さて。
麻衣は、二つの写真立てを見る。
両親と幼い麻衣の写真と、ジーンとナルの写真。
二つの写真の間に、ナルに貰った鍵がある。
男一人の家に早々行くことはないだろうけれど、まあ、保険だ。
合鍵のサービスなのか、それともナルが選んでくれたのか、鍵にはキーホルダーがついていた。できるだけ身近なところに持っておこう、とは思う。
なので、携帯電話をそばに置き、麻衣は部屋の明かりを消した。
そうして、布団へもぐる。
足先は台所との仕切りの襖。頭の先は、掃出し窓。
昨日、あの男が入って来た。
部屋は暗い。窓は掃出し窓だけ。カーテンの隙間から薄明りが漏れてくる。
窓はもちろん閉まっている。鍵もしまっているし、鍵についているロックもかけた。カーテンもできるだけ隙間なく閉めた。玄関の鍵もかけたしチェーンも掛けた。玄関脇の台所の窓も反対側のお風呂の窓も閉まっているし、格子がついている。
掃出し窓の外の狭い通路のような庭は、大家が封鎖したので外から入ることはできない。向かいの家との間の塀は高く、足がかりもない。
誰も、侵入することなどできない。
けれど、目をつぶっても、それらのことが頭の中を駆け巡る。
大丈夫、大丈夫。
進入路はない。
ドキドキと心臓が打つ。無理に目を閉じていても、とても眠れる気がしない。けれど、大学のレポートも復習もやったし、すでに一時を過ぎている。もう、眠らないと。
炊飯器もセットした。明日のお弁当のメニューも決まっている。明日は一限から授業がある。午後は事務所へ行ってバイト。紅茶を途中で買ってから出勤だ。今日は二日酔いで仕事にならず明るいうちに追い返されたので、明日は届いていた本やレポートの分類整理や目録作りをしなくては。
仕事の手順は考えるまでもない。けれどあえて考えてみたりする。けれど、固く閉じる目と、心臓の音がうるさくて、苦しくなってくる。
麻衣は、諦めて目を開けた。
そうして、掃出し窓を見る。
何も、変わりはない。けれど、また横になろうという気になれない。あの窓のそばでは。
麻衣は、掛け布団と枕と携帯とナルの部屋の鍵を持つと、台所との仕切りの襖を開ける。
狭い台所だ。シンクと風呂トイレの間はほぼ通路分しかない。携帯とナルの部屋の鍵を玄関に置きっぱなしのバックに放り込み、その近くに枕を据え、掛布団を寝袋のようにして横になる。
玄関に頭。仕切りの襖へ足先。
少し寒い。
襖と、玄関の間。
ここを、あの男は通ったのだ。
今度は、見切りをつけるのは早かった。
ここもダメだ。
けれど、他に場所はない。
麻衣は、無駄と知りつつも首を巡らす。
玄関、襖、トイレの引き戸と、お風呂の折り戸。
麻衣は、洗濯機からタオルを出す。
湿ったタオルで風呂場の床を拭きあげる。湯をためずに湯船でシャワーを使うので、さほど濡れてはいない。洗面台もついている狭い風呂だが、丸まって寝るくらいの洗い場スペースはあった。
枕を洗面台の下辺りへ、バッグを折り戸のそばに。携帯電話のストラップにナルの部屋の鍵をキーホルダーを絡めてつけ、その携帯を手に握り、そうして、布団を巻きつけて洗い場に丸まる。
悪くない狭さだった。
ここには、あの男は入っていない。すぐに追いかけてきたのだから。
この折り戸のすぐ外を通って。
もしも外に逃げずにここに立てこもっていたなら、こんな折り戸など簡単に壊して、麻衣にあの包丁を振るったのだろうか。
ぎゅっと、麻衣は布団を握る。
大丈夫、大丈夫。
あの男は警察だ。自分は大丈夫だ。誰も自分を害したりはしない。
携帯電話と布団の端を握って、一生懸命唱える。
自分は大丈夫。何も起きない。眠っても大丈夫。怖いことはない、と。
結局、麻衣は眠ることができなかった。
少しばかりうとうとしただけで、夜が明けてくる社会の気配を、風呂場の床で感じていた。
新聞や牛乳配達の音、早朝出勤する人々の足音や自転車の音、犬の散歩など。
明け方には諦めて、体だけでも休めようと体の力を抜いて、様々な音を聞いていた。
平穏な社会の音を。
早朝に動く人々の気配が一段落して、小中学生などの通学の声がし始める頃、麻衣は起き出した。タイマーをかけた炊飯器は予約を切り、炊飯スイッチを押す。ヤカンを火にかけ、洗濯機のスイッチも入れる。恐る恐る襖を開けるも、カーテンからの明かりが早朝のものになっているだけで何も変わりはない。敷布団をたたみ、風呂場から掛布団と枕を持ってきてその上に積み、折りたたみテーブルの足を伸ばして設置する。
大きなマグカップに、ちょっといいティーバッグ。少量で沸かしたお湯が沸騰する前にスイッチを切り、カップに注ぐ。それからお湯の量を増やして、再び火にかける。
そうしておいて、マグカップを持って部屋に戻る。カップを持って、クッションにお尻を据えて、テレビをつけて。
ぼんやりと、占いやらニュースやら天気やらを観ながら、紅茶を飲む。
眠れなかったなあ。
誰かに、つきあってもらえば良かった。
前の晩は、真砂子とナルの部屋に泊まりに行って、酔っぱらって朝眠って、昼過ぎまで爆睡した。
その勢いで、普通に眠れると思ったのに。
真砂子は仕事の都合もあり、心配はしてくれたが連泊はできなかった。SPR絡み以外の友人には、ストーカーの話はしていない。それに、皆、就職活動などで忙しくて最近はあまり大学以外では顔を合わせていない。
さすがに、いくら鍵を貰ったからと行って、ナルの部屋に押し掛けるのも。
もし、隣りの部屋とかなら行ったかも知れないが、ナルの部屋までの道のりは、あの男に追われた道のりだ。とても、夜中に移動する気にはなれなかった。そういえば、昨日は二日酔いで仕事にならなかったので、明るい内に自室へ戻ったのだ。夜の移動など、とてもできなかっただろう。
それに、昨日から生理が始まっている。幸い、これは来るな、と、起きてから慌てて帰宅したのでナルのところで粗相することはなかったが、今日は二日目だし、しばらくはよそに泊まりに行く気にはなれない。
まあ、お昼にでもちょっと寝るかな。それとも、できるだけ我慢してれば、今夜こそはすとんと眠れるかな。
ヤカンが鳴いている。
麻衣は、どっこらせ、と、立ち上がった。
昨夜は、二時間と寝ていない。
色々あったし寝不足だしで、ナルも今夜は早めに寝ようと考えていた。
ジーンが表に出たら、やはり一種の憑依であったらしく、体がやけに冷えてしまった。安原に、お風呂に入ってよくあったまってくださいね、と言われたものの、基本はシャワー派だ。自室に風呂が付いていないような宿に泊まった時にはやむなく大風呂へ行くこともあるが、人の少ない時間を狙ってすばやく済ませてくる。冬場は、部屋に風呂がないような宿は暖房も甘いので、あまりの寒さに稀に湯船につかることもあった。
しかし、マンションの湯船に湯を張ったことはまだない。
面倒なので、今夜もシャワーで済ませる。体を拭きながら、ふと思い出して洗面台の扉になっている鏡を開いた。小物が置けるようになっているのだが、そこに、ルエラが送ってきたアロマオイル数種類が置いてあった。安原が、もしあればお湯に二〜三滴垂らすといいですよ、と言っていた。ティッシュに落として寝室で振るとわかるかわからないかくらいでちょうどいい、とも。
やるつもりはなかったので、確認しただけだ。ルエラも、使うとは思っていないだろう。庭に花が咲いた、こんな果実を貰ったがおいしかった、などと手紙に書いては、おすそわけだと言って荷物の中にオイルが入っていることがあるだけ。
ナルも、届いた時に蓋を開けて少し嗅いでみるだけで、あとは仕舞っていた。誰かにあげてしまっても良かったのだが、渡して何故持っているのか突っ込まれて答えるのも面倒だったので、放置してある。
洗面台の扉を閉める。鏡は、一度割れたので新しいものがはまっている。
(ちょっと見せてよ、今の顔)
ジーンの希望で、濡れた頭を拭いて着替える間、できるだけ鏡を見た。
(うーん、いい男に育ったねえ、ナル)
(おまえだって同じだったろうに)
(生きてればね)
(これを共有することになる)
(そうだねえ。まだ寒いみたいだね)
(ああ。二重人格とは違うようだな)
(人格の入れ替えで体が冷えるとは聞かないよね。まだ僕は霊なのかなあ)
(まだ別物、ではあるんだろう)
心理学の知識から言えば、深層はすべてつながっている。表層にいくほどグループ分けされていって、一番表は各個人。ナルとジーンは元々、ぎりぎり近くまで一緒だった。それでも、個人だったので、その個人だったジーンの部分が完全にナル側に来るということなのだろう。そうして、ジーンに見えていた出口や、時に溶け込みかけていた場所は、より深層の方ということだ。
ジーンは、表層に出ているナルとのつながりから深層に溶け込みきることができず、とうとう、表層側に溶け込むことになったということだろう。
(滝川さんは、やっぱり先が読める人なんだねえ)
(そうだな)
記憶が混じる。一人になるのだから、二人分の記憶を持つ一人になる。
(なんかさあ、いっそ一瞬で混じっちゃった方が楽な気がするね)
(そうかもな)
互いの互いが知らない過去をじわじわと知っていくよりも、一人の個人として過去を振り返るほうが。
(ねえ、いっそさあ、一番相手に知られたくない過去を先にぶっちゃけとくとかどう?)
(別にかまわないが、そっちが先に言え)
会話をしながら洗面所を出る。会話といっても、実際のところはかなり瞬間的だ。伝えたいイメージを頭に浮かべるだけで会話は成り立つ。普通の五分の会話が十秒くらいで片付くスピードだ。
ナルが寝室へ行って女の子たちが眠ったシーツをひっぺがし、洗面所へ戻る間に、ジーンの告白は完了した。
断片的映像で概ね理解した。日本に来てからの『冒険』だ。
(ほら、イギリスだとそもそも規格が違うじゃない。だから、女の子といい雰囲気になってもせいぜいB止まりだったんだけど。あ、ゴムのサイズも大丈夫だったよ、きつい感じはしたけど。でもナルはその頃の僕より背も伸びてるわけだし、そっちもサイズ変わったかなあ)
(一度、SPRに電話があった。たまたま僕がいたので日本からだというので変わったんだ。ユージンはいるか、と、日本人の女性から。日本で行方不明になって捜索願を出したと言っておいた。おまえを日本に招待した団体の女だろう? 遺体がみつかってから、SPRの方から連絡をしたと聞いている。葬式には誰も来なかったが、弔電は届いていたな)
(うわー、危なかった)
死んだおかげで危険回避できたわけだ。
洗濯乾燥機を朝動くようにタイマーをセットして、ナルはキッチンへ行き水を飲むと、寝室へ戻りシーツを敷き直す。今夜は後は寝るだけだ。
(ナルの一番知られたくないことは?)
(時間切れだ)
(え!? 詐欺!?)
(どうせわかるんだろう)
(でも、相手が一番ショックを受けるかもしれないことを事前に教えておくんだから、僕のためだよ? 嫌でも教えておいてよ)
ナルは部屋の明かりを消し、さっさと布団にもぐる。
(おまえがおまえじゃなくなるかもな)
(どうせ二人とも違う一人になるわけじゃない。ナルだって変わる)
(・・・・・・そうだな)
ナルは、イメージだけを伝えた。ジーンの驚愕が伝わってくる。それでも、眠りへと入ろうとする。夢へ追ってくるかもしれない。自分も振り返ることになるだろう。
ジーンには、一生伝えるつもりはなかった。ジーンには、ひどく酷であろう。
新たな自分の過去として、知らねばならないとは。
気の毒に。
自分の過去のことであるのだけれど。
ナルは、そう思った。
結局、眠ることはできなかった。