い』理由は『痛い』から。
『痛い』のはどこなのか・・・・・・。
それを認識してはいけない、と思う。
とはいえ、痛いのは事実だ。痛くない場所を探すのが困難なほどに。
けれど、じっとしているのもつらい。少し体をずらそうとした。途端、激痛が体を突き抜ける。
自身が呻くのを聞いた。
痛みを逃すのに、詰めた息を浅い呼吸にして解放する。
激痛が全身を駆け巡る。
右目に、右頬に、両手首に、両の上腕部、胸も腹も背も、腰も下肢も。両足首の後ろ側の痛みが特に強い。腱が切れていると感じる。
ダメだ、そう判断しては。
サイコメトリによる追体験。自身の怪我ではない。自身の肉体は被害を受けていない。
それでも、全身が痛い。苦しい。被害はない。怪我はない。わかっている。でもすぐには治らない。この苦痛を死ぬほどに受けた人がいるのだ。
戻ってきた痛みに、呼吸がついていかない。左腕は肘が曲がらないようにされているようだ。点滴を倒さないように気をつけねば。
この痛みの原因は、自分ではない。
彼女が、連続殺人犯に襲われた彼女が負った傷。
白髪に近い金の髪に、ぎょろりと目玉を動かす四十位の裸の男。
手入れの悪そうな刃物を握り、縛られた体でのたうつように逃げる彼女の足を、ナルの足を捕まえる。
ダメだ繰り返すな!
強く握られた右足首に触れる刃。力を込めて引かれ、味わう激痛。
ナルは、短い悲鳴を上げた。
次はもう片方の足に危害を加えられる。
実際に痛むのだ。その衝撃が肉体に。
いくら自制の強いナルであっても、腱を手入れの悪い刃物で挽き切られる痛みに耐えることなどできない。
左の足首に、刃が食い込む。
耐えきれず上げた叫びと共に、何かが解放される。
しまったっ!
バアンと、部屋が鳴った。
幸い、物が壊れる音はしなかった。漆喰に力がほとんど吸い込まれたらしい。窓へ向かわなくて良かった。
とっさにPKの制御に気が向かったおかげで、追体験がやんだ。
全身の痛みは変わらないが、自分で自分をコントロールできる。PKもサイコメトリも追体験も、制御できる。
人の話し声が急に近づいてきた。被害はなかったが、あれだけの音がした。ナルの悲鳴も聞こえたかもしれない。人がいるなら来るだろう。来ればここがどこだかもわかる。
小さくノックが聞こえ、そうっとドアが開かれる。動きはそっとだったが、木のドアはギイィと大きく軋んだ。
顔をのぞかせたのは、ジョンだった。
「起きられましたか。気分はどないですか?」
ナルは視線を投げたが、返事はできなかった。ここはジョンの教会か。
「失礼しますよって」
ジョンはナルのそばへくると、点滴の具合を点検し、そっとナルの腕を直す。苦しみもがいて乱れた布団を一度はがし、絡んだ体を解放する。無理のない位置に手足や体を動かし、少しシーツを引っ張ると、そうっと布団を掛けなおしてくれた。終始、穏やかな顔をして。
動かされて痛みが強く出たが、耐えられないほどではない。
「渋谷さんが倒れてから、丸一日以上経っています。倒れたのは昨日、三月二十八日の昼の一時過ぎです。今は翌日の夕方五時。今日は夜三時間ほど先生が来てくれはりますんで、診察してもらえますです。点滴は昨日の先生が。ボランティアの看護師さんが取り替えてくれてます。意識がなかったので今は痛み止めは入っていません。痛みはありますか?」
「・・・・・・」
ある、と言おうとしたが、唇がわずかに開いただけで喉から音を押し出すことはできなかった。それでも、ジョンは了解してくれた。
「ありそうですね。先生が来たら、一番に診てもらいましょう。渋谷さんは、事務所で倒れました。犯罪被害の追体験をしたようで、ひどい怪我が浮き出てきました。更に、サイコメトリしはったようで。現れたお兄さんに、未来を視たと、話していました」
未来を視た・・・・・・。だから倒れた記憶がないのだと、ナルは知る。ジョンは二十八日の出来事だと言った。ナルが覚えている最後は、二十七日に事務所へ行くためにマンションを出たところだ。今回は丸一日程度の喪失で済んだようだ。
その期間については、思いだそうとするだけ無駄だと、過去の経験から知っている。
「リンさんから聞きました。未来を視ると、記憶が少し消えると。ですんで、ここ数日のことをリンさんから聞いてありますです。二十四日から二十七日の午前中までは所長室かマンションで論文と向き合っていたはずだと、言うてました」
ならば、保存されているデータを確認すればいいだろう。あとは必要なことはメモを残してあるはずだ。こういったことが自分に起きることがあるので、大事なことはメモを残すクセをつけてある。
「午後は依頼人が来たそうです。廃病院を中心に屋内をメインにしたアミューズメント施設を造っている現場があると。そこで、工事車両が勝手に動いたり資材が崩れたりする場所と、廃病院内に頻繁にいないはずの人影が目撃されている場所があるということでした。病院の方は監視カメラを設置したところ霊姿が映ったということで、その映像が持ち込まれています。渋谷さんが依頼を受けると決定して、二十七日はあとはその打ち合わせや事前調査をしていたそうですよ。二十八日は午前中は仕事に出やすいよう論文を整理すると言って、マンションにおったそうです。午後は事務所へ。僕はその前日にアメリカから戻ったので、居合わせたんです。怪我の痕がたくさん出て、リンさんによると痛みも本物で治療が必要とのことでしたんですが、病院にお連れすると警察沙汰になりかねないので、ここで療養を、ということになったです」
迷惑を感じさせることもなく、ナルが欲しい情報を淡々と与えてくれる。元神父という立場、教会という場所、ボランティアの協力者たち。余分なことを考えずに、療養することが許されると感じる。
「先生が来たらお連れしますんで、もう少し休んでてください。僕のお師匠さんがお会いしたいそうなんで案内してきますです。先生が来るまで、付き添いしてくれはります。こういう時はお一人でいない方がええですやろ。ちょうど誰もいなくて、すんませんでした。ちょっと待っててください」
そう言って、ジョンが部屋を出て行く。
細く開けたままの扉の向こうから、ジョンと年老いた男性の声がする。二人は、すぐに入ってきた。ジョンが、老人の手を引いて。
「渋谷さん、僕のお師匠さんです」
「ソテロいいまんがな。よろしゅうに」
年老いた白髪の白人男性が、コテコテの大阪弁で語りつつ、軽く首を下げる。そうして、よっこらせとベッドと本棚の間にあるらしい椅子に腰かけた。
「じゃ、僕はちょっと教会の方へ行って来ます。先生が来たら、一緒に戻りますんで」
「ああ、頼むで」
笑顔のまま、ジョンが扉を閉めて行った。
ナルは、全身の痛みのせいで荒れている呼吸のまま、視線をソテロに投げた。彼は、こんな異国の地に骨を埋めるつもりで、彼なりに神に仕えている。そんな気配がした。
宗教哲学者として、キリスト教の立場ある方々の話をきく機会をもつことがあるナルには、彼のあるがままの信仰が、肌で感じられた。
「さて。あんさんは安静が必要いうことや。子守唄代わりに、聖書でも読んできかせようやないか。宗教学者やて? ラテン語でええか?」
ナルは、少しだけ顎を引いた。
「たまに使わんと忘れてまうで。助かるわ。ほな、目ぇ閉じて聞いとってや。途中で寝てもうてかまへんで」
ソテロが脇の棚から本を選び出す。ナルは素直に目を閉じた。
母が死んでジーンと二人放り込まれた教会の孤児院では、教育は与えられなかった。与えられたのは、古い聖書を一冊ずつ。英語とラテン語のものだった。英語でも、読めない部分は多かったが、いい加減な神父も信徒たちが集まる時くらいはまともに聖書を読んだり解説をしたりしていたので、それでだいたい読めるようになった。ラテン語は付き合わせて、発音は不明ながら、一年ほどでだいたい読めるようになった。
ラテン語の発音を覚えたのは養子になってからだったが、すぐに理解できるようになった。そのことから、ナルは言語を聖書で覚える。日本語も日本語版の聖書と音読したテープで覚えなおした。英語とラテン語、日本語ほどではないが、文字を拾い読むくらいならば数か国語読めるし、聞き取って話すこともできる。
ソテロが淡々と読むのを聞きながら、ナルは体の力を抜いていく。痛みはあるし、苦しい。けれど、彼の語りが感覚に膜を張っていくようで、体のこわばりがなくなっていった。すると、自然、意識が遠ざかっていく。安らかに、眠りの中へと入っていくのがわかる。
ナルは、抵抗することなく、眠りの中へと落ちていった。
人の声で目覚めると、白衣を着た眼鏡の中年男が入ってくるところだった。
「騒がしいで先生。せっかくよう眠っておったんに」
「それは申し訳ない。こんばんは。私は田中と言います。一応医者です。内科医なんですがね。少し診させてもらいますね」
ジョンから話を聞いているのか、点滴の様子を見てから布団をはがし、動けないナルの診察をする。ナルは、自分のありさまの想像はついた。両のアキレス腱を切られる被害者のサイコメトリをした後、一か月も入院した。その間、何度もフラッシュバックを起こし、全身に浮かぶ傷痕を目の当たりにし、実際の痛みに苦しんだのだから。
彼女は、体中を切り刻まれた。レイプされながら。犯人は自分が果てる寸前、彼女の首にナイフを突き立て、引き抜いた。
自身に降り注ぐ血の雨に、彼女は安堵したのだ。ようやく死ねる、と。
ひどいのが、両の足首と右目。それととどめの首。
実際の傷ではないので、アキレス腱は無事だ。それでも、杖なしで歩けるようになるまで一週間はかかる。今回、足首は二度追体験をしたので、もっとかかるかも知れない。右目はじょじょに見えるようになるが、視力が回復するまでやはり一か月はかかる。
被害者の首の傷は、中心よりやや右にずれたところを刺され、外側へと切り裂かれていた。食道や気管を傷つけ、頸動脈も頸静脈も切り裂かれた。足首を切ったのとは違う、切れ味のいい刃物が使われたのだ。
追体験による怪我は、幸い骨や内臓には影響がない。そのかわり、打撲や内出血として顕れる。
首は右側一帯が黒くなるほど内出血を起こし、三日は自力で首を上げることもできない。
左右の手の指も三本ずつ切り落とされたので、感覚が戻るのに一週間はかかる。キーボードをスムーズに打てるようになるには三週間は軽くかかるだろう。中指と薬指だけは無事だったが、使うには不便な指である。
そのあたりが治ってある程度動けるようになるころには、複数の刺し傷も切り傷も癒されているだろう。
ナルは、寝間着を着せられていた。パジャマよりも医療的には扱いやすいのだろう。それをはだけて医師が慎重に診察するのに、ナルはただまかせた。痛みに耐えながら。体を返されたり、閉じていた目をこじ開けられたりした。最後には、元通り前を合わせ、布団をかけてくれた。
「これは、痛み止めは効く?」
尋ねられて、ナルは左目を薄く開ける。自分に訊いているのだと確認すると、一つ瞬きをしてみせた。
「そう。対症療法しかないね。痛み止めと、当分食べられないだろうから、栄養を。ゆっくり眠って、治してくださいね。ジョン、自力で寝返りは打てないだろうから、引き続き三時間おきに体の向きを変えてやって」
医師は一度席を外して戻ると、点滴に薬剤を追加する。また帰りに寄るから、と言っていたが、痛み止めが効いてきて、ナルは眠りに落ちた。医師と入れ違いに戻ってきたソテロが読む、ラテン語を聞きながら。