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ひとり 2

「大丈夫でっか? 顔色悪いですよ?」
 渋谷のオフィスにやって来たジョンにいきなり言われて、ナルは小首をかしげてみせる。
 ナルは、寝不足のせいかジーンのせいか体が冷えるので、自分で紅茶を入れて事務室のソファに落ち着いたところだった。リンも今日は出かけているので、事務室で留守番をしていたのだ。
「単なる寝不足」
「調査入ってはったんですか?」
 ジョンは昨日まで出張でドイツへ行っていた。ナルが教会で世話になった後呼び出しがあり、本部と現地で併せてひと月近く不在だったのだ。なので、病院の調査以降のこちらでの事件はほぼ知らない。
 ナルはその間の説明を一分ほどに凝縮して説明した。後で安原が来るので、詳しくはそちらに訊いてもらえばいい。
「それは大変でしたね。まだ痛みますですか?」
「痛み止めもあるので。手は不自由なだけ。ただ、ジーンが寝させてくれないので」
「お兄さんですか。統合が進んではるんですか?」
「今、勝手に僕の記憶を追っかけている。平行して、その頃のジーンの記憶が呼び出されてきて。寝る暇がない」
「・・・・・・僕もお茶入れて来ますです」
 対応が長くなると悟ったのか、ジョンは給湯室へ行ってしまった。ジョンは既にここの職員でもあるので、お客様待遇はない。ついでがあれば一緒に入れることもあるが、今日はナルの方は入れたばかりなのでセルフだ。ナルは自分の紅茶のカップを傾ける。
 脳内では、二つの記憶が並行して進んでいる。すべてではない。ハイライト的に、お互いのそれなりの出来事が、概ね同じ頃のことが流れている。
 ナルが体験したショッキングなサイコメトリと、その打撃でダウンしているナルを心配しつつ自分の生活もこなすジーン。女の子に手ひどく振られてめげるジーンと、それをちらりと見ただけで研究に没頭するナル。といった調子だ。
 十四は過ぎた。十五の誕生日を家で祝われるところは、同時進行だ。
 そこまでの六年近い歳月を思い、マーティンとルエラのことを全面的に信用している自分たちを自覚し、未来をも信じられると二人ともが思った。
 両親を信じることができて、それでも、自分たちのうち片方の未来が失われるとは。
 ゼロではない可能性だったが、高い可能性とも思っていなかった。
 今、そんな二人が一人になろうとしているけれど。
 無論、そんな想定もまるでなかった。
 ジョンがコーヒーを入れて戻ってくる。ナルの向かいに座った。
「あちらは、どうだった?」
 ジョンの仕事のことを尋ねる。
「はい。ビルのボイラー室に出る霊が、記録に撮れましたです。管理人さんが憑かれてはったんですが、落としたらボイラー室に立てこもりましてん。先にボイラー室にカメラを仕掛けてあったので、怒っている霊が出現からよう映ってはりますよ。僕は管理人さんから落とした以外は諸々のお手伝いでしたです。かろうじてお話の通じる霊でしたんで、最後はエマさんがよーくお話ししはって。浄霊できましたです」
「エマ、ね」
 SPR所属の霊能者だ。本業は英国の大手不動産会社の社員で、事故物件などで活躍しており、時にSPRを紹介して本人も活躍している。
 二年ほど前に会社の研修という名目で、日本支部で三か月過ごしたことがあった。リンよりも背が高くその四倍はウエストがあるというボリューム感溢れる女性で、ちょうど調査があったので随行させたら日本家屋のあちらこちらにめいいっぱいで、仕事がしずらくてかなり参った思い出がある。
 しかし、麻衣とはうまくやっていた。エマは日本語ができなかったので、麻衣もがんばって英語をしゃべり、自分の語学力に自信がもてるようになったと言っていた。
 そう思い返す脇では記憶が二つ流れ続けている。十五の頃はナルはほぼ調査と研究とその成果の執筆活動だった。ジーンは友人と遊び女の子とも遊びかつ霊能者としてSPRにも出入りし、と、忙しく駆け回っていた。お互いに忙しくしつつも、場所が違ってもチャットは有効だったので、ちょっとした交流は保っていた。事件といえば、ナルが調査先の城でバイセクシャルの貴族に襲われてPKを使いすぎ、かつサイコメトリの追体験で一時的に男性恐怖症を患ったくらいだ。いくら自覚してなんとかしようとしても、生理的嫌悪感はなかなか消えてなくならない。平気なふり、ができるレベルになって、ある程度は平気になって、忘れていられることもあるという程度になり、たまに思い出すくらいに治まって。
 それは、未だに完全には消えていない。
 ナルは、心理学も精神医学も学んだ。催眠術のプロでもある。だから自分の状態をよく知ってはいる。自己暗示で騙すことなく、それなりの付き合い方を続ける。時が解決するのを待つと、決めてはいる。
 ジーンには、すぐには無理だろうが。統合されれば、その考え方が引き継がれてクリアできると、信じるしかない。
「渋谷さん、少し横になった方がええんとちゃいますか? 留守番は僕がしてますよ?」
「・・・・・・そうだな。お願いして、少し。眠れはしないと思うが、そろそろ、ジーンが死ぬ頃なので」
 ジョンが目をみはる。自分で言っていてもおかしいとは思う。記憶の中で、貴族に襲われた事件は過ぎた。ジーンの激しい憤りも見た。落ち着いてだいぶたってから、ジーンに日本からの依頼が来た。ジーンの死へと、記憶は着実に近づいている。
 ナルは、紅茶を飲み終える。そうして、ソファを立った。
「少し向こうで寝てくる。・・・・・・多少騒いでも、放っておいてくれ」
 ジョンは、ゆっくりと顔に笑みをのせる。
「わかりました。できるだけ。けど、助けが必要そうな時は、お邪魔させていただきますです」
「・・・・・・ああ」
 ナルは、所長室へ入って行った。
 ジョンは、一人オフィスに取り残される。
 もうすぐ三時になる。お茶の時間近くなると、不在のバイト二人が出勤してくる率も上がるし、協力者たちが顔を出す確率も上がる。
 誰か来はるかな。
 ジョンは自分の席に行き、パソコンの電源を入れる。出張先でもメールチェックはしていたし、ジョンは本部所属なので日本支部での仕事は特に決まっていない。職員特権で関係者のみが見られるデータや簡易な論文などを見ることができるので、誰か来るまでは所長室の気配に注意しながら、それらを閲覧することにしたのだ。
 所長室からは、特に荒れた気配は伝わってこなかった。来客もない。四時過ぎに安原がやって来たので、事情を説明する。それが済むと、今度は逆にジョンが不在の間の出来事を教えてくれた。ナルの一分の説明は凝縮しすぎだ。あらすじを更に二回くらいあらすじ化したレベルだ。ジョンは、ため息を落とす。
「ブラウンさんも出張先では大変だったんでは? 今回は長かったじゃないですか」
「一回除霊しただけで、あとはいつものようにお手伝いしてただけですさかい。本部もいつもどおりでしたし。それより、みなさんが大変だったときにこちらでなんのお手伝いもでけへんかったのかと思うと。申し訳ないです」
 しばらく英語生活で日本語から離れていたせいか、最初に覚えた関西弁が強くなっている。本人に自覚ないんだろうなあと思いつつ、安原は話を続けた。
「そうでもないですよ、まだ続いていますから。ちょうどいいくらいじゃないですか? これからがブラウンさんの出番だと、僕は思いますよ?」
 除霊の役があるとは思えないので。そういった能力以外での、自分の出番。
「そうでっか。では、しばらく所長についてますです。麻衣さんも心配ですけど、ご近所さんですし、一緒にフォローできるといいんですけど」
「あ、そういえば谷山さんから僕のとこにメール来てたんです。教授の手伝いで遅くなるので今日はこっちに来られないって。ブラウンさんは所長のところに泊まられます?」
「教会の方は大丈夫そうでしたから、今夜は寄らせてもらいます。まだ許可貰ってませんですが」
「駅前にいい店みつけたんですよ。昨日連れて行ってもらったんですけどね。お酒の種類はあまりありませんけど、雰囲気はいい感じでした」
「へえ。僕も連れて行っていただこうかなあ」
 結局来客もなく、事務所を閉める時間になった。
 所長室は暗いままだった。一度日が暮れる頃様子を見た時には、ナルはソファで毛布をかぶって眠っていた。一通り記憶は見終わったのだろう。記憶の整理には、眠りが必要だ。安原から前々日は寝る暇はほとんどなかったと聞いた。昨夜もあまり寝た様子ではない。とはいえ、事務所でこのまま眠るのも体によくない。自室のベッドでゆっくり寝て貰った方がいいだろうと、安原と二人で相談して、起こすことにした。
 声を掛けると、すぐに目を開けた。
「マンションに帰りましょう。今夜は泊めていただきたいんですけど、ええですやろか?」
 ナルは小さく諾と返事をし、ゆっくりと体を起こす。部屋が暗い様子をぼんやりと見て、時計を見、額をなでた。
「・・・・・・部屋に、食べるものがない。保存食しか」
「安原さんにいい店みつけたって聞きましたですよ。僕も連れてってください。朝食はシリアルで構いませんですから」
「・・・・・・僕は三日連続になる」
 げんなりと言う。昨日のボリュームを思い出したのだろう。
「いいじゃないですかー。僕もご一緒したいとこですけど、今夜は都合悪いんで残念です。谷山さんが教授の手伝いで遅くなるって言ってましたよ? そう遅くはないでしょうから誘ってみてはどうです? ブラウンさんも谷山さんの様子、心配でしょう?」
「ええですね。電話してみますさかい、帰り支度してください」
 半ば強引に話を決められても、ナルから特に反論はなかった。
 安原が毛布をたたみ、ジョンはオフィスで麻衣に電話を架けて了解を得る。ナルは、上着を羽織って鞄を持つだけだ。
 二人が所長室を出ると、ジョンも電話を切ったところだった。
「麻衣さんも今お友達と駅に向かっているところだそうですんで、改札前で待ち合わせにしました。麻衣さんも『おばちゃんの店』に行きたいそうですから、お店は決まりですね」
 ナルはただため息を落とす。こういう時のナルのため息は相手が買った証拠だと、仲間たちはすでに把握していた。

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