誰かの声がする・・・・・・。
『10数えるんだよ、ずるしちゃだめだからね』
子供の声。
聞き覚えのある声。
・・・・・・誰?
『もーういーよっ』
笑いを含んだよく通る声。
あの声は・・・・・・。
(ジーン・・・・・・?)
「今日はお休みなさいと言ったでしょう?」
ため息まじりに言われて、麻衣はしゅんと下を向いた。
おずおずと渋谷のSPR事務所に来るやいなや、タカには殴り倒されそうになるし、安原には
冷たい視線を送られるし・・・・・・。
あげくの果てには、タカのお説教を真横で聞きながら安原に背中を押され放
り込まれた資料室で、このトドメ。
(今日は休めって言われたけどさあ、確かに聞きましたけどもさあ)
幽霊島の調査から戻ったのが、おとといのこと。麻衣は、リンから2、3日お休みなさいと言われて
いた。体調によっては、連絡をくれればもう数日休んでかまわない、と。
しかし、リンは安原には翌々日から出勤して欲しいと言っていて、タカにも報告書を早めに
提出して欲しいと連絡していたのだ。
今回の調査で、麻衣は危うい目に遭い、入院までした。さすがに帰って翌日は少し熱が
出たものの、今朝には下がったので出勤してきたのだが・・・・・・。
(みんなして怒るとは思ってなかったよぅ)
「安原さんと高橋さんもいますし、ナルがいないのでしばらくは仕事も受けません。谷山
さんの仕事はありませんよ」
無表情にきっぱり言われてしまうと、なんともとりつく島がない。
「けど、データ整理とか・・・・・・」
「ナルからも休ませるよう言われています。まだ顔色悪いですよ?」
抵抗を試みたものの、さすが所長、こちらの性格を読んでいる。
(なんでこんな時こんなことに手回しがいいのよ〜〜〜)
「あたしは、もう大丈夫ですけど。リンさん、ナルは?」
麻衣よりも被害のひどかったナル。
暴力を振るわれ、帰りもまだ熱があったし、痛みで足を引きずっているような状態だった。仕事馬鹿の
あのナルが休んでいるのだから、まだ、回復していないのだろう。
「ナルは、帰ってからまた熱がぶりかえして、まだ完全には下がっていません。ケガもしていますし。来たのが谷山さんではなくナル
だったら、つまみだしているところです」
それは、かなり怖い。
「ええと、あたし、ホントに大丈夫ですから、忙しいでしょう? あたしだってもう5年近くここに
いるんだから、調査直後の整理作業が大変なのくらいわかってるよ。カメラかついで走り回るわけじゃ
ないし、猫の手より使えるってば。ナルに内緒で、お仕事しましょ、ね、リンさん」
にーっこり笑顔で言ってみせたものの、リンの無表情は変わらない。それどころか、目がよりいっそう
厳しくなった気がする。それでも、ここで追い返されてなるものかと、麻衣は笑顔をキープする。
ナルだけでなく、リンにもこれが効くことがあるのだ。
案の定、リンが視線をそらし、ため息を落とした。
「・・・・・・わかりました」
(やった!)
「そこまで言うのなら、谷山さんにお願いしたいと思っていた仕事が1件あります。やりますか?」
「はい! もちろんやりますともっ! なんでしょうっ?」
両手をもみ合わせてニコニコと勢いこんで尋ねる麻衣に、リンはその内容を告げる。
麻衣は、笑顔のまま固まった。
「ナルと麻衣は?」
「おやすみです」
珍しく昼前にやって来た滝川は、挨拶もそこそこに安原に尋ね、その回答を聞いて小首を傾げた。
「大丈夫かね。2人とも1人暮らしだろ?」
「大丈夫でしょう、今朝、リンさんが渋谷さんの様子見て来たそうですし、谷山さんはさっき
来ましたしね。一見元気そうでしたよ」
「はあ? 麻衣が来た?」
「ええ、リンさんが追い返しましたけど」
「うん。むくれて帰ってったよ」
アイスコーヒーをテーブルに置きながら、タカが補足する。
「『さすが副所長様は違うよ』とかなんとか言って。どういう意味だか」
「ほお」
リンに何を言われたのかと考えを巡らす間もなく、資料室の戸が開いてリンが顔を出した。
「滝川さん、ちょっと」
リンに手招かれて滝川が資料室に入ると、リンの定位置と化しているパソコンの脇には、
大量の種々の記録媒体を納めたケースが、これまた大量に積み上げてある。
「こりゃあ、大仕事だな、また」
これじゃしばらく遊んでくんないなあ、と内心ぼやきながら滝川が言うのに、リンは
「ええ。浴室にカメラを2台設置できなかったのが心残りです」と、あっさり言う。
功績が認められ副所長に昇進したところで、雑用と給料が増えただけ、とのたまって下さった副所長
様は、仕事に対する姿勢がさすがに違う。
「んで、ナルちゃんは大丈夫かい?」
前回の仕事の話にキリがついたところで滝川が切り出すと、リンが肩をすくめてみせる。
「帰ってから熱が39度台までぶりかえして、今は38度前後ですね。ナルは平熱が低いですから、さすがにおとなしくしてますよ」
「ケガの方は?」
幽霊島の使用人でもっとも若かった40歳のおじさんが、ナルを痛めつけた犯人だと聞いている。
島でナルの舌鋒にやりこめられた恨みもあって、マッチョのおじさんはかなり手加減なくやってくれた
らしい。
ナルはその前に霊に襲われてケガをしていたし、寝不足に麻衣の行方不明騒動の心労までもが
重なっていた。気もそぞろで男の気配に気付かず、不意打ちの一撃がまたかなり強烈だったようで、
ろくに抵抗もできなかったらしい。骨や内臓こそ無事なものの、全身アザだらけだという。
「まだ痛みはあるようです。それで、昨日は私がついていたんですが、今日は谷山さんにお願いしました」
「は? 麻衣?」
「ええ、どうしても仕事が欲しいということでしたので、ナルの部屋で休んでなさいと言って帰した
んですよ。人がついていないと心配ですから」
「それはそうだが。けど、一応、男と女2人きりにしていいのか?」
余計な心配だとは重々承知。あの2人のことだからまちがいはなかろうが・・・・・・。
「悪さする元気ありませんよ、今のナルには」
わずかに笑んで、リンが滝川の心配を一蹴する。
「谷山さんがナルを襲うはずもありませんからね、大丈夫でしょう。ご心配なら、様子を見に行かれて
は?」
「あははははー、様子、ねえ」
「昼に一度、私が様子を見に行くつもりだったんですが。滝川さんさえお時間あるようでしたら、
お願いしたいのですが」
ようするに、資料室に招き入れた理由はこれだったらしい。
「そうねえ。行ってみようかしらねえ〜。・・・・・・ナルの機嫌、悪くなかったか?」
「悪いですよ。病院で目を覚ましてしばらくは、依頼人たちに対してだったようですが」
リンと滝川は、それぞれ視線をさまよわせながら話す。
心配の理由は、表向きは若い男女を二人きりにして間違いがあったら・・・・・・。裏向きの理由を、滝川も感じ取っていた。
「帰りの頃は、違う感じだったよなあ」
「そうですね。・・・・・・どうやってみつけたのかを話した後から、少し様子がおかしかったですね」
黙って、2人は視線を交わす。
ナルのご機嫌斜めの理由。
「しばらく、ジーンが出てる様子なかったよな」
「ええ。昨年の今頃、連絡がとれなくなったと聞きました。ナルが20歳を過ぎた頃から、呼びかけても
出てこなくなったようですよ」
「けど、まだいたわけだ」
行方不明になったナルと麻衣を捜していた彼らに、2人の居場所を示したジーン。初めて、全員の前に
霊としての姿を現した。
これまで、ナルと麻衣、時に真砂子が特殊な環境下で見るだけだったジーン。ナルと瓜二つの双子の兄。
死んでから出会ったにもかかわらず、麻衣が想いを寄せる相手。
滝川は、上着を手に立ち上がった。
「ま、ちょっくら様子見にいってくら。夜、用事あるんで、5時頃まではナルんとこいるよ」
「よろしくお願いします。連絡を入れておきますから」
「ほいな。じゃ」
笑顔で手を振り資料室を出ていく滝川を見送ってから、リンは1つため息を落とす。
それから、電話の受話器を上げた。
勇気を振り絞って押したチャイム。
(寝てるのかな?)
試しにもう一度押してみても、無反応。麻衣は、あきらめて手に握りこんでいた鍵を鍵穴に差し込んだ。
麻衣と同じ駅を利用しているとはいえ、ナルの部屋を訪ねるのは初めてだった。
(それも、いきなり合鍵・・・・・・)
リンから預かってきた鍵で、どこにも住人の名を示すもののない部屋の扉を開けようと試みる。小さな
音がして、鍵が外れた。
(うおうっと)
開いたということは、まちがいなくここがナルの部屋ということなのだろう。
降り出した雨に慌てて15階建てマンションのエントランスに駆け込むと、
いきなり、別世界だった。
まるで、一流ホテルのロビーのよう。磨きこまれた石の壁と床。ゆったりとしたソファ。大きな観葉
植物。フロントには笑顔のおじさま。
(な、なんつー豪勢な・・・・・・)
おずおずとフロントに行くと、リンから連絡を受けているということで、エレベーターへと続く扉のロッ
クを外してくれた。不審者は中に入れないようになっているのだ。
エレベーターで3階に上がる。出ると、狭い共用廊下と3つの扉。1つは非常用階段に通じ、残る2つが
住居用。
(各階二部屋かい・・・・・・)
贅沢な暮らしをしているなあ、と思いながら、部屋番号を確認する。扉のプレートには部屋番号があるの
み。麻衣は、302号室の前に立ち、様子をうかがってから、呼び鈴を押した。
鍵が外れたので、恐る恐る扉を押し開ける。
「おじゃましま〜す」
細い声で告げて、麻衣は廊下に上がった。
正面は白い壁。左右に廊下が伸びていて、いくつもの扉や引き戸が見えた。
(ええと、入って左側の玄関寄りの部屋が、寝室って言ってたよな)
リンから聞いた情報を元に、麻衣はその部屋の前に立つ。気配をうかがい、指先でノックしてみる。反応は何もない。
(寝てるのかな〜)
そっとノブをひねると、カチャリと小さな音がした。小さいが、静かなので結構響く。押し開けると、廊下側の壁際に
ベッドがあり、その中に誰かがいるらしく掛け布団が盛り上がっていた。
(ナル・・・・・・だよね?)
一人暮らしなのだから、そうに決まっているのだが・・・・・・。頭から布団をかぶって丸くなっている図というのは、
想像していなかった。
(空気悪い)
病人のいる部屋特有の空気の重さを感じて、麻衣は扉を開けたまま、まっすぐ正面の窓に向かった。窓を開けると、
雨の匂いと一緒に冷たい空気が入り込んできた。
鏡の向こうにジーンがいる。
そんな形でしか会えなくなってしまった、双子の片割れ。
いや、もう、鏡越しにすら会えなくなった。
声も聞こえない、姿も見えない、なんの片鱗もない・・・・・・。
『僕はいるよ』
幻聴のように脳裏に響く声。
『僕はここにいる。ナルが僕を望んでいないだけ』
寂しいのか、怒っているのか、重く沈んだ声が聞こえる。
『勝手だよね』
言葉を投げてくるのは、ジーンだ。
それと気づいて、ナルは驚いてぼんやりとしていた意識をたぐり寄せる。
『僕が逝けないのは・・・・・・』
急激に浮上していく意識。目を覚ましては聞こえなくなってしまう。慌ててももう遅い。
根拠もなくそう思い、目覚める寸前にあがくナルの意識に、ジーンははっきりと告げた。
『ナルのせいなのに』
届いた言葉を解する間を与えられることなく、ナルは目覚めた。
ナルが目覚めてまず感じたのは、暑苦しい不快感だった。
薄暗いのは、自分が頭から布団にくるまっているせい。半ば密閉された空間に、汗まみれの熱をもった
体を閉じこめていれば、不快なのも当然だ。
ナルは生ぬるい空気を一度吸って、あきらめて姿勢を変えた。
布団から顔を出して、あまりの空気の冷たさにナルは異変に気づく。見れば、窓が開け放たれ薄いカーテンがゆるく
動いているし、扉も開いている。
(誰か来たのか?)
枕元の目覚まし時計を見ると、12時少し前。リンが昼に様子を見に来ると言っていた。
断ったけれど、来るだろうと思っていたが・・・・・・リンにしては、時間が早すぎる。
聞き耳を立てると、開いた扉からパタパタという軽い足音がかすかに聞こえてきた。男の足音ではない。
この軽い足音の主は・・・・・・。
(麻衣?)
正体に気づくと同時に、ナルは目覚める直前に聞いた夢の声を思い出した。なんと言っていた?
ジーンの言葉。死を知ってから2年近く、まったく音信不通だった。それから、鏡越しに、ジーンの意識が
浮上した時だけ会話を交わせるようになって、それも2年ほどで絶えた。今度こそ成仏したかと思っていたのに、
1年半たった今、彼はナルの元に戻って来た。
ジーンが、ナルと麻衣が閉じこめられていた場所を示したと、リンから聞いた。
彼がまだいるのだと知ったから、再びラインが繋がったのだろうか? 麻衣の元に現れていた様子もなかった
のに。今度こそ、本当にたった1人で、見守っていたのだろうか?
『僕はいるよ』
夢で、ジーンは言った。
『僕はここにいる。ナルが僕を望んでいないだけ』
元々、彼を望んでなどいない。死んでしまった兄を引き留めようと考えたことなどない。
『勝手だよね』
(勝手はお互い様だ。勝手に1人で日本に行って、勝手に死んで、勝手に化けて出てきて、勝手に成仏せずにい
るんじゃないか)
彼が留まることを望まないのはナルの勝手かもしれないが、誰が死んでまで兄が地に繋ぎ止め
られることなど望むものか。
『僕が逝けないのは、ナルのせいなのに』
(経文の1つも唱えろというのなら、それくらいやってやる)
他のどんな理由で、責任を人に押しつけてくるというのか。
冷たい空気で体が冷えるのに、ナルはふと気づく。そうして、ただの夢なのかも知れないことにムキになって
いることにも気づいた。
体の具合の悪い時に考えるようなことではない。ナルは、ベッドを抜け出した。
ベッドのきしむ音を耳にして、麻衣はキッチンを出た。
「あ、ナル、起きた?」
ナルの部屋に行き声を掛けると、窓を閉めた彼がゆっくりと振り返る。
「空気悪かったから、入れ替えてたの。寒くてもちゃんと入れ替えないと駄目だよー。悪い空気吸ってたら
良くなるものも悪くなっちゃう」
戸口から麻衣が腰に手をあてて言うのに、ナルが物憂げな視線をよこす。
「なんで、おまえがここにいるんだ?」
「リンさんに見張りを頼まれたの。あたしはあたしでリビングで休んでなさいって」
「事務所に行ったんだな?」
「う・・・・・・」
ナルは寝汗にヨレたパジャマ姿。そんな格好で睨まれても、まるでその威力に支障はない。麻衣は戸口から
一歩身を引いた。
「ええと、あたしは、ナルほどひどくないもんっ。熱ももう平熱だもんっ」
「開き直るな。帰れ」
「ダーメ。リンさんに頼み込んでやっとこもらったお仕事なんだから!」
麻衣は負けじとずずいと部屋に一歩踏み込む。
「あのね、おかゆセットしてあったの。もうじきできるから・・・・・・」
「帰れ」
「ちゃんと食べて栄養つけて元気になってから言って下さいませよ所長様! 高熱で朦朧としている人の
言うことなんかきかないからね! 何が食べたいとか飲みたいとかそーゆーお願いだったらいくらでも
きいて差し上げますけどねえ、病人ほっぽってどっか行けなんてワガママはききませんことよ、おわかり
っ!?」
「僕は自分の部屋に帰れと言ったんだ。病み上がりが傍にいたら治るものも治らない」
「もーうきっちり治りました! 体調狂ったけど別に風邪の菌蓄えてるわけじゃございませんの、わたくし。
所長様さえおとなしくお休み下さってれば、あたしもリビングでゆっくり休めますのよっ! わかったら
とっととそのびしょぬれのパジャマ脱いで体拭いて新しいの着て! シーツの替えはどこにあるのっ?」
「・・・・・・・・・・・・」
しばしの睨み合いの末、ナルがため息を落とす。
「ベッドの下だ」
麻衣の勝利。
ナルが着替えを持っていなくなってから、麻衣はベッドの下の引き出しから替えのシーツと枕カバー
を見つけ出す。
(うわー、汗かいてる汗かいてる)
湿気たっぷりのシーツと枕カバーを替えて、床に落ちていた氷枕を拾う。ぬるい。
(効果なくなって、うっとうしくて落っことしたのかな?)
氷あるかな? と、麻衣はキッチンに戻る。
しっかりできているのを確認してから、氷枕の中身を捨て、新しく作り直す。
(熱、計らせないとなー)
廊下に出ると、ナルが洗面所らしきところから姿を現した。顔を洗ったせいか、乾いたパジャマに
着替えたせいか、すっきりした顔をしていた。
「ナル、熱計ってみてね」
声を掛けながら、麻衣は先に寝室に入り、氷枕をセットする。足音もたてずに、ナルが戻って来た。
「はい、おとなしく寝ててね。体温計どこ?」
寝心地を良くしたベッドを叩いて、麻衣はにこやかにナルに指示する。ナルは先ほどの言い合いに体力を
消耗して懲りたのか、何も言わずにベッドに戻り、ベッド上部の棚から体温計を出す。
「じゃあ、あたし飲み物持って来るね。汗かいたら、ちゃんと水分補給しなくっちゃ」
麻衣は、楽しげに寝室を後にする。そしてナルの視界から逃れるなり、
(勝ったっっ!)と、ガッツポーズを決めた。
濡れて冷えたパジャマを脱ぎ捨てたナルは、顔を洗って見上げた鏡に見入った。
そこに映る自分。ジーンはいない。
16歳で死んだ双子の兄。成長を止めた彼の姿は、鏡の中には見出せない。
アザだらけになった顔と体があるだけだ。
(ジーン・・・・・・)
生きている彼を見た最後。成長途上の少年の姿が脳裏に浮かぶ。
日本に向かう彼に荷物を持たされ、駅まで見送りさせられた。
窓越しに笑顔で手を振るジーンに、軽く手を上げて別れた。
一緒に見送ったルエラが、心配そうに遠ざかる列車を見つめていた。その肩を叩き、安心させる
言葉を吐いた覚えがある。
ルエラが笑顔を見せて、二人で家に戻った。彼女にとっては、あれが本当に息子との別れになったの
に。
誰も、ジーンがこの旅で死ぬなどと想像していなかった。衣服からジーンの様子をサイコメトリしたナル
にしても、たまたま見えてしまったから、ろくに連絡もよこさない息子を常に気にかける両親に、
現在のジーンの様子を伝えることができるだろうとラインを切らずに見守っただけだった。
あんな場面を見るはめになるなどと、想像していなかった。
飲み込まれていくジーンの意識。彼は、自分の死体の中から、自分の死体がどう処理されていくのか
見守り続けていた。ジーンとしての意識は、そこにはなかった。ただ、見守っていた。見聞きしていた。
それを、ナルは受け止め続けた。
湖に投げ込まれ沈んでいく体。明るい水面が遠ざかっていく様子。体を包むシートから水泡が上へ上へと
吐き出されていくのに反して、沈んでいった体。彼が見る目には、シートは妨害にならなかった。けれど、
体という入れ物から、彼が出て行くことはなかった。
ラインが切れてから、彼がその体からいつ出て行けたのか、知らない。
体に残ったものは、死んだ瞬間から、意識のかけらに過ぎなかったのかも知れない。ナルが捕らえたの
が、ジーンの人格を保有する霊ではなく、衝撃に剥がれ残されたかけらだっただけなのかも知れない。
ちゃんと人格を保有した霊は、なんの未練もなくすぐに上を目指しそれでも迷ってしまったのかも
知れないし、やはり湖の底に沈んでしまったのかも知れない。
実の兄のことなのに、心霊研究をする人間であるのに、ナルには、何もわからない。
(知ったからどうだって言うんだ)
人の成仏の仕方を研究しているわけじゃない。
ナルは鏡の前を離れ、パジャマを身につける。
(なんだって麻衣がうちにいるんだ)
そんな仕事を与えたリンに毒つき、ナルは鏡の前に戻った。手櫛ででも、少し髪を直そうとして。
『ナル・・・・・・』
ナルは目を見開き、鏡をみつめる。ジーンの声?
自分の姿。ジーンじゃない。けれど・・・・・・。
体調が悪いせいだ。おかしな夢を見たせいだ。そう思いつつも、ナルはそっと鏡面に触れた。指先だけ。
途端に、真っ暗になった。
(何?)
麻衣と共に閉じ込められたあの場所のように、一点の光もない。停電にしては明かりの消えていく名残
もなかったし、第一、まだ昼間だ。
「ナル」
「ジーン?」
すぐ耳元で声がした。振り返ろうとして、ナルは自分に動かすべき体がないことに気づいた。
あるのは、ただ、意識だけ。そんな形なき耳に聞こえてきたジーンの声。その言葉。
「僕は、死ねないみたいだよ」
それきり、すべての音が途絶えた。
発したはずの、自分の声さえもが。