どこに、行くあてがあるのか・・・・・・。
(そんな場所はない)
彼は、知っていた。ちゃんとわかっていた。自分の居場所など、もはやないということを。
「好きで、死んだわけじゃない」
自殺じゃない。病気でもない。死への覚悟などなかった。
「僕は、死んでない」
死んだのは体だけ。彼自身は生きている。なのに人は死者と呼ぶのか。
「死んだのに・・・・・・」
みぞれ混じりの雨が痛い。震える体が音をたてる。雨に闇に、歪む視界は更に滲む。
「生きてるよ」
ただ、歩きながら、彼は一人呟く。
「僕は、生きてるよ・・・・・・」
車にはねられ、死んだ。
遺体は湖底に沈み、引き上げられ、荼毘にふされた。
この体は、弟の体。
自分は、他者の体を乗っ取れるほどの力を有する、死霊。
それらのことを、彼は知っていた。
ちゃんと知っていた。
知っていたけれど、どうにもならなかった。
「僕は、生きてる・・・・・・」
彼は肉体の生を得た。
「生きて、いいんだ・・・・・・」
『生きられる』ということは『生きていい』ということだと。
『誰か』が自分の生を許したのだと。
ナルよりも自分が選ばれたのだと。
自らが望んだのではなく、望まれたのだと。
そう、自身に対してとり繕う自分を、彼は知っていた。
ただ、ただ、歩いて、ジーンは橋の上で立ち止まった。
見下ろす水面は、暗く黒い。両岸には、薄暗い赤提灯の明かりや怪しげな飲み屋の看板が闇に浮いていた。背後を、濡れた路面を滑りながら駆け抜けていく車のライトが走っていく。
冷たい欄干に両手を添え、川面を見下ろすと、重い水の流れが見えた。深い。
この寒さで、この熱に犯された体で、この欄干を乗り越え川に飛び込んだなら。
ウールのコートが水を吸えば、まず、助からない。
ナルが死ぬ。
自分が死者であることを知っている。
この体で生きることができる。けれど、誰も受け入れてはくれない。ちゃんとわかっている。
体を奪うことができても、結局は生きられないと。
ならば、いっそ、生きられる可能性など、なくしてしまった方がいい。
ナルがいるからこそ、自分がこの世にとどまり続けるのであれば。ナルが生きているからこそ、自分に生の可能性を見出してしまうのであれば。
ならば、いっそ・・・・・・。
ジーンは、橋の欄干から川面をみつめたまま、動かなかった。
もう一度死ねば、楽になれる。
そう、確信していても。
ナルを殺してしまえば、楽になれる。
今、ここから飛び降りさえすれば。
わかっていても、彼は動けなかった。
安原は、ナルを捜しに出て行った。まもなく、連絡を受けたリンが、事務所を閉めてやって来る。
麻衣は、ナルの寝室のドアを開けた。
人が抜け出したまま直されていない掛け布団。闇の雨を透かし見せる窓。エアコンで部屋は暖かい。
開け放されたカーテンには、どんな意味があるのだろう。
麻衣は、窓に寄ってみた。部屋の明かりで、自分が映る。その影から、雨が見えた。真冬の、冷たく激しい雨が。
足元を見ると、ベランダ用のサンダルがある。ここにはじめ来て窓を開けた時と、サンダルの向きが変わっていた。自分はベランダに出ていないし、安原も出てはいないだろう。窓から見れば、ナルが潜んでいないことはわかるのだから。ならば、ベランダに出たのは、ナルだ。
麻衣が滝川と共に下に降りていた間に。病身にもかかわらず、マンションの出入口とは逆方向のベランダに、何を見る必要があって出たのだろうか。
麻衣は、窓を開けた。身を切るような冷たい空気が押し入ってくる。びちゃびちゃと雨がベランダを打ち、濡らしていた。撥ね返りで濡れたサンダルに足を入れ、麻衣は柵から下を見た。
狭い路地。少ない街灯に、黒いマンホールがにぶい光を放っている。
もし、ここから飛び降りたなら・・・・・・。
麻衣は、自分の考えに身を震わせた。何もないベランダ。他にどんな目的があって、二月の雨が吹き込むベランダに?
けれど、下には何もない。ナルは倒れていない。髪を肩を雨に濡らしながら、麻衣は狭い路地を見渡した。何も、ない。
投身自殺には、高さが足りないかも知れない。だから、とりやめて、外に出た・・・・・・?
(ナルが、自殺なんて考えるはずない)
そう、ナルならば。もしも、もしも、中身がジーンだったなら?
(ナルに、もしものことがあったら・・・・・・)
この世にとらわれたままのジーンにも、何か影響があるのだろうか?
激しい雨音に紛れて、チャイムの音が聞こえた。
麻衣は、弾かれたように部屋に駆け込み、濡れた体のまま、リンを迎えに出た。
リンと麻衣とは、ナルの部屋で安原からの連絡を待っていた。リンは、コートを脱ぎもしない。
「『ナル』をみつけることは簡単です。なのに、まだその報告がない。今、ナルがジーンである可能性が高いということです」
式神たちは、もはやジーンの気配を覚えていない。そして、ナルという人間の殻の内側にある霊体を異なるものとして捕らえることができるかというと、それがジーンであるが故に無理だろうと、リンは言う。
「彼らは時々、入れ替わって人を騙すことがありました。私も騙されたことがあります。一度も騙されなかったのは、ルエラくらいでしょう」
彼らはとてもよく似ていた。外見はもちろんのこと、その中身さえも。とても、純粋な部分で。
彼らを分ったのは、それぞれが持つ特異な能力。その性質の違いが、別々の存在を作り上げたとも言える。もっとも、互いの能力が逆であればまったく同じ逆の存在になったとは、誰も考えはしない。ただ、大きな影響を与えたものであることは確かだ。
「このまま、ナルの体をジーンが使い続けることは可能かも知れません。ただし、周囲の人間がそれを許せばの話です」
そう言って、リンは麻衣を見る。
「あなたなら、どうしますか?」
麻衣は、そう問うたリンを見返す。
ジーンが、麻衣に語ったこと。麻衣にナルの体にいることを認めさせようとしたこと。
(そういうこと? ・・・・・・なんだね、ジーン)
麻衣は、首を横に振った。
「渋谷さん!」
捜しはじめて一時間。ようやく、安原はナルをみつけた。マンションを中心に方々捜していて時間がかかったが、そこは、マンションから十分もかからない橋の上だった。
薄闇の中に佇む、濡れそぼった黒い影。白い顔が、わずかな明かりに照らされていた。
「所長?」
傘をさしかけ呼びかける安原に、彼は何の反応も示さなかった。ただ、ぼんやりと暗い水面をみつめていた。
「風邪ひいてる時にこんなところでひたってないで下さいよ、もう。とにかく部屋に帰りましょう」
抱きかかえるように肩をつかみ促しても、彼は動かない。それどころか、橋の欄干をつかむ腕に抵抗があった。
「渋谷さん?」
安原にも、今、彼が普段の彼ではないとわかっていた。
しかし、安原はジーンが出ている可能性を告げられてはいなかった。
病中に部屋を抜け出し傘もささずにこんな場所に立ち尽くしている。彼が何かを抱え、心をさまよわせているのだとしか考えていなかった。
ゆっくりと、彼が安原を見た。何の色もない目。安原は抱きかかえたまま、その目を見返した。
「カチカチですよ。ここで氷像になる気ですか?」
彼が、かすかに笑んだ。刺すようなみぞれに打たれ、凍りついた顔をこわばらせて。
「それもいいかも」
言って、彼は安原の手をそっと払った。
「こんな川に落ちたら、ヘドロまみれの水死体になってしまうからね」
彼は、欄干に肘をついた。そうして、安原を下から見上げ、言った。
「凍死の方が、綺麗だよね。ナルご推奨の能力者の解剖にも条件がいいし。どっかの公園の物陰で寝てれば良かったな。そうすれば、明日の朝には凍死してる」
「所長に自殺趣味があるとは知りませんでした」
「ナルにそんな趣味ないもの、知ってるわけないよ。もちろん、僕にもないけどね」
彼が、口元に笑みを見せる。口元だけの笑い。そうして、言った。
「・・・・・・はじめまして? 安原さん」
これがジーンだと、安原は気持ちを改める。ただし、ジーンが生きていたのではなく、ナルの体にジーンがいるのだと。それが本物のジーンなのか、ナルの中の誰か、なのかは不明だが。
「・・・・・・ご挨拶くらいはしておくべきでしょうか?」
「うん。多分ね」
安原は姿勢を正し、頭を下げた。
「はじめまして、弟さんにはお世話になっています、安原です」
「世話になってるのはどっちかって言うとナルの方だよね」
クスクスと楽しげに彼は言う。
「弟がお世話になってます。ユージーン・デイヴィスです。ジーンて呼んでね」
明るい調子だが、声はひどく震えていた。
「・・・・・・お兄さん、弟さんはどうしています?」
「寝てるよ。勝手に起き出してくることは期待しないで。無理」
軽く手を振り、あっさりと言う。欄干に寄りかかり、いよいよ楽しげにジーンは語る。
「ああ、久しぶりだなあ、ナルや麻衣以外と話をするなんて。ナルがおとなしくしてる間だけでも楽しませてもらうよ。いいでしょ?」
「それは僕が決めることではありません。今は、部屋に帰って着替えて暖かい部屋で布団にもぐっていただきたいと僕は思います」
「やだよ。リンが来るでしょ? 引っ張り出されちゃうかも知れないもの。あのね、僕はナルに憑依してるのとは違うんだよ。僕がここから引き出されたら、ナルも危ないと思うよ。だから、ダメ。空っぽにするより、二人入ってる方がまだマシだよ」
「元々お二人だったと、いうことですか?」
「そうだよ。僕はいつもナルの中にいたんだ。霊としてではなくね」
「お二人だけ通じるテレパシーのようなものがあったと聞いていますが」
「そう。誰もが意識のずっと奥底はつながっていると言う。僕とナルとは、他の人たちよりもずっと上層でつながっていた、ということだろうね。つまり僕は、ジーンであると同時に、ナルの一部でもあったわけ。だから、ここにいられるんだよ」
彼が霊ではなく、ナルの一部分として繋がって存在するのであれば。
結界を行き来できたり、霊が導かれる先へ行けなかったりすることは理解できる。
以前、麻衣が会っていた『彼』がそういう場所にいたのであれば、理解できる。
けれど、今ここにある『彼』が同じ存在であると判断するのは早計だ。
(今は、それを判じる必要はない)
今は、彼を暖かい室内へ連れ帰ることができれば良いのだ。
彼がナルと共有する部分に残された存在であろうが、ナルが失った兄を求めて作り出した人格であろうが、どちらでも構いはしない。
「積もる話は、どこか暖かいところでしましょう。僕も風邪をひいてしまいます」
「話さなくてもいいんだよ、僕は。風邪ひく前に帰ったら?」
「僕も聞かなくてもいいですよ。言ったでしょう? 僕はあなたにさっさと暖かい部屋に帰っておとなしく布団にもぐって欲しいんだって。そうすれば、僕も風邪をひく前に暖かいところに行けます。一石二鳥です」
「ヤダって言ったよね? 僕」
「この場合、健康優先です」
にっこりと、安原は笑んで見せた。
「ねえ、リンさん」
長い沈黙の後、麻衣が口を開いた。
「ジーンって、あたしに似てるって、言ってたよね」
「はい」
「あたし、自分が死んで、誰かの体で生きたいって、思ってない、と思う、んだけど。ジーンは、違うのかな? リンさんが
知ってるジーンだったら、どう?」
「人の体を乗っ取ろうとは考えないと思います。以前のジーンであればですが」
「以前の・・・・・・?」
「誰だって、変わります。生きている人間だっていつまでも同じではありません。死者は特に、変質の度合いが強い。生きていれば様々な経験をし、変わっていくものですが、死者は違います。霊は、幾つかのこだわりの中だけで存在し続け、関わる人々に無視され続けます。とても、視野が狭い状況下で変質していくのです。以前のジーンは谷山さんに似たところがありました。けれど、今もそうだとは、私には断言できません」
霊を浄霊することは難しい。それは、会話が成り立たないほどに彼らが追いつめられていたり、自分の状況を自分の納得のいくように定めてしまっていて、もはや他人の言葉を受け付けなくなっていたりするから。
温かい気持ちを吹き込んであげる。
そんな余地もないほどに視野が狭まってしまっている時には、麻衣にはどうしてやることもできない。
「でも、ジーンは、いろいろ考えてたよ。いいこと、じゃないかも知れないけど」
ナルの体を乗っ取るため、だったかも知れないけれど、語り合う余地がないほどに追いつめられてはいない。
(まだ、大丈夫だ)
麻衣は顔を上げた。あれはジーンだった。ひどく哀しい時を過ごしてしまった、長く孤独を強いられた、ジーン。
「ねえ、リンさん。どうしてジーンと会えなくなったのか、あたし、わかったよ」
立ったまま、リンが麻衣を見下ろしていた。その目を見つめ返して、麻衣はきっぱりと言い放つ。
「あたしはきっと、ジーンに憎まれてる。あたしが、ジーンからナルを奪ったから」
それは、彼が求めたものでもあったけれど。
「ジーンは、あたしのせいで一人になっちゃったんだ。だって、昔、夢でジーンを見る時って、いっつも調査中だったもの」
以前、ジーンはナルと一緒に調査に従事していた。ナルは、何度も思っただろう。見えないことがある真砂子や寝ていないと役に立たない麻衣、見えない霊能者たちに歯噛みしては。
『ジーンがいれば』と。
「ナルが、今、ジーンがいればいいのに、って思った時、ナルが欲しい情報をあたしに見せていたんだよ、ジーンは。ナルのために。ナルが求めたから。でも、ジーンがあたしを鍛えてくれたおかげで、ジーンがいなくてもあたし、前よりはマシになっちゃったから」
だから。
「ナルがジーンがいれば、って思わなくなったから、ジーンは眠りっぱなしになっちゃったんだよ。だから、ナルとも、あたしとも会わなくなっちゃったの。だから、一人ぼっちになっちゃったんだよ」
だから。
「だから、あたし、ジーンに憎まれてる。きっとね」
麻衣が語ること。それは、可能性として十分あり得ることだった。
麻衣が思いついたこと。
おそらく、ナルも可能性として考えていただろう。そのまま眠り続けて消えていくこと、覚醒しないまま光の中へと引き込まれていくことも含めて。そう、ジーンが消えることを良しとしない可能性さえもを。
「谷山さんのおかげでジーンの出番がなくなったということはあり得ると思います。けれど、それは正しい形です。死者の霊に何らかの役目を求めるべきではありません。ナルだって、ジーンに浄化せずに残って働いて欲しいなどとは思っていないでしょう。いくら役に立つといってもね」
ナルならやりかねない、という思いが首をもたげるが、調査中も、ナルにジーンがそろそろ出てこないだろうかと求めるような様子はなかった。無意識に、は別として。
「ジーンは、霊としては異質でした。もしかしたら、ジーンが浄化するためには、良いのかも知れませんよ、今回のことは」
彼ら双子には、不可思議な関係があった。意識を共有する部分、ナルの力をトスしあううちに肥大化するパワー。共有する部分が綻びれば、いくら強い精神力を持つナルでも不安定な状態に陥ってしかるべきだ。けれど、それはほとんどなかった。
ジーンは、死しても共有する部分にはそのままあり続けたのだ。固有の部分だけが、霊としてあったのだろう。だから、霊としては異質だった。それは、生霊にとても近い形、幽体離脱する麻衣に似た形。楔としての体が、自分のものではなく双子の弟の体だっただけのこと。
それが、だんだんと、共有する部分からはじき出されていったのだ。彼の不在を、ナルが受け入れていくことで。彼の不在の不便さを失っていくことで。
そうして、いよいよただの霊体となりかけて。ナルの想いによらずとも、意識を保つことができるようになったのだろう。
「そうですね、ナルのことは、恨んでいるかも知れません。ジーンは」
式神の気配に、リンは言葉を切る。みつけた。
ナルにはこのままジーンを留め置くことができたのだから。ナルとジーンの能力が違うように、ジーンと麻衣の能力は一致しない。ナルは、麻衣とは別に、ジーンを求めることができたのだから。
リンは、テーブルに置いていた車の鍵を拾う。
「安原さんをみつけました。ナルが一緒です。迎えに行ってきます」
扉のところまで行って、リンが振り返る。
「多分・・・・・・ジーンは、寂しかったのでしょう」
忘れられていく哀しみが。一人きりの寂しさが。必要とされなくなっていく自分が。
様々な想いが複雑に絡み合って、自分だけではどうしようもなくなって。
求められたくて、一人が嫌で、必要とされる自分でありたくて。けど、そうであれないことも知っていて。生きている弟がいて。その体を使える自分があって。選択してはいけないとわかっていても、とても哀しくて。
「あたし・・・・・・ジーンに、会いたい」
うなづき、扉を抜けるリンの後について、麻衣は部屋を出た。
ジーンに、会うために。
「ヤダな。もうすぐ、リンが来ちゃうよ」
その視線を追ったせいで、安原はジーンを捕まえ損ねた。
病中で怪我人でもあるはずの人物は軽く身をかわし、安原の後ろを指差す。
「ほら、リンの式がいる」
示す先には、ただ闇があるばかり。たばかられたのか、それとも、彼には見えるのか。ジーンは低い柵を乗り越え、公園の中へと飛び込んで行く。安原も、その後を追った。
傘は途中で捨ててしまった。
それでも、この身軽な子鬼を捕まえることができずにいる。もう、十分以上鬼ごっこを続けているのだ。マンションからはどんどん離れていく。どうやら、彼は安原が口達者なのを熟知していて、会話を成り立たせずに逃亡することにしたらしい。
駆けていく黒い影。凍てついた土の上にたまった雨水が滑る。打ち付ける霰が痛い。
それでも、今、自分が追わなければいけないと、安原は足場の悪い公園内の道を駆けた。
リンの式神が来ている、とジーンが言っていた。それが本当なら、見失っても大丈夫だろう。けれど・・・・・・。
彼は今、追われたいのだ。追いかけられたいのだ。
だから、追ってやらなくてはいけない。捕まえてやらなければならない。
義務であるのか、義理であるのか。
(違う)
余計なことは考えていない。今は、ただ、捕まえたい。
ただ、そう思う。
道を外れて植え込みの間を抜ける。
子供だましな遊具の間を駆ける。
噴水を避け、ベンチを避け、遊歩道へ抜ける林を突っ切る。
(追ってやる)
追われたいなら追ってやる。その役が自分に回ってきたことを、感謝してもいい。いくらでも口説きようがあるのに、足でもって追わねばならない、こんな状況を。
楽しんでいる自分を、自覚している。
口説く時には、先を予見できる。けれど、体力勝負は、場所も煩雑に移り行き、予測しにくい。
それが、楽しい。
『所長』渋谷一也ではなく、その兄である男。ひき逃げに遭い、ダム湖に沈められ、この世を今も彷徨う男。
安原にとっては、予測外な存在の方が、楽しい。
予測可能な範囲では、つまらない。
プライドが高いわけではない。ただ、若いだけだ。その若さで知りうる範囲、予測できる範囲が、少しばかり広いだけだ。
若さ故に事象を楽しむ余地がある。なのに、それを越える事象は滅多にない。ならば、彼自身が意図して楽しもうと思い軽い言葉尻の駆け引きを持ち掛けねばならない。けれど、今は違う。
他人の『想い』に応える役。
予測は成り立たない。追わねばならないという自身の想いを第一の指針に、それを叶えるために一秒でも早く駆け、影ばかりの存在を捕らえねばならない。自身の駆ける能力さえも、不明。
わからないことが、楽しい。
高い柵に阻まれ、出口を求める相手を追う。
足元が滑る。泥が跳ねる。霰が打つ。胸が熱く苦しい。
影が、一人の若い男の姿になる。跳ねる泥が見える。重い膝の動きがわかる。
(追いつける)
近未来の予測。追いつけたからといって、捕らえられたからといって、その先はわからない。
その未知こそを捕らえたい。
安原自身、それをわかってはいなかった。
「!」
出口へと道から外れようとしたジーンに飛びついた。
飛び掛った安原を支えきれず、ジーンが転倒する。
やわな植え込みが折れ、打ち据えられた地面が派手な音を立てて弾く。
ジーンの熱く白い息が間近に見え、自分の息も見えた。
安原は、ジーンの上にのしかかっていた。
霰が打ち、地面を弾き、疲れ果て抵抗できず荒い息を吐く男がいる。
安原は、取り押さえ、その上で息を整え、待つ。
式に導かれ、新たな自身の役目を果たしに来る、リンを。
「いやだって、言ったでしょう、僕は」
苦しい息の間に、ジーンが言う。
「僕が、リンにはじき出されたら、ナルだって大変だ。何もいいことはないんだよ」
「いいことは、あるでしょう」
荒い息を吐きながら、安原が返した。
「所長は所長で、あなたはあなたであれるんですから。一人であることも、いいものでしょう?」
怪訝そうに、それから何を悟ったか、目を丸くするジーンに、安原は更に言う。
「あなたはあなたです。所長の一部ではない。まったくの一個人です。共有部分があろうとも、それぞれが一人の人間です。所長は所長、あなたはあなた。僕達は、区別しています」
遠くで車の行き交う音がする。酔漢の声も聞こえる。けれど、今は、二人きりの場所。
「ジーン。僕はあなたを知っています。会うのは初めてでも、姿形は所長と同じでも、まったく別の存在として、あなたを知っています。直接言葉を交わすのが初めてでも、別人だとわかります」
本物のジーンか、欠けたものを補うためにナルが作り出した人格であるのかは、わからない。関係ない。ナルと別人であることは明らかだ。
二人が能力さえもわけあっていたのであれば、ジーンが消えてナルにその能力が残された可能性もある。リンの式を見られたことは、ジーンである証拠にはならない。
ジーンであるのか、ジーンとして作られたものであるのか。どちらにしろ、今は・・・・・・。
「ジーン。あなたはあなたであるべきです。そして、所長も所長であるべきです。・・・・・・わかってますよね? あなたは」
今は、自由に使える肉体を得て、それでも寂しくているこの人物を・・・・・・。
「皆、話だけに聞くあなたを、憎からず思っています。僕だってそうです。あなたは、弟の体を奪って生きていこうなんて考える人じゃない。弟を殺してしまおうなんて考える人じゃない。なのに、あなたは今、こうしている」
安原は、押さえつけていた手を離した。馬乗りになったまま、植え込みの影になり、表情の見えない男に、言う。
「何故、あなたがここにこうしているのか。するはずのないことをしてここにいるのか。・・・・・・僕は、あなたにはあなたであって欲しいと、そう思います」
安原に引き起こされて、ジーンは体を起こした。とてもだるい。起こしてくれた手をつかんだまま、安原の言葉を反芻する。
彼を認め、彼らしくあって欲しいと願っているという言葉を。
「・・・・・・買いかぶってるよ。僕は、こんなんだよ」
うつむいたまま、ジーンは言う。彼ならこんなことはしないと、言ってくれた言葉に。
「ナルがいるから、僕は向こう側へ渡ることもできずにいるのに。なのに、ナルは僕を忘れていく。仲間に恵まれて、僕の役目をどう補うかも決まってしまって。僕を必要としなくなって・・・・・・。けど、僕は、それでも、向こう側に行けずに、ずっと、ここにいたんだ」
空いた手で、自分の胸に触れる。この体の中に。
「ずっと眠ってた。おぼろげにナルの動きを追ってはいたけど、ちゃんと起きることはほとんどなかった。なのに、だんだん、違ってきた。忘れられていくほどに、眠ったり起きたり、それがナルとは関係なくなっていった。そして、どんどん、ナルがわからなくなっていった」
ナルが何を考え行動しているのか。何を思い動いているのか。ナルが成長し変わっていくのに、ついていけなくなっていった。
「僕は、僕だ。わかってる。けど、ナルがいるから離れられない。なのに、ナルは僕を忘れていくんだ。僕なんかいなくてもいいんだ。なら、何故僕はナルから離れられないんだ? 死んだことはわかっている。なのに、何故向こうへ行けないんだ? ナルに繋がれて、なのに、必要ともされず、何故ただ囚われているだけなんだ? 何年も何年も、なんで僕はここに居続けなきゃいけないんだ? これから先も、ずっといなくちゃいけないのか? ただ、いるだけで。何も求められずに囚われていなくちゃいけないのか? そんなの嫌だ!」
吐く息が白い。体が熱くて、寒い。顔が、目元が火照ってきた。熱い涙が凍りついた頬を伝った。
「もう嫌なんだっ。僕は僕だ。僕は死者だ。こんなところにいつまでもいたくないんだ。僕はもう、本当に・・・・・・本当に死にたいんだよっ」
あとはもう、言葉にならなかった。
安原が肩や背を叩いてくれたので、つかんだままの手を引き、すがりついた。
誰とも話すことができず。人の温かさに触れることもなく。何を訴えることもできず。必要ともされなくて。そうして、逃げる術さえもなく。
一人、囚われ続けた末の、反乱。
解放されるために。自分を取り戻すために。
誰もみつけてくれない場所から飛び出した。
誰か、自分をみつけて。
そうでなければ、いつまでも終わらない。
忘れないで。思い出して。自分はここにいる。
ナルの体を奪って、生きようとした。自分を忘れていく弟を恨めしく思った。ナルを悪いヤツにしてやりたくて、麻衣を押し倒した。
適合具合の良さに、本当に、このまま生きられたらと思った。
麻衣は正しい。安原も正しい。ジーンが勝手にこの体を使う権利を、誰も認めない。ナルの体はナルのもの。ナルも当然、認めなかった。
ナルを、出口がないと認識させて閉じ込めて。
自由になった体を、それでも使い続けることのできないこの体を、自分が解放されるために殺してしまおうとして。
それでも、解放されない可能性を思い、再び死の苦しみを味わうことを、弟を自分と同じ死に追いやることを思い、残される両親や仲間たちのことを思った。自分が憎まれることを思った。
何も変わらない。ナルを閉じ込め体を奪っても、何も変わらなかった。ただ、夢見た解放を、実行に移した結果、自分にはできないことだと思い知っただけだった。
橋の上から暗い川を見下ろして。それを、思い知っただけだった。
安原に言われて、思いつめた自分を自覚して。本当の自分の願いを知った。
生きたい。生きていたい。自分でありたい。認めて欲しい。けれど、自分はもう死んでいる。
嫌になるほど、自分はちゃんとわかっていたのだ。
本当の死こそが、自分にとっての解放だと。
この苦しみから解放されるための、唯一の方法だと。
それでも、生きたくもあった。
二つの相反する願いを抱えての、反乱。
「ジーン」
麻衣の声に、ジーンは安原の胸に顔を埋めたまま思いを途切らせた。
彼らがついたことに、全く気づいていなかった。
「ジーン」
すぐ耳元で。すがる力を緩めたジーンから、安原が離れる。代わりに、麻衣が彼の前にひざまずいた。泥に構わず、霰に打たれながら、彼の顔を下からのぞきこむようにして。
「ジーンだ」
ふわりと、麻衣がジーンの首に腕を絡めた。しっかりと、抱きついて。
「ジーン。・・・・・・つらかったね。ごめんね」
麻衣が言う。泥に濡れ冷えた髪をなでながら。
「寂しかったね。ずっと放っておいてごめんね。苦しめてごめんね。つらい思いをさせてごめん、ごめんなさい」
震える声で。
「ジーン。大好きだよ、ずっと。ごめんね、寂しかったね」
涙声で、途切れ途切れに。
「大好きだよ。ごめんね」
麻衣の背中に手をまわして、軽く抱き寄せて。首にすがりつく力に応えて、温かい、柔らかい体を強く抱き寄せて。
ただ、そう言って欲しかっただけなのかも知れない。
「・・・・・・ありがとう、麻衣」