「・・・・・・わかった」
「では、お願いします。谷山さん呼び出しますね」
広田は、安原の説明で急な呼び出しへの怒りを収める。ビルの入口と二階の店とをきょろきょろと見ている不審な男。広田より年上のようだが、随分落ち着きのない奴だな、と思う。安原が携帯で麻衣を呼び出す。広田は、出て来たところで合流して麻衣と連れ立ってこの場を去る役を申し付けられたのだ。
みなし子であんな事務所でもけなげに働き自活する麻衣に、あんななまっちょろい男を近づけてたまるものか、と広田も思う。
わずかな隙も与えてなるものか。
広田は、少しビルの出入り口で待つ構えで歩き出した。麻衣も、男に絡まれるのを心配してか、広田がビルの前で立ち止まってから外に出て来た。広田は、手を挙げてさっと近づいた。
「行こう」
肩を並べて駅へと向かう。男との間に壁となって。
「一緒に食事でもしてから部屋まで送る。ただし、店の選択は君にまかせる。俺は気の利いた店は知らないからな。奢るからそれなりの場所にしてくれ、その方がそれらしい」
広田は、仕事上何度もオフィスで麻衣と顔を合わせている内に、すっかり妹感覚にはまっていた。女としては見れないが、家族的距離感なら持てる。顔や姿形からすれば、兄妹には見えないので、傍からみれば恋人同士に見えなくもない程度の距離感を維持できるだろう。
「すみません、お願いします」
安原はナルの指示通り広田と約束を取り付けると、店内に達也が入っていくことはないだろうから、と、ナルにメールで帰宅すよう促した。ナルは、麻衣を置いておとなしく帰った。相当きつかったのだろう。
まあ、ここは適任ですかね。
安原は息を落としつつ、二人の後を追う。正確には、二人の後を追う達也の後を、だ。安原は、彼が二人を見失うところまでを確認しなくてはならない。
撒こうとする二人を追う達也を追うからにはかなり接近している必要があるため、安原は普段と違い、ラフな服装に帽子を深くかぶってきた。調査時のイメージとはかなり違っている。
達也は、かなり食いついていた。
ぎりぎりに電車に飛び乗る二人について行ったし、降りるのも間に合わせた。それなりに頭も使っていて、みつからないよう電車も反対側の階段から降りて飛び乗り、近い車両まで移動して監視。降りるのもぎりぎりドアを抜けてサッと階段下に隠れてから後を追っていた。安原は更にそれを追う。幸い、達也が二人に集中していたので、やや不審な行動をしても発見されずに済んだ。
下車する人の群れをかき分け階段を駆け上って行った二人を、安原は見失った。しかし、達也はしつこく追っている。その後を追って、安原は隣のホームに入ってきた別路線に飛び乗る達也に合わせて乗車する。車両が動き出すと、達也は車内を移動する。その後をゆっくりと追うと、隣りの車両を睨むようにして吊革につかまっているのをみつけた。
安原は達也の後ろを通り過ぎ、隣りの車両へと歩いて行く。そこに、二人をみつけた。
「ついて来てますよ」
広田のそばで呟いて、そのまま歩き過ぎ、一人分空いた席へ座った。そこでメールを打つ。麻衣がそれを受信して広田に見せる。
二人は、次の駅で降りて改札を出る。安原は、また達也の後ろにつくようにして。
広田と麻衣は、触れそうで触れない距離間を保ちつつ、飲食店が連なる路地を進んで行く。更に狭い路地へ入り、色褪せた暖簾をくぐる。達也が、路地に入って二人の後ろ姿を見送っている。見張る場所を探すために、達也が周りを見回しながら路地を進むのに、安原はついて行く。店から広田が一人で出てきて、達也がぎくりと立ち止まった。
「何か用かな?」
広田の問いに、達也がさっと逃げようとするが、そこに安原が立ちはだかる。長身の部類に入る安原に、標準より低めの達也は急ブレーキをかけてのけぞった。
「こんばんは、本田さん。意外なところでお会いしますね」
帽子をとりながらにこやかに言ってやる。達也にも、麻衣の同僚の安原だとわかったようだった。
「ご紹介しましょうか? こちらは、谷山さんの彼氏さんです。警察関係者でしてね。刑事さんとか弁護士さんとか色々お知り合いが多い方なんですよ、谷山さんの強い味方ですね。色々頑固ですがとても誠実な方で、こそこそすることもないですし、我々もお二人の関係を応援しているところです。本田さんはこんなところで何をしているんでしょう? ずうっとお二人の後を、渋谷から追っていましたよね? 正確には、大学から谷山さんを、そして渋谷からお二人を、ですね。人の恋路を邪魔するものは馬に蹴られて死んじまえって言いますけどね、この場合、馬に蹴られるべきは本田さん、あなたですよ?」
立て板に水、とは安原のためにある言葉か、と広田は思った。
硬直して固まったままの達也に、微に入り細に入り達也の行動を非難しつつ広田を持ち上げつつ遠回しにかつ確実に脅しをこまごまとかけていく。一貫して、友好的表情を浮かべつつ、だ。
達也の背後に立ちつつ、夏も近いというのに広田は冷たい風を感じていた。おだてられる気恥ずかしさよりも、達也が言われていることを我が身に置き換えて細かい傷を一緒に負っている感じだ。自分は決して同じような行動をする人間ではないと思いつつも、何故か浅くとはいえ傷つく感覚はなんだろう?
心に浅い傷を負いつつも、広田はなんとか自分を維持する。そうして、安原の弱点を一つみつけた。安原は、なんだかんだいっても、まだ学生。人生経験値は低いのだ。知識だけではわからないものもある。
広田は、回り込んで安原の脇に立った。
「おい、人の彼女つけまわして、なんのつもりだ? 彼女は二股かけるような女性ではない。交際相手は俺だけだ。俺は自分以外の男は仕事仲間しか彼女の周りにいることを認めない。彼女も同意している。おまえは仕事先で会っただけの人間だ。仕事は終わった、もうまわりをうろつくな。今度みかけたら、警察に相談するからな! わかったらさっさと消えろ!」
わざと怒ってみせながら強く言うと、達也はおどおどと逃げて行った。
「いいんですかー? あれだけで逃がして?」
もっとしゃべる気まんまんだった安原が非難あり気に言う。にこやかに。
「ああいう奴はニコニコ言ったらダメなんだよ。ダメなものはダメだと、ダメだって顔して言わないと。顔で笑って文句言っても通じないんだ。顔が笑っているから悪いことは言っていない、と思ってしまう。空気も読めない。遠回しも通じない。本当は、谷山さんにはっきり言ってもらった方が効果はあるのかもしれないが、気味悪がってるし。あれで効けばいいんだが」
安原は、感心したように、へえ、と呟きつつ達也の背を見送っている。遠く角を曲がる時にこちらを見ていた。だいぶ怯えてはいるようだ。
「確かに、通じている感じはしなかったですねえ。混乱しているだけって感じで。そういえばそんな話を読んだことがあります。やんわり断ってもつきまとったりするのは、穏便に断ろうとするからで、顔と言葉を一致させて断固として言わないと通じないって。もっとも、通じた結果穏便に済まないこともあるようですが」
「ああ、やっかいだな。君は口達者でいいがな、通じない奴相手じゃ無駄だよ」
「まあ、顔と言葉は一致していましたが。僕の経験からすると、彼がそういうタイプなら、広田さんの言ったこともあまり通じなかったかもしれませんね。言われたことのどれか一つ二つしか拾われなかったんじゃないですかね」
「それでもって、いいように解釈するって?」
「ええ」
「まったく。なんにせよ、しばらく谷山さんのことはガードした方がいいだろうな。度々大学に出没するようじゃやっかいだが。奴の仕事先はわかっているんだろう?」
「ええ、現場監督も困った奴だと言っていましたから、ちょっとこちらの困った事情を言っておきましょう。一応、親代わりを自認していましたから、なんとかしてくれるかもしれません」
そこで安原は後を広田にまかせて退散した。翌日聞いたところによると、広田と麻衣はその店で憂さ晴らしに結構飲み、大いに食べたらしい。それから、安原の忠告どおり降りた駅から遠ざかるようにして別路線の駅まで歩き、帰宅したのだという。
安原は翌日、さっそく廃病院の工事現場を訪ねた。達也は仕事をしていたが、そちらには構わず、現場監督をつかまえる。状況を話すと、当分は達也の遅刻早退欠勤を許さないようにすると約束してくれた。よく言っておく、とも。
土日は休みだとのことだったので、土日はこちらも厳重警戒しておくこと、何かあれば連絡するということで了解を得た。
ナルはまた一日休んだ。部屋で仕事をするという。一度、安原が差し入れと送信できないデータを持参し、事の次第もついでに報告する。
「土日外出禁止と、伝えてください。平日は当分、誰かが帰り部屋まで送るように。外出禁止を怒るようなら、送迎付きで仕事、と」
「了解しました」
「広田さんには、僕からも連絡しておきます」
「ええ、お願いします。大変助かりましたから」
雇用主の仕事としては、やり過ぎな気もしますけどね。
と、ひそかに安原は思った。仕事が原因であるので、彼は雇用主として部下の安全を図っているつもりなのだろうけれど。
「それにしても、相変わらず殺風景に広い部屋ですね。谷山さん一人くらい住めるんじゃないですか? 保護しては?」
ナルは、黙って手を振って安原を追い出した。
半月ほどは、穏便に過ぎた。しかし、ゴールデンウィークに入り、現場も休みになったようで、再び彼が渋谷に出没し始めた。あいにく、現場監督も家族と田舎へ帰っており、電話で注意をする程度のことしかできない。
ゴールデンウィークの折り返しの頃、遊びに来た綾子と帰ろうとした時、オフィスがあるビルを出て駅へ歩き出してすぐ、麻衣は肩にかけていたトートバッグを強く引かれた。
振り返ると、達也だった。
「麻衣!」
すぐに綾子が抱き寄せようとしたが、相手はバッグをつかんだまま離さない。連れが女と見て姿を現したのだろう。麻衣は、オフィスの場所がバレたと知り、青褪めて固まってしまった。
「離しなさい!」
綾子は麻衣からバッグを外し、自分がバッグを引き合う形にして麻衣を背にかばう。周囲の人々は何事かと振り返るが、遠巻きにするか立ち去るかだ。
「僕は谷山さんとお話をしたいんです。あなたに邪魔する権利はないですよ」
達也はバッグを離し、麻衣へと回り込もうとする。綾子は自分を盾にして麻衣を下がらせる。ごく至近距離の目の前に立たれて、綾子は睨みを利かす。他人との適正な距離感もわからない男らしい。安原の言っていたとおりだ。
綾子の背から、急に麻衣が離れる。達也から逃げたがっていた綾子の体も、すばやく遠ざかった。何が起きたか確認するより何より、離れたかったのだ。
その綾子の前に、黒い影。
先ほどまでオフィスのソファで資料に没頭していたはずの、ナルだった。
「タクシーに」
短い指示に、綾子は麻衣を抱えてその場を離れる。幸い、空車のタクシーが見えたのですぐにつかまえて麻衣を押し込んだ。車内からさっきいた場所を見ると、リンの姿も見えた。
「麻衣、大丈夫よ。リンも出て来た。このままうちに来なさい。うちの近所で買い物して、もう休みの間はうちにいなさいな」
麻衣は、固い顔をしながらも不満気だった。
「どうしたのよ。しかたがないでしょ」
綾子は、タクシーに行先を指示してから麻衣に言う。
「真砂子も明日はオフだって言ってたから、呼んでうちでお泊り会しましょうよ。いいワインがあるのよ」
「・・・・・・なんで、あたしが逃げまわんないといけないの?」
怒りが滲んだ声に、綾子は黙る。
麻衣は何も悪くない。それなのに、楽しみにしていた休みをビクビクと過ごし、逃げ隠れしなくてはいけないのだ。
「そうね、被害こうむっている側が逃げ回って不自由な思いして、相手はのうのうと渋谷の街を歩いてるって、変よね。理不尽よね。でも今は我慢しなさい。安全第一よ」
言い切ったところで、綾子の携帯が鳴る。相手はナルだった。
「そのまま警察に相談に行ってください」
「わかった。麻衣は今夜はうちに泊めるわ。しばらくいてもいいわよ、あたしは困らないわ。きっちり話つけてちょうだい」
「また連絡します」
達也の前であまり話をしたくなかったのか、すぐに通話は切れた。
綾子は運転手に最寄りの警察署へ行くよう頼む。麻衣は、ただ黙って、膝に置いた自分の手を睨みつけていた。
警察では、今回は相談という形で記録を残してもらった。相手の身の回りの人間にも警告してもらい、こちらも警戒していたというのにわずかな隙をついて接近してきた。警察関係者を彼氏に仕立てて直接警告してもらってもいるのに、だ。今後も警戒が必要で、通報する事態も予測できると、綾子が説明する。
警察では、麻衣の携帯番号を登録し、そこから110番通報をした場合、どんな事情で通報したかがわかるようにしてくれるという。一つの収穫だろう。
本当に諦めたのかはしばらく様子を見るしかない。
「麻衣、帰るぞ」
「はあい」
しばらくは所長自ら護衛し、帰宅することとあいなった。