パジャマを脱がせようとボタンを外していたジョンの手を、そっと、ナルの手が押さえた。見れば、ナルが目を開けている。
「気づきましたか。良かった」
ジョンはパジャマから手を離す。ナルの手が自身の胸の上に落ちた。
「汗が冷えて体に悪いです。着替えはこれでええですやろか」
少し、様子がおかしい。そう感じつつも、ジョンはにこやかにクローゼットから出したパジャマをナルに見せる。ナルは、まばたきを繰り返すだけで、それ以上動こうとはしなかった。
「お手伝いしてもええですか?」
そうっと着ているパジャマに触れてみると、やはりやんわりと手で押し返される。
ナルではない。
「Eugene?」
そう思って、ジョンは英語の発音で呼びかけた。
ナルが、ジョンを見る。そうして、うっすらと笑んだ。
「Eugene」
改めて呼びかけると、ナルが体を起こした。そうして、尋ねる。
「・・・・・・何故、そう思う?」
「・・・・・・所長ではないと、思いましたです」
ジョンは、長らくナルを『渋谷さん』と呼んでいた。
ナルの紹介でSPRに就職してからは、状況によって『渋谷さん』と呼んだり『所長』と呼んだり、英語圏にいるときには『Oliver』『Noll』と呼びかけることもある。
ナルは、どんな呼ばれ方であろうと気にしなかった。呼び分けるのは、ジョンの気持ちだけの問題だ。
今はあえて、その体の属する組織上の名称を選ぶ。
いらぬ刺激を与えないためだ。
慎重なジョンに、ナルがくすりと笑う。いつもと違う笑み。ナルは滅多に笑顔を見せない。それだけに、それが自分に向けられた時には、誉められたかのように感じて気分がよくなるのが常だった。
しかし、今日の笑みは違う。たまに見せる皮肉めいた笑みでもない。
暗い、笑みだった。
「・・・・・・ナルは、少し混乱してるみたいだね。ナルだけなら狸寝入りするところだろうけどね。・・・・・・着替えなきゃだから、僕が出てきたんだ。・・・・・・正解だよ、ジョン」
ユージーンは、明るい性格なのではなかったか。
話には、そう聞いていた。けれど、着替えを始めたその青年に、ジョンは明るさを見いだせなかった。
平然と下着まで着替えるのを軽く手伝いつつ、ジョンは沈黙を保つ。ジーンが無理に出ているわけではないようだし、やむなく出てきたジーンも、ジョンと友好的に交流しようという意図はまるでないらしかった。ジョンは、その理由を思考する。
ジーンとジョンの交流は、ナルが過去のサイコメトリに苛まれ意識を失い、ジーンと統合される未来を語ったあの時だけだった。そのわずかな交流が原因とは思えない。ナルとジョンの付き合いの間に、ジーンが否定するような繋がりはないはずだ。
ジョンが教会を出て宿無しになった時に一時同居させてくれた。SPRに就職後、教会のそばに部屋を借りてからも、合鍵を貰ってあるのをいいことに機会があれば泊まっていた。月の半分以上は教会に、月に一〜二度ナルの部屋に泊まり、残りわずかな日数しか、アパートは使っていない。度々泊まりに来ているとはいえ、破門されている身で教会に出入りしているのがバレるとまずいような人の出入りがあるため教会に泊まれないが一人になりたくない時や、ナルの書棚に関心が向いた時などに一方的にジョンが寄らせてもらっているだけで、懐に入るほどの親しさはない。
ジョンは、自分が属する何かが原因であると、察した。
SPRに所属していることか、キリスト教徒であったことか、性別か国籍か年代か。そこまではわからないけれど。
「・・・・・・ジョンは、今は、神父じゃないんだっけ?」
着替え終えて、ナル、ジーンが尋ねる。
「神父ではもはやありませんです。僕の信仰は変わりませんですけど、破門されましたから、キリスト教徒とは認められていませんです」
出入り禁止とは言われていないので、おおっぴらにはできないが教会に出入りはしているし部屋も残っている。それに、霊を落とすのに聖書や聖水を使うやり方も変えてはいない。使用を禁じられてはいないので。
「貴重な悪魔祓い能力者なのにね」
「僕にはそこまでは。精進が足りませんです」
「そうだね。悪魔憑きを祓うのは、どちらかというと頭脳戦だし。超絶プロの詐欺師相手に命かけるようなものだもの。ジョンには霊を落とすくらいがせいぜいだね」
「・・・・・・」
「褒めてるんだよ? 人がいいってね」
褒めているようにはまったく聞こえない。しかし、ジーンの言うことは事実だ。ジョンとて、悪魔と戦おうという意思はない。自分の能力を過信することはない。
「僕は、神父は嫌い。アメリカにいた頃カトリック教会付属の孤児院にいて、ひどい目に遭ったからね。ナルだってろくな思い出、ないのにね。ナルの気が知れない」
そういうことか、とジョンは思う。
教会付属の孤児院には、問題のあるところも少なくない。もちろん、ほとんどは子供達の幸福を願い運営されている。しかし、暴力や性的略取などの問題がニュースに出ることもある。
「ジョンは小さいころから修道院にいたんだろう? 問題なかったの?」
ジーンが聞きたいのは、境遇的なものなのだろう。
「もちろんいろいろ、ありましたです。男ばかり大勢いたわけですし、本人の意思ではなく家族に放り込まれた人もおりましたですから。幸い、僕は早くから今のお師匠さんについて、寝泊りも一緒でした。どちらかというと変わり者扱いで、敬遠されてましたです」
師匠は、少し変わり者だった。決して間違ってはいないし、ジョンも彼の考えや選択を誤ったものだと思ったことはない。けれど、修道院の中では異質だった。そんな彼に心から傾倒し万事を学ぶジョンは、かなり早いうちから変わり者扱いだったのだ。その中で平穏に生き抜くすべさえも、ジョンは師の行動から学んでいたので、トラブルは多くはなかった。
そのあたりの事情は、ジーンにもナルの記憶から拾えたらしい。
「そう・・・・・・。今は、制約ないじゃない? 女の子と遊んだりしないの?」
「女性に会う時は、性的関心を持たないよう気を付ける習慣がついてますんです。ですんで、普通の女性も、もちろん男性にも、そういった関心を持つことはないです」
「普通じゃないとあるわけ?」
「さいですね。年齢や性別やら、いろいろな要因で対象ではないからと油断していたら、いつのまにか気持ちが近づいていてびっくりすることはあります。神父だった頃はもちろんすぐ気持ちを修正してましたです。・・・・・・でも、実は僕、今困ってますです」
「?」
脇道に逸れるのもいいか、と、ジョンは困った顔でジーンに笑いかけた。
「まったく、油断してましたんです。確かに、女性だし、お年も若いんです。でも、そういう対象の枠にはまったく入らない感じでしたんで、ガードが足りなかったみたいで」
ジーンは、首を傾げて考える風だ。ナルの記憶を探っているらしい。
「まさか、エマ?」
最近、ナルと会話した中に出て来た、若い女性。
リンよりも背が高く、その四倍もウエストがある、日本家屋のあちこちにはまってしまう規格外体型の、霊能者。
「・・・・・・はい。あ、でも、僕がちょっと気になってるだけですさかい。日本に帰る前にお食事はご一緒しましたです。けど、向こうも、自分は対象外と思ってはって。否定してあげたかったです、けど。僕も、まだそれが許される立場になってるんやて、なかなか、認識できてまへんです」
ジーンも、エマは直接知っている。死ぬ前の数年、SPRで活動していた時、エマに会ったことがある。能力は真砂子程度だが、どちらかというと霊から未練を取り除き浄霊する手法が田舎のさばさばとしたおばちゃん風で、ジーンも浄霊のイメージを覆されたものだ。エマ本人は霊能者としてより、社会人として足元を踏み固めたいと言って一般企業への就職を目指していた。ジーンが十五の頃、二十歳過ぎの学生だった。今は二十代後半、三十近いのだろう。ジョンも二十代半ば。年のつりあいは取れているが、外見のつり合いはまったくだ。
「あの・・・・・・エマ・・・・・・」
さすがに、毒気を抜かれてしまった。
「内緒でお願いしますよ? ただの片思いですし、うっかりなんです。僕はこれからも独身のつもりでいるんですから」
「なんで? 別に女とつきあおうと結婚しようがいいじゃない? 神父じゃないんだから」
「そうですが」
「破門されても自身の信仰は捨てないという証?」
「そこまで考えているわけではありませんです。ご縁があれば、するかも知れません。結婚も。まだ、そこまで気持ちの整理ができてないんだと思います」
強制的に生き方を変えさせられてしまったのだ。それも、司祭という立場であったのに、キリスト教徒にとっては最悪の破門という処分。一刀両断に切り捨てられたのだ。
トカゲのしっぽ切り。自ら望んで。他に類が及ばなかったことに、感謝した。
こだわることはしない。けれど、なかなか気持ちがついていけないだけなのだ。
「それより、僕が来る前、麻衣さんと何かありましたですか? 倒れたのは体調のせいで?」
「それを聞くのは野暮だよ、ジョン。まあ、言っちゃうけどさ。僕も信じられないけど、なんとなく二人はいい雰囲気なんだよ。ただ、ナルのいろんな経験や知識が邪魔をするんだ。とりあえず、この体は寝かせるよ。着替えたし、まだ起きるには早いし。悪かったね、疲れてるのに」
「いえ。僕もリビング借りて休ませてもらいますです。あと、一つ言ってもいいですか?」
「僕に?」
「ええ、お二人ともにです」
早くも布団にもぐりかけていたジーンは、枕に肘をついたままジョンに先を促す。
「お二人がどうなっていくのか、僕にはまったくわかりませんです。頼りにもなりませんでしょう。けれど、お話を受け止めることは、できます。なんの解決もできなくとも、お話を聞くだけならできます。ですから、気持ちを言葉にしてください。ただ、話すだけでいいんです。それだけでいいんです。言葉にした方が、自分のこともわかるようになりますですよ。ですから、一人で、閉じこもらないでください。あなたには大勢の、仲間がいるんですから」
「ナル、の?」
「いいえ、お二人ともの、です。ご不満なら、未来の仲間、と思っていただいても」
ジーンが、口の端だけ上げる笑みを見せる。まるでナルのようだった。
「どちらかというと、だんまりはナルだけどね。ナルもちゃんと聞いてたよ、ジョン。今の言葉。次に目を覚ますのはナルだと思うけど、まあ、あまり期待しないでね」
言い捨てて、ジーンはごそごそと布団にもぐってしまった。
「じゃあ、おやすみなさい」
ジョンは、洗濯物を抱えて寝室を出た。
まだ、話し合いが必要そうだな、と思いつつ。
廊下の突き当たりの物入れからソファベッド用の布団一式を抱えだし、ジョンはリビングへ向かう。途中、洗面所に人の気配を感じて、そういえば麻衣がいたのだと思い出した。
ジョンが辿りついたときの、二人の様子。
一瞬、ドキッとした。パジャマで抱き合う二人に。すぐに、色っぽい事態ではなく倒れたナルを麻衣がとどめているのだと気づいたけれど。
ナルが帰って来て麻衣がベッドを明け渡したのか? けれど、麻衣はナルの意識がないと言っていた。ナルは自力でベッドに入ったはずで、麻衣はナルのベッドに寝たはずだ。現にソファ用布団一式は物入れにあった。
調査での様子からすると、麻衣は一度眠ると安全な環境であればよく眠っている。寝起きは悪くないが、起きる時間まではトラブルがなければ多少のことでは起きない。
(所長が、麻衣さんの寝ているベッドに潜り込んだ?)
結論としてはそうなるが、まさか、とも思う。とりあえず、麻衣が意思に反したトラブルにあった様子はなかったので、何かあったとしても合意の上だろう。ならば、あえて口を出すことでもない。
さすがに、ジョンも昨日の今日で疲れている。疲労度にたいして睡眠が足りな過ぎている。ナルと一緒に出勤するにしても、あと三時間は寝ていてもいいだろう。
ソファベッドを整えていると、麻衣が着替えて戻ってきた。
「ジョン、ありがとう。ごめんね疲れてるのに」
「かましまへん。所長は目を覚まして自分で着替えましたですよ。寝るそうですんで、僕ももう少し休ませてもらいますです」
「うん、ホントごめんね。あたし、帰るから。ナル、お願いね」
「はい。気を付けて」
麻衣が多少困ったような、表情を無理やり普通に見せようとしているのはわかった。しかし、泣きそうだとかマイナス要素は感じられなかったので、ジョンはあえて突っ込まないことにした。
麻衣が玄関を出て行く音を聞いて、ジョンはソファベッドにもぐりこむ。
エマの話でジーンが毒気を抜かれてしまったおかげで、話を逸らせた。残念なことではあるが、教会で独身を貫く神父の中には、子供達に手を出す者が実際に存在している。大きな問題になったこともあり、それでも昔は処分が甘いこともあったが、今はかなり厳しくなっている。彼ら、ナルとジーンの双子も、性的虐待に限らないだろうとはいえ『ひどい目にあった』というだけの、暴力なりなんなりの被害にはあっていたのだろう。
エマの顔を思い出す。
大きな顔に、つぶらな瞳。縮尺を標準にあわせれば、せいぜいちょっと太目、という程度のはずなのだが、何せ縮尺が麻衣と比べれば3:4くらいだ。初めて会った時には、異性どころか人類じゃないのではないかと一瞬疑ったほどだった。まさか、独身を貫くことしか想定していなかった自分が、女性として意識することになるとは、完全に想定外だった。
今頃、あの大きな体で何をしていることか。
また狭いドアにはまったりしているのかな、と想像しながら、ジョンも眠りについた。
八時過ぎに目を覚ましたジョンは、朝食の支度を始める。お湯を沸かし、昨夜の残りを温め、シリアルを用意するだけだけれど。
ナルが起き出してくる気配はない。支度が整ったので、寝室をノックする。
「所長、そろそろ起きてください」
廊下から声をかけても、動きがない。
「失礼します」
声を掛けながら中に入る。ナルはよく眠っていた。ジョンはカーテンを開けに行く。それから、そばに寄ってもまだ気づかない。
汗はかいていないようだが、顔色はあまりよくないようだ。もう一度声を掛けても、反応はない。再び声を掛けながら、額に触れてみる。体温は低い。ナルは体温が低い方だが、いつもより低いかも知れない。特に呼吸に支障はないようだ。首筋の脈を探ると、ひどくゆっくりだが間隔は正しい。今はまだ仕事も無理のないよう調整されていたので忙しくはないし、午後広田が来る約束があるが、午前中はこのまま寝させておいてもいいだろう、と、ジョンは起こすのをあきらめて寝室を出た。
リンに電話をして状態を知らせると、ついていてほしいと頼まれた。約束は二時なので間に合うように、無理そうなら断るので早めに連絡を、と。
了解して、ジョンは一人朝食を済ませると、またソファに横になった。今度は眠りを浅くして、体だけ休める。そうして、十一時頃起き出した。
中途半端な眠りだったが、体の疲れは先ほどよりも引いた。
ナルを起こしに行くと、今度はドアを開けると身じろぎした。
「広田さんと二時のお約束でっしゃろ? 今十一時過ぎです。もう少し休まれます? それとも、キャンセルしますか?」
「・・・・・・起きる」
起きたのはナルなのかジーンなのか。ともあれ、起きるというのだから起きてもらおう。
ジョンが再び食事の用意を整えていると、ナルが起きてきた。
挨拶程度の話だけで、二人は食事を済ませ、出勤準備をする。そうして、並んでマンションを出た。
高身長で美貌のナルと、金髪碧眼のジョンの二人組は、結構目立つ。いらぬ注目を集めたくはないので、交通機関を利用する間は近くにはいるが、たまたま居合わせているように見える程度の距離感でいるのが常だった。
渋谷駅についてからは、普通に近くを歩く。二人でいる方が、ナンパ率が下がるのだ。広田との約束があるためか、今日のナルはスーツにネクタイだ。ジョンはオフィスでは特に仕事をまかされているわけではないし、今朝かけつけたままのラフなスタイルだった。
これが、あらぬカップルに見えるらしく、通行人に瞠目されることはあっても、声を掛けられることは滅多にない。ごくまれに二人組の女性に声を掛けられることはあるが、一人でいるよりはオフィスまでの障害が少なくてすむ。
「・・・・・・昨夜、ユージーンと少し話しましたけど、ご存じですか」
「ああ。僕も聞いていた」
「じゃあ、今もユージーンは聞いてはる?」
「ああ、起きてるな。まだ、別々にいるけれど、過去はほぼ共有されている」
統合は急激に進んでいるようだ。平然としているところを見ると、成るに任せているらしい。本来ならば大事なのだろうに。さすがに、肝が据わっている。
一時半ごろ二人がオフィスへ行くと、リンと、麻衣が来ていた。麻衣は今日は午後授業があるはずだったのだが。
「休講になったので、バイト代稼ぎに来ました」
卒業旅行の話が出ているので、頑張る! と前に宣言していた。
ナルは「お茶」とだけ言って所長室へ向かい、麻衣もただ返事をするだけ。麻衣がわたわたしている様子はあったが、ジョンはあえて構わないことにする。急激な統合の進行と、ナルと麻衣の急接近はどちらも気になるところだけれど。あえて介入しない方が良い気がした。
午後二時。
約束どおりの時間に、広田がブルーグレーの扉から姿を現した。