翌日、麻衣が大学から渋谷へ行くと、駅で篠原理沙という、大学の友人に行き会った。
「あれ? 同じ電車だった?」
いくつか同じ講義をとっていて、昼食を一緒にとることもある。
「ううん。今は、資格試験の帰り。就職活動に有利になるように、さ。麻衣はバイト先で採用決定なんでしょ? うらやましい〜」
「はは。高校から七年目だから、バイト。ありがたいことです」
「あたしも高一からずっとだよ? 受験の時半年くらい休んだけどさ。まあ、夫婦でやってるような喫茶店のアルバイトに正社員採用なんてあるわけないけど」
理沙は、駅近くのビルの二階にあるちょっと高級な喫茶店でバイトをしている。本格派コーヒーや手作りケーキなどを提供していて、紅茶を入れるコツなども熟知していた。お茶入れ係の麻衣とは、それで話が合ったのだ。
「無事就職できればやめるけど、七年で時給はちょっと高めになってるんだよね。就職決まんなかったら、派遣とかで不安定に生きるよりはこのままかなあ。実家通いだしさ。ああ、永久就職したい」
バイトはあくまで自分の服や遊びのため。理沙は学費も生活費も、すべて親が出してくれているのだという。なので、就職にもそれほどがっついてはいない。
「永久就職ねえ。あたしは就職したら、もう、それにかじりつくことしか考えてないなあ。下手に結婚して子供とか、退職しちゃったら再就職難しいじゃん。家庭も欲しくないかといわれりゃ欲しいけどさ、職も失いたくないよ」
「麻衣はリアリストだよねえ。あたしは家庭っていうか、単に専業主婦やりたいな。旦那と子供のためにちょっと時間使って、あとは自分にも時間使って。うち、母親専業主婦だからさ。あんまりバリバリ働くイメージないんだよねえ」
こういった感覚の違いで、麻衣は育ちというものを意識する。
麻衣の母は、元々は専業主婦だったらしい。けれど、父が死んで、多忙な働く母になったのだ。理沙は、そういったパターンはあまり想像していないのだろうな、と、麻衣は思う。専業主婦でも多忙な人もいれば、自分の時間たっぷりな人もいる。理沙のイメージは自分の母親だけなのだ。だからといって、わざわざ夢を壊すようなことを言う気もない。その通りの人生を歩める人も実際、いるのだから。
「時間あるなら、たまにはお茶飲んでってよ。関係者割引したげるから」
本格派の入れる紅茶というのも、興味がある。何かの役に立つかもしれないし、何より割引だ。麻衣は、誘いに乗ることにした。
二階の喫茶店に入り、理沙からお奨めメニューを聞く。紅茶セットで、ダージリンとチーズケーキをいただくことに決め、理沙は注文を受けて麻衣に水とお手拭を出してから、奥へ引っ込んでいった。
麻衣は、窓際の席から通りを見下ろした。
大勢の人々が、行き交っている。
何せ二階なので、頭ばかりで顔はあまり見えない。
あ・・・・・・。
それでも、わかった。
ナルだ。
歩道の端っこを、ゆっくりと歩いている。
まだ、足の具合が悪いのだ。波に乗れないので、端っこを歩いている。あの、ナルが。
原因は、麻衣にある。胸が痛んだ。
見下ろしていると、ナルが更に端に寄り、立ち止まった。足が痛いのかとよく見れば、ナルが前の方を見ている。何を見ているのかと視線を追って、麻衣はぎくりと身を固めた。
調査で行き会った、麻衣に執着を見せた男。本田達也が、喫茶店のあるビルの出入口をみつめている。
なんで!?
慌ててナルを確認する。が、ナルがいない。
どこに!?
ナルは駅へ向かっていた。その前方に達也がいた。けれど、その間にナルはいない。前に進んではいない。
オフィスへ戻ったのかと反対方向を見ても見当たらない。いったいどこに消えたのかと窓にへばりついて探していると、カランと、店のドアが鳴った。
ナルが、店内に入って来た。
「いらっしゃいませ!」
ちょうど着替えて出て来た理沙が応対に出る。ナルが何か言って、案内されずに麻衣を目指して歩いて来た。
「窓から離れろ」
向かいの椅子に座りながら、ナルが言う。麻衣は、パッと離れて体の向きを変える。
ナルは、外から麻衣をみつけてここに来たのだ。達也にもみつかったかもしれない。
「自分でここに避難したのか?」
「・・・・・・ううん。あのバイトの子、大学一緒で。駅で行き会って誘われたの」
麻衣は、ちらりと外を見る。
「麻衣? お知り合い?」
理沙が注文を取りに脇にやって来た。ひどく嬉しそうだ。状況がわかっていないから、ナルの美形っぷりに夢中なのだろう。
「うん、同じ職場の人」
麻衣は、理沙に緊張を気づかれないように笑顔を作る。
「ご注文は、アッサムでよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
麻衣は目を瞬かせる。理沙は、機嫌よく離れて行った。
「ナル、もしかして常連?」
「静かな店だから、たまに寄る。麻衣が休みの日とか」
「なんで、あたしが休みの日?」
「ここには、紅茶を飲みに来る」
「・・・・・・」
あたしの紅茶が飲めない日に来るってこと、か?
「あたし、ここ初めてなんだけど。お味は?」
「まあまあ」
ナルは鞄からスマホを出し、メールを打つ。ごく短い文章だったようで、すぐにスマホをテーブルに置いた。
「現場監督は調査会社の名称を知らないはずだ。奴はどうやって渋谷にたどり着いたんだ? おまえは、何か手がかりになることをしゃべらなかったか?」
手がかり。オフィスの場所を言った覚えはない。都内、としか。そもそも現場も都内だったし。あとは・・・・・・。
「大学、の、最寄駅、言った」
「そこからここまで、つけてきたわけか。危うくオフィスの場所がばれるところだったな。まあ、向こうは自宅でも良かったんだろうが」
麻衣は、まったく気づかなかった。ここに寄ったのは、偶然だ。昨日の今日で、こんなことになるなど、まったく想像していなかった。
彼の執着は、本物だったのだ。
ほんの数時間、一緒にいただけなのに。
「おまたせいたしました。チーズケーキセットとアッサムをお持ちいたしました」
麻衣は、はっと顔を上げる。理沙がにこやかに二人分の注文を持ってきていた。
「あ、ありがと」
「どうぞごゆっくり」
理沙は、麻衣に店員として語りかけた後、
「また学校で、しっかり聞かせて貰うわよ?」と耳元でささやくと、いたずらっぽく笑んで離れて行った。
何をだ何を、と思いながら、置いていかれた砂時計を見る。麻衣の方が先に落ち切るところだった。
「お先に」
麻衣の分を注ぎ終わったころ、ナルのが落ち切るようになっているらしい。なるほど、高級店だな、と麻衣は思う。
ナルのスマホが振動する。メールが来たらしい。
「スマホどうぞ。注ぐのはやるよ」
ナルは、当然とばかりに黙然とスマホを手にする。
麻衣は自分のを注ぎ終えると、すぐにナルの分を注ぐ。ナルが、画面を見ながら深くため息を落とした。
「どしたの?」
「・・・・・・安原さんにいい案がないか相談してみたんだ」
そう言って、スマホ画面を表示したまま寄越した。
麻衣が受け取ると、替わりに両手でカップを手にする。指がまだ不自由で、両手で支えないと持てないのだ。メールが短文なのも、そのせいなのだろう。
安原なら、短文でも一を聞いて十を知る、で大丈夫なのだ。
「・・・・・・はあ!?」
文面を読んだ麻衣は、間抜けな声を上げる。安原の文章は、語り口そのままに長文だった。
『一本裏通りのホテル街に二人で行って適当なところに入ってください。二時間ばかり休憩すれば万事解決です。一石二鳥。所長は休めるし、相手も諦めます。おまけにオフィスの場所もバレません』
「僕はまだ首が疲れやすいので、早退してきたところだ。とはいえ、この提案はいただけない。却下だな」
「き、き、却下、です」
麻衣は真っ赤になりながら、スマホを返そうとした。
「返信してくれ。『却下』と。あとこの場所」
「う、うん」
ナルはカップを置くと、テーブルに肘をついて手に頭を乗せて外を見る。行儀は悪いが、やむを得ない。
頭というのは、非常に重い。首の半分近くを切られた後、生きていることなど通常ありえない。そのありえないことに近い状態である今のナルの首は、まだ長時間頭を支えていることができないのだ。黒々とあった内出血の跡はかなり小さくなったが、それでも湿布一枚にようやく収まるようになったというサイズなので、包帯で隠してある。
今日は昼前からオフィスに出て、一時間仕事をしてはソファで三十分寝るということを繰り返していた。それも限界で、諦めて帰ろうとしていたところだというのに。
ナルを追い返した安原は、気遣いもあってあんなメールを寄越したのだろう。ベッドの誘惑はあるが、いくらなんでも無理だ。
窓の外を眺める。首を動かす気になれないので、わざわざあの男を視野に入れようとは思わない。このビルに入る時に視線を感じたので、自分と麻衣が一緒にいることはわかっているだろう。
面倒だ。
ベッドの誘惑もあるし、いっそ麻衣とホテルに行くのもありかも知れない。そう思えてしまう。もちろん、ただ体を休めたいだけなのだが。
しかし、利用したことがないので、その手のホテルに気軽に行こうとはやはり思えない。
まだ車の運転ができるほど回復していないし、リンは解析の仕事が山積みで運転手を頼めない。安原に頼むのは気が引ける。さっきまではかろうじて電車で戻る余力があったのだが、ここの階段がまたかなりきつかった。もはや電車は無理だろう。タクシーで帰るかな、などと考える。
その脇で、現状の打開策を考える。
安原の案は悪くはないが、女性としての立場を思えば、雇用主が強制する手段としてはまずいだろう。多少の誤解はさせた方がいい。昨日彼氏の迎えがあって先に帰ったと言っただけでは信じられなかったからここに来ているのだ。この場合は現場にいなかった男の登場が必要だろう。
ナルはチラリと時計を見る。夕方五時過ぎ。これならいけるかもしれない。
ナルは、新たな指示を麻衣に出す。うえっという顔をしつつ、麻衣はおとなしく安原に連絡を取った。