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ひとり 11

 うっひいぃぃぃぃぃ〜〜〜〜っ!!
 麻衣は、平静を保とうと、頑張った。オフィスにナルが出勤してきて、顔を見た。途端、今朝がたのことを思い出したのだ。しかし、ナルのすぐ後からジョンが入ってくる様子で瞬時に我に返り、必死に顔面フリーズをかけ、ごまかしきれないと思ってとっさに「休講に!」と挨拶もせずにわめいた。
 ナルからはあっさり、お茶、と言われる。
 いつもどおり、偉そうな視線を流す程度にちらりと見るだけ。
「了解しました!」と、麻衣は必死に返し、給湯室へ飛び込んだ。
 そうして、ヤカンに水を入れながら相好崩しまくりで心のうちで叫ぶ。
 思い出したこと。
 あの、超絶美形が、薄暗い部屋のベッドで、麻衣を上目使いに見上げて来た、顔。
 子供が甘々顔で「僕、欲しいものあるんだけど」と大人にをおねだりしながらもダメって言われるかもとちょっと不安をのぞかせているような、不安と期待が混ざった表情。
うさぎナル
 多分そこには、直前までのHな行動への反応の恐れなどもあったのだろう。
 しかし、それだけにその眼の色気がただごとではなかった。
 麻衣はその顔を思い出して、心中でのたうちまくりつつお茶の用意を進める。手が震えていつもより茶器を鳴らしてしまい、落ち着け自分! と唱えつつ、しかし頭に再生されるその超珍しい表情をとっぱらってしまうのももったいなくて、思い返してはのたうち、おいまて自分! とまたツッコミを入れと、それはそれは忙しい心中で給湯室に閉じこもっていた。
 ジョンが長期出張明けの夜明けから麻衣のSOSに応じて駆けつけてくれたというのにその姿を見ても完全無視してしまったことにも全く思い至らず。ジョンが事務室にたまたまいたリンにあたりさわりなく事情を説明してフォローしてくれている様子に気づくこともなく。麻衣は、必死にお茶入れ作業をした。
 お湯を沸かし茶器と茶葉を用意し、ポットとカップを順に温め、茶葉を投入しお湯を入れる。時間は今やほぼ勘でわかるのだが、今日は心臓の鼓動も滅茶苦茶で当てにならないと判断して砂時計をセットした。
 来客の予定がわかっているので、茶菓子はその時に。ジョンのお土産と綾子のおすそ分けをすぐ出せるように整えつつ砂時計の様子をうかがう。
 ちょうど良いタイミングで、茶こしを使って紅茶を四人分、カップに注いだ。
 お盆を持って事務室に出ると、リンとジョンが応接セットで話をしていた。そういえば、と麻衣はジョンにいろいろ助けてもらったことを思い出す。ようやっと。
「ジョン、今朝はありがとうねー。その後は大丈夫だったみたいで、良かった」
 リンとジョン、そして自分の分をテーブルに置く。
「所長がよくお休みでしたんでこの時間になってしまいましたです。顔色もよくなりましたですよ」
「そか。じゃ、所長室置いてくるね」
 ジョンの言葉でナルのことを思い出した麻衣は、うっかりお盆からナルのカップを滑り落としそうになり、うおっとぅっ! とお盆のバランスをとる。
「大丈夫ですか?」
 リンにまでそんなセリフを吐かせ「だ、大丈夫」とごまかして二人に背を向けた。
(うう、挙動不審・・・・・・。)
 これで平静な顔をして彼らとお茶できるのだろうか? いや、絶っ対っムリっ! と思いつつも所長室をノックする。
「は、入るよー」
 いつもは失礼します、とちゃんと言うのだが、定例のセリフさえ脳みそから吹っ飛んでしまった。とりあえず、ナルは事情を知っている。どんな顔を見せることになっても、リンとジョンに見せるよりはマシだ!
 そう思って所長室に入ったのだが、ナルはいつもどおりだった。
 こちらの顔を見もしない。すでに母国の新聞チェックは終えたらしく、日本の新聞を広げている。ナルがチェックしたものをスキャナに取り込んで登録するのも、麻衣の仕事の一つだ。以前はリンがチェックをしていたのだが、ナルも日本語の読解に慣れてきたようで、ここ二〜三年はナルの仕事になっている。
 ナルのデスクに紅茶を置きながら、思い出す。
 そういえば、ナルの担当になった頃から、英国の新聞チェックが加わったのだ。あの頃から、すでに麻衣の就職試験のことを想定していたのだろうか。もしかして、そのために担当を交代したのだろうか?
(まさか、ね)
 ちらりと顔を見れば、デスクに広げた紙面に視線を走らせている。右手に持つチェック用の蛍光ペンを、軽く人差し指で叩きながら。
「今朝の、約束」
 ナルが、ぽつりと呟く。
「約束したからと、気にしなくていい。どうせ、こちらもできるかわからないことだから」
「・・・・・・え?」
 前半はともかく、後半の意味がわからない。
 ナルは、麻衣の反応を正確に理解した。
「僕の過去はわかっただろう? それに、麻衣なら、僕がまだろくにコントロールもきかない頃のサイコメトリで視たものの影響も、ある程度は理解していると思う、が?」
 ナルのサイコメトリをジーンの影響でトレースしたり、霊から過去を伝達されたりする能力を持つ麻衣であれば。
 ちらりと、ナルが麻衣に視線を向ける。麻衣は、お盆を抱えたまま、その視線を受けた。
 ナルが視るものは、その物の所有者にとって直近で最も衝撃を受けた事実の経過であることが多い。
 事の起こりから、必要ならばその未来までを視ることができる。
 犯罪捜査にはうってつけの能力だった。
 そうして、その能力の検証も非常にしやすい。
 視るべき部分でない場合でも、意図的に浅く時間を前後に流して視るべき部分をコントロールすることもできるらしい。
 ナルは多くを語らないが、リンやまどかの話、そして、麻衣が視るもの。それらから、麻衣にはナルの言う『影響』の意味がわかる。
 真砂子の助言。
 多くの性犯罪を、ナルは我が身のごとく知っている。
 おそらくは、ナル当人にとっては、はたからうかがうよりも何倍も重い、数々の他人の体験による影響があるのだ。
「・・・・・・うん、わかってる、と思う」
 そういう話をするだけでもナルにとってはつらいのではないかと思う。
「今朝も結局、ダウンしたし。暗い部屋のベッドは、かぶる映像が多くてダメだな」
 ナルがため息を落とす。確かに、ベッドでの犯罪は多そうだ。
「じゃ、お布団の方がいい?」
 麻衣の口から、とっさにそんなセリフが飛び出した。
 ナルが、軽く驚いた様子で目をまたたかせる。はっと、麻衣は自分は何を口走ったんだと反芻し、その内容に気づいて慌ててお盆を振り回す。
「いやいやいやっ! いやいやじゃなくて、いや、その、あの、ごめん参考になるような知識なくて、じゃなくて、えーとぅぉ〜〜〜」
「・・・・・・前向きだな」
「へ?」
 見れば、ナルが薄く笑っている。
「悪い案ではない。日本では視ていないから、布団は素材が近いから怪しいが、畳でというのはないからな。麻衣の部屋ならもう少し期待できるかもしれない」
 真剣に検討する様子に、麻衣は困るしかなかった。とりあえず、ナルの気持ちが悪い方向へ向かっていないので自分の発言はいいことにしよう。
「えっと、でも、うち、壁、すごい薄いから。お隣さんがいるかいないかすぐわかるんだよね。病院勤めで夜勤とかあるみたいで、昨夜はいなかったけど。くしゃみとか戸の開け閉めとか、お客さん来てるとかすぐわかるの」
 ナルが、クスリと笑う。
「どれだけ騒がしくするつもりなんだ、お前は」
「えっ!? いやいやいやいやっ! て、わかんないんだからしょーがないでしょ!」
「あれだけでも声漏れてたしな」
「ちちょちょちょっと! さらっと言わないでよそんなことを〜〜」
 麻衣がうらめしげに真っ赤になりながら言う様子を、ナルが楽しげに見ている。自分ばっかりこんなんで、ずるい、と麻衣は思いつつナルを睨む。
「麻衣の今夜の予定は?」
「・・・・・・何も、ない、けど」
「今日もジョンはうちに泊まるだろう。野菜も今日届くから、夕飯はうちに来い。帰りは送ってやる」
「へ?」
「ジョンは気づいているようだから、多少お前がおかしくても気にしないだろう」
「・・・・・・おかしいって、そりゃ、まあ」
 仲間相手にはポーカーフェイスがろくにできない自分である。いつまでも油を売っているのも、話が切れないからというより事務室に戻っても平静な顔ができると思えないからなのだ。
「とりあえずこっちはチェックが終わったから持って行け。六面に幽霊屋敷の記事があるからそれを話題にしていれば、広田さんが来るまでくらい持つだろう」
「・・・・・・了解しました、所長」
 麻衣は英国の新聞を受け取り、失礼しました、と所長室を出る。
「あ、真砂子。いらっしゃい」
「お邪魔してます」
 広田の相談内容から、いた方がいいだろうと呼んであったのだ。
 麻衣は、お盆を脇に挟んで早速新聞を広げながら「幽霊屋敷の記事があるってー」と真砂子も巻き込み、広田が来るまでの時間を乗り切った。

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