麻衣が飲み物を持って戻ると、ナルはぼんやりとベッドに腰掛けていた。
「あ、こーらっ。ちゃんと布団入ってよ冷えちゃうでしょー? 体温計は?」
お盆を片手に麻衣が手のひらを差し出すと、ナルがしんねりとした視線を寄越す。何も言わずに、
手元でもてあそんでいた体温計を麻衣の手のひらに載せた。
「あ、37度ジャスト! 下がったんだ、汗かいたのが良かったのかなあ」
ナルは、体温計のかわりに差し出された飲み物を口にしながら、にこにこと下がるはずもない
電子体温計を振ってからケースにしまう麻衣の様子を見守っていた。そんなナルに気づいて、麻衣は
まばたいた。
(あれ? 怒ってる・・・・・・のとは、違う、よね?)
そういえば、さきほどから一言も口をきかない。
ナルは無表情のまま麻衣から視線を外すと、空になったコップをベッドの棚に置いた。
「あ、おかわりは?」
麻衣は、慌ててコップに手を伸ばす。その手首を、つかまれた。
「わきゃっ!」
ぼすっと、背中で音がした。履いていたスリッパが床に落ちる音がする。
麻衣は片手でお盆を胸に抱きこんだまま、自分を見下ろすナルを見返していた。そのナルの背後は
・・・・・・天井。
「な、何すんの〜〜!!」
麻衣がとっさにもがくと、つかまれた手首はベッドに押し付けられたままびくともしない。
(何?)
こんないたずらを、ナルがするはずはない。
「・・・・・・・・・・・・」
怪訝に思い、麻衣はナルを見る。
(まさか・・・・・・?)
表情からは、何もうかがえない。ただ、麻衣を見下ろしているだけだ。
「・・・・・・ナル、離してよ」
重い手首を動かして言う。少し、怒りを含めて。冗談にしてはタチが悪いし、冗談じゃなかったら
もっと悪い。
「・・・の・・・に」
ナルが、わずかに動かした唇から、声を押し出す。
「何?」
「男の部屋に、1人で来て」
言いながら、ナルは空いていた手を麻衣の顔のすぐ脇に下ろす。上半身が麻衣にのしかかる
姿勢になった。
「・・・・・・誘ってるとしか、思えないな」
(・・・・・・は?)
麻衣は、目を丸くしてナルの目を見る。漆黒の瞳に、麻衣の姿が映っていた。近づいてくるそれを
見つめ続ける。ごく間近で、瞼がそっと閉じられた。
「ちょっと待て〜〜〜〜!!」
とっさに、麻衣は抱え込んでいたお盆を自分の顔面の盾にした。
ガツンと音がして、それがナルの顎にヒットする。
「うわっ」
音と同時に身を引いたナルに、麻衣の方が悲鳴を上げてしまった。
が、次には腕の下をくぐりぬけ、すばやく部屋の中央まで逃げる。
ナルは、顎をなでながら、ベッドの上から麻衣を見る。
痛そうな顔をしているが、それだけだった。その目にも、なんの感情もうかがえない。
(ナル・・・・・・?)
麻衣は、お盆を抱えたままじりじりと戸口へ動く。何かがおかしい、と思った。
(熱のせい? それとも、怪我、打ち所悪かった?)
ナルに対してこの種の危機感を感じるはめになるとは、考えたことがなかった。
男と女が2人きり。確かに、わかっていて、麻衣はここに来た。
ここで何かあったら、世間に「そんなつもりはなかった」は通じない。
ナルが気だるげに、片足を床におろす。
ドアの近くまで来ていた麻衣はとっさに身を引き、壁に背中をぶつけて止まる。今、一気にドアへ向かえ
ば、ナルがどんなに急いでもドアを抜けることができるだろう。
そんな距離を冷静にはかっても、麻衣はお盆を抱え込んだまま動けなかった。
まだ、わからない。ナルの行動を、どう判断すればいいのかわからない。
ナルがベッドから両足をおろす。麻衣は、ナルの反応を待った。
スリッパに足を入れてから、ナルが顔を上げた。麻衣に向けられたナルの目。
麻衣の怯えを冷酷に見抜くその視線。
ナルがゆっくりと立ち上がる。
麻衣は、扉に突進した。
「で? 何があった?」
リンの馬鹿、と心中で呟きながら、滝川は麻衣に尋ねた。
滝川がエレベーターをおりたところに、麻衣がナルの部屋から飛び出してきたのだ。靴も履かずに。
お盆を抱え込んだまま。
滝川は麻衣を玄関先に待たせてナルに会いに行ったのだが、ナルは布団をかぶって狸寝入りを決め込んで
おり、そのベッドの足元には何故かスリッパが2足そろえられていた。
別に、室内が荒れているわけでも、麻衣が泣いていたわけでもない。滝川は麻衣から事情を訊くことに
決め、お盆だけ置いて早々にマンションを後にし、近所のレストランに入った。昼食の注文をして、麻衣に
事情を話すよううながす。
テーブルの向かいから、麻衣が上目遣いに滝川を見る。
その表情から、麻衣の戸惑いがうかがえた。
予想がつくようなつかないような・・・・・・。
「幽霊でも出たか?」
あえて話をずらしてみる。すると、麻衣はぶんぶんと首を振った。
「そうだよなあ、あの部屋、除霊済んでるもん。こーのワタクシが除霊したんですからね」
「ええ!?」
期待した通り、麻衣が驚いて顔を上げる。
「あそこ、いたの!?」
「おうよ〜。知り合いの叔父さんが賃貸の仲介してたんだが、高級マンションに
もかかわらず、値下がりしまくりのブラックリスト物件だったのさ」
にんまり言ってやると、麻衣は身を乗り出して話を聞く姿勢になっている。
「ナルちゃんに外国人に部屋貸してくれる不動産屋聞かれてさあ。たまたまそういうツテがあったんで、
幽霊付きでもいいから良くて安いとこっつったら、あそこを紹介してくれたんだな。凶悪だったわよ〜」
「で、でも、うっかりサイコメトリしちゃったら・・・・・・」
滝川は指をチッチッチと振ってみせる。
「それがな、あの部屋で何があったってわけじゃないんだわ。あそこに住んでた男の元彼女が、振られた
のと、他にも失業したとか色々あって、自殺したらしいんだな。その女が化けて出て、夜な夜な殺して
やる〜、こっちに来い〜って出て来て、気づいたらベランダから下に落ちそうになっていたとか、そんな
ことが続いて、男は逃げ出したと。で、次に越して来た奴のとこにもやっぱり来て、別人だってわからない
んだよ、彼女。で、また逃げ出して。それを繰り返すうちに値段が下がってって、ついに借り手がつか
なくなって半年くらいたってたんだな」
「・・・・・・い、いったいいくらになってたの?」
駅から近く、環境も良く店も多い。その上、管理も非常に良いし警備システムもしっかりしていてフロ
ントに常時人がいて。しかも、各階2部屋しかないし、2DKとはいえ各部屋が結構広い。少々古いマン
ションとはいえ、20万くらいしてもおかしくない。
「聞きたい?」
にんまりと尋ねる滝川に、麻衣はぶんぶんとうなずく。
「管理費4万円、家賃も4万円」
「うっそ〜〜〜っっ!?」
麻衣の部屋は、築20年の鉄骨木造アパート。駅からの距離はナルのところとあまり違わないが、
こちらは古めの住宅街。少々すさんだ雰囲気もあり、環境がいいとは言いかねる。それでも、風呂トイレ
付き1Kは、高校時代トイレ共同風呂は銭湯だった麻衣には贅沢なものだった。
駐車場なし冷暖房なし西向き1階で3万7千円。管理費共益費が3千円。掃除当番も回って来る。
「ち、調査は・・・・・・?」
あのナルが、幽霊が必ず現れると知っていて何もせずに除霊させたとは思えない。
「もちろん、リンと俺も一緒に数日泊り込んで調査して、それから除霊して引越した。
引越しの手伝いしたって言ったろ?」
「まさか、そういう引越しだったとは・・・・・・」
「下手に女の子いてもヤバイ相手でなあ。彼氏が女連れ込んだと思ってポルターガイスト起こすんだ」
「ええ? ナルなら、絶対やるでしょそれ?」
そして、囮に麻衣を使うはずでは? もちろん、安全を確保した上で。
「おう、ポルターガイストもしっかり起こさせたぞ。なかなか調査に協力的な幽霊だったな〜。
ただ、かなり攻撃的で調査機器も遠慮なくぶっ壊してくれるんでな。調査できるだけ調査して、
除霊したってわけだ。でなきゃ、無人のまま借りて調査継続してるだろうな」
「はあ〜」
ちなみに、保証人は滝川だ。とはいえ、ナルが引越して以降、部屋を訪ねたのは数えるほど。そもそも、
ナルの部屋というのは、来客を迎える姿勢がまるでない。仕事がらみのつきあいは事務所で応対すれば良い
のだし、仕事以外のつきあいはないのだから、本人はそれで充分なのだろう。
以前は、リビングにも1人用のソファがあっただけ。ダイニングテーブルも椅子は2つ。リンが来た
時はもっぱらそちらでお茶しているのだろう。
ナルが酒に悪酔いして滝川が泊まり込んだ時、やむを得ず一緒のベッドに寝たのだが、どうやらそれに
懲りて2人掛けのソファベッドを購入したらしい。
それを知っていたから、リンも麻衣が休める場所があると考えたのだろうが・・・・・・。
「で、幽霊が出たわけじゃないんだろう?」
「う・・・・・・」
麻衣が複雑な表情に戻ったところに、注文した食事が運ばれてきた。まあ、冷めないうちに食うべ、と、
滝川は更に麻衣の発言を先送りさせる。
麻衣は、食事をしながらの滝川の話に引き込まれる様子を見せつつも、心を何かに囚われてしまっている
風であった。
店員が、滝川の前にはアイスコーヒーを、麻衣の前には紅茶を置いて立ち去る。
「ナルが・・・・・・変」
麻衣は紅茶を一口飲み、ようやく語り始めた。
「最初は、いつものナルだったんだけど」
汗をかいていたので着替えに行き、戻って来てから何か様子がおかしかったこと。急に手首をつかまれ、
男の部屋に1人でくるのは誘っているとしか思えないと言われたこと。身の危険を感じて部屋を飛び出した
こと。
話をはぶかれているなあと気づいたが、滝川はあえて追究しないことにする。スリッパがどうして脱げた
のか。接近しすぎた結果としか思えないのだが、麻衣に話させることはない。
「どこに着替えに行ったって?」
「あたしがベッドメイクしてたから、斜め向かいの奥の部屋。洗面所だと思う」
その位置なら、確かに洗面所だ。そこから戻って来てから、様子がおかしいとなると・・・・・・。
(洗面所には、鏡がある)
短絡的すぎるだろうか?
滝川は自問自答する。
再び現れたジーン。弟の生死の境に、滝川らの前に現れた。ナルでさえ交渉をもてなくなって2年も経と
うというのに・・・・・・。
調査中になると現れていたジーン。それ以外の時にはほとんど寝ているのだという彼。
その彼が、こんななんでもない時にナルの前に現れたと考えるのは、不自然だ。
とはいえ、ナルが麻衣に襲いかかるというのも解せない。
ジーンに何か変化が起きていると考える方がまだ、しっくりくる。
怪我と熱とでナルが弱っている今なら、ジーンはナルに対して絶大な影響力をもつのではないだろう
か?
ジーンがナルに憑依した前科はある。あれは合意の上だったが、無理やりの憑依も今のナルになら可能
なのではないだろうか?
(だとしても、何故?)
ジーンがナルに憑依して、麻衣に襲いかかる理由があるのか?
ナルに対してか、麻衣に対してか、滝川ら周囲の者に対してか。それとも、自身のためなのか。
(何故、今なんだ?)
どんな状況の変化がジーンを動かしたというのか。
滝川は、アイスコーヒーを飲み干す。
「戻ろう」
つのる不安に、滝川は席を立った。
ナルは、ただ、待った。
何も見えない、聞こえない。なんの感触もなく、わずかな空気の流れさえも感じない。
暗闇の中、眠りに引きずり込まれそうになる意識を無理やりとどめながら、ただ、待った。
ここが、いつもジーンがいる空間であるならば。
必ず、繋がる時がくる。
相手が、麻衣か、ジーンかはわからないが。
生者であるナルがこんな場所にいるという不自然な状況。こんな状況が、長くもつはずはない。
ナルは、ただ、待った。
ジーンの気配が現れるのを。
麻衣に逃げられ、滝川も去ってから、ジーンはベッドを抜け出した。
麻衣が残していったスリッパを玄関に戻し、ダイニングへ入る。
冷蔵庫から水を出し、グラス一杯、一気に飲み干した。
冷たい水が食道を通り胃を満たす感覚。急に冷やされて、身震いがした。
(適応できている)
無理やり奪いとった、弟の体に。
もう一杯水を注いで、グラスを手にリビングのソファをめざす。腰を沈めてから、部屋がほんのりと
暖かいことに気づいた。麻衣がエアコンを入れていたのだ。
体を動かすのには、少々違和感がある。彼が生きていたころよりも手足が伸びているし、目線の高さ
も変わっている。それでも、触感は正常らしいし、ちゃんと室温を感じることもできる。
(痛い・・・・・・)
さんざん殴る蹴るの暴行を受けた、その痛みさえも感じられる。
(さすがに、ナルも寝てばかりいるわけだ)
病中の気だるさもある。節々の痛みは熱のせいもあるのだろう。ジーンは額に手をやり、本当の体温は
どれくらいなのか測ってみる。麻衣が飲み物を取りにいっている間に細工したので、37度代というのは
大嘘だ。まだ、39度近くはあるだろう。
もちろん、ジーンは痛みや熱を弟の代わりに引き受けてやるために体を乗っ取ったわけではない。
ナルが今、どんなところにいるか知っている。
眠ってしまえばいい、そこで。
そうすれば、2度と目覚めることはないだろう。
(僕は・・・・・・だから)
自分は、ナルとは違うから。彼のように・・・・・・しないから。
だから。
上に何も着ていなかったため、エアコンが入っていても寒くなってきた。冷たい水の効用は早くも薄れ、
頭が熱にぼやけてくる。ジーンは、グラスを置いたままソファを立つ。
寝室に戻ろうと廊下に出、ふと思いついて洗面所に足を向けた。
うっすらと無精ヒゲが伸びかけたさまを、もう一度見てみたくなったのだ。
鏡の前に立ち、ジーンは顎をなでてみる。ざらついた感触。先ほど麻衣にお盆で殴られた傷はないよう
だった。
21歳の、弟の姿。
自分が、自身の肉体で得るはずだった姿。
ナルは、向こう側にいる。
(しまったっ)
悔やんでも遅い。ナルのことを考えた途端に、鏡が曇る。そして、内側から破裂するようにして、割
れた。
その時を、ナルは冷静に見切っていた。
じわりと空間が歪んだ。ジーンへ繋がる予兆だと悟り、身構える。そして、わずかに、一直線に兄へと
通じる道が生まれた瞬間、ナルは溜め込んだ気を放っていた。
あるのかないのかわからない手のひらから放出された気が、細い道を駆け抜けて行く。
そして、その先から光が爆発し、抗う術のないナルの意識をも飲み込んだ。
「ナルっ!」
マンションに戻った滝川と麻衣は、洗面所の床に倒れたナルをみつけた。
みつけたが、すぐに駆け寄ることはできなかった。
洗面所中に散らばった、鏡の破片。
やわなスリッパでは踏み込めず、滝川は麻衣に靴を取りに行かせる。ナルは、破片を浴び、更に
それを体の下に敷いて倒れていた。鏡が割れると同時に倒れたのだろう。上にかかっている分はともかく、
下敷きにした破片で怪我をしたらしく、素肌をさらした手足の下には赤い色が見えた。
麻衣が取ってきた靴に履き替え、滝川は洗面所に踏み込む。麻衣には、救急箱を探すように指示する。
「ナル、おい、ナルっ」
そっと抱え起こし、呼びかけても反応はない。頬に触れると、かなり熱い。
滝川は、ナルの体の上にかかった破片や髪に紛れ込んだ欠片を払い、ひとまず廊下に運び出した。
「ぼーさん、あったっ」
麻衣が救急箱を片手に廊下に出てくる。
「ベッドに運ぶから、布団よけといてくれ」
どこに破片がまぎれこんでいるかわからないパジャマを脱がせてから、滝川は麻衣を追い出してナルを
寝室に運び込む。たいした怪我ではなかったので、滝川はあちこち消毒してから、ナルの右手の指1本と
手首、右足と左足2箇所ずつにバンドエイドを張ってやり、パジャマを苦労して着せてやってから、まだ
溶けていなかった氷枕に頭を乗せてやり、布団をかける。
一つ息をついてから、額に触れてみる。熱はかなり高いようだった。
「麻衣」
滝川が呼びかけながら廊下に出ると、麻衣が洗面所から顔を出した。
「ナルは?」
「熱は高いが、大丈夫だろう。片付けはいいから、おまえも寝てれ。病み上がりなんだから」
「こっち、片付けちゃうよ」
「いいから。ほれ、戻っといで」
滝川は麻衣を洗面所まで連れ戻しに行き、リビングのソファへと背を押してから毛布を取りに行く。気が
かりそうにする麻衣を寝かせて毛布を2枚かけてやり、夕方起こすからそれまで寝ていろと言い置いて
寝室に戻った。
ナルに熱を計らせてみると、39度を超えていた。
目を覚ます気配はない。滝川は洗面所に行き、麻衣が破片を掃き集めてくれていたので、スリッパの
まま洗面所に踏み込んだ。
鏡は、ほんのわずか、支えの金具にひっかかって残っているだけで、粉砕されていた。
周囲に、鏡を叩き割ったと思われる物は落ちていないし置いてもいない。ナルの手足も破壊に使われた
様子はなかった。
滝川は、ジーンが関わっていると確信した。
洗面所を片付けている音がする。手伝いたいところだが、さすがの麻衣も疲れ果てていた。
病み上がりのところに、いろいろなことがありすぎて、疲れてしまった。
何故、ナルがあんなことをしたのか。何故鏡が割れたのか。何故ナルはその破片を浴び倒れていたの
か。
全然、わからない。
うとうとしかけた時、誰かがリビングに入ってくる音がした。
「ぼーさん・・・・・・」
「ああ。寝てろよ、ナル坊は大丈夫だから」
「うん・・・・・・」
不安な思いが顔に出たのか、ダイニングに行きかけた滝川が、近づいてきた。
「少し休めや、な?」
くしゃりと髪をかきまわすように頭をなでられ、麻衣は首を縮めて笑む。ふわっと、体の力が抜ける感じ
がした。眠りかけても、体は緊張したままだったのだ。
「ねえ、ぼーさん」
「ん?」
滝川は床に座り込んだ。こんな状況なのに、聞いてやるぞ、という構えだ。
麻衣には、大人の余裕がちょっと悔しくもある。以前は感じなかったことだ。
「ナルは、どうしちゃったの?」
麻衣の問いに、滝川の笑みがすうっと消えた。真顔になる。麻衣は、とっさに体を起こした。
「ぼーさん?」
「・・・・・・正直なところを聞きたい。いいか?」
「・・・・・・うん」
麻衣は、ソファに起き直った。正面から、滝川と顔を見合わせる。
「俺は、今日はまだナルと話をしていない。さっきは狸寝入りで布団かぶってたし、今も意識が戻って
ないからな。けど、麻衣は話をしたな。おかしくなる前と、後と」
「・・・・・・うん」
麻衣の勝率がかなり高くなってきている、おなじみの口喧嘩。勝利をおさめた麻衣を置いて着替えに
行って、戻ってきてから、様子がおかしくなったのだ。
「その間に、何があった?」
「何って・・・・・・。言ったでしょ? ナルは着替えに行って、あたしはシーツ替えたりしてたよ」
「着替えに行った先は?」
「だから、洗面所・・・・・・」
着替えに・・・・・・洗面所に行ってから。
麻衣は、一つの可能性を見いだし、身を固くした。
その様子を、滝川がじっと、目線をはずさず見ていた。
「・・・・・・ぼーさん、何、考えてるの?」
「・・・・・・多分、麻衣と同じこと」
「あたしは、何も・・・・・・」
「いや、思いついたはずだ。洗面所。割れた鏡。鏡といえば、ジーンだ」
視線をあわせたまま、麻衣は首を振る。ありえない。
「ジーンは、まだ浄化していない。俺も見た」
「・・・・・・助けて、くれたんでしょう?」
「ああ、そうだな。おまえたちの居場所を教えてくれた」
「・・・・・・ジーンなわけないでしょうっ!?」
たまりかねて、麻衣は叫んだ。滝川のたどりついた答えはそうなのだ。涙がにじんで、その姿がぼやけ
た。
「ジーンがあんなことするわけない! ナルに簡単にとり憑くことなんて、できないじゃない!
ナルが同意したはずもないじゃない!」
「ナルはあの状態だ。熱も高いし、怪我もひどい。防衛力は落ちてる」
「ジーンが無理やり乗っ取ったってこと!? そんなこと・・・・・・!」
「やらないと言えるのか?」
「やるわけないよ!」
「勝手にナルの体を乗っ取って、麻衣を襲うなんてこと、するわけがないって?」
「あるわけない!」
いつも助けてくれた。ナルのことを大切に思っていた。ジーンがそんなことをするはずがない。
「麻衣・・・・・・じゃあ、訊くが」
「何よ!?」
ひどく腹がたって、麻衣は滝川を睨みつけた。冷静に、みつめかえす目を。
その目に、わずかに苦痛が浮かぶ。
麻衣は、自分を打ち崩す言葉が、滝川の口から紡ぎだされるのだと、知った。
けれど、ありえない。そんなことはありえない。だから、身構えておくことなどできなかった。
滝川が、口を開いた。そして、その言葉を吐き出した。
「おまえは、ジーンのことをどれだけ知ってるというんだ?」
吐き出された言葉。麻衣の耳に、届いた言葉。
その、言葉の意味。
じわり、じわりと、その言葉が麻衣の頭に浸透していく。
浸透しきり、反芻し、その意味を解いていく。
麻衣の背筋を、何かが駆け下りていった。ざーっと、音を立てて。
何かが、崩れた音。
麻衣は、唇を開く。言い返そうと開いた唇からは、何も言葉はでなかった。
何か言おうと思っても、言葉は出ない。言うべき言葉がない。
自分が知っていること。ジーンのことで知っていること。
ナルの双子の兄。有能な霊媒。若くして交通事故で死に、ダム湖の底に遺体を沈められていた。
ナルの傍にいた自分の能力を引き出し、調査に協力し、いつも麻衣たちのために・・・・・・。
違うのだ。
麻衣は、全身の力が抜けていくのを感じた。もう、滝川を見ていられなかった。涙があふれてきて、
何も見ていられなかった。
彼の人となりを、どれだけ知っていたというのか。
そんなことするはずがない、と言えるほどに、彼のことを知っていたと言えるだろうか?
(ジーン・・・・・・)
彼を信じ抜くことができない。
(ジーンッッ・・・・・・!)
あれは、ナルじゃなかった。けど、普通の霊でもない。
洗面所に行ったナル。豹変した彼。割れた鏡。意識を失って倒れた体。
ジーンがナルを乗っ取った可能性は、高い。
否定して欲しい。ジーンは何もしていないと誰かに言ってもらいたい。
泣き出した麻衣の頭を、滝川がぽんぽんと叩いてくれた。けれど、否定はしてくれない。
いくら呼んでも、ジーンは現れない。夢を見なきゃと、麻衣は泣きながら思った。
夢を見なきゃ。眠らなくちゃ。彼に訊かなくちゃ。
(どうして?)
何故そんなことをしたのか。彼に、問いたださなくてはいけない。
暗闇の中、白い顔が浮かぶ。
そっくり同じ、2つの顔。
けれど、表情は違う。
そして、明らかに年齢が違った。
15、6の少年と、20歳前後の青年。
少年のまま時を止めた兄と、成長を続ける弟。
数年ぶりの、対面だった。