TOP小野不由美TOP

ひとり 12

 二時ぴったりに現れた広田には、連れがいた。
「こんにちは」
 ぎこちなくそう挨拶したのは、ナルが怪我をしたストーカー事件の刑事、古川だった。
「あら」
 真砂子はソファから立ち上がり、先日は大変お世話になりました、と頭を下げる。麻衣も慌てて真砂子にならった。
「いえ。大変でしたね。とりあえず、事件については調べも順調に進んでますんで。今日は別件なんです」
 麻衣がリンとジョンに古川のことを説明すると、リンは二人に座るよう促した。
「所長を呼んで来ます。谷山さんはお茶をお願いします」
 麻衣は給湯室へ、リンは所長室へと向かう。真砂子は、丁寧に二人に座るよう再度促した。
 広田が、ソファにどっかりと腰を下ろし、深々とため息を落とす。
「なんや、疲れてまんな」
 ジョンが気遣うのに、広田が更に息を落とす。
「まあ、それで、相談なんだ」
「すみません、後輩に相談されて。ゼロ班とは以前ご縁があったものですから、僕が広田さんに面倒を持ち込んでしまったんです。来る途中に話を聞いて、先日の事件の方だとわかったんです。広田さんにはご説明していませんが」
 守秘義務ということか。広田も、話の流れから何かあったと知ったものの教えてもらえず、ここまで我慢してきたのだろう。
「先日って、何か警察沙汰があったのか?」
と、真砂子とジョンに突っ込んでくる。
 そこに、ナルが所長室から出て来た。広田は目ざとくその右手の怪我に気づく。
「なんだ? 怪我したのか、渋谷君。それが警察沙汰?」
 これだけ関係者がいるのに、ナルがわざわざ説明するはずもない。ナルがソファに落ち着く間に、真砂子が手早く説明した。
「そんなことになってたのか・・・・・・」
 広田が静かに怒りを沸かせているのがわかる。真砂子も、広田に恋人のふりをしてもらった話は聞いていた。
「わたくしも何もお役に立てなくて。ナルから電話が来てタクシーで現場に行きましたら、麻衣が飛びついて来て。ナルは救急車でもういなくなっていましたし。どうなぐさめたものかと思いましたわ」
「でも、救急車が出てほんの二〜三分でしたよ。友人を呼んだとは聞いていましたけど、思ったより早くて僕らも助かりました」
 古川のフォローに、広田が鼻白む。
「俺はなんの話も聞いてなかったぞ」
「お知らせしなくてごめんなさいまし。少しそっとしておいてやりたいんです、麻衣を」
「・・・・・・そろそろ、ご相談内容をお伺いしても?」
 ソファに納まって他人事のように聞いていたナルが、広田を促す。広田としては、状況をもっと詳しく聞きたいだろう、と真砂子は思う。けれど、麻衣を助けて怪我までしたナルの言葉をないがしろにすることもはばかられたのだろう。広田も、大人しく話を切り替えることにしたようだった。
「ああ、まあ、そっちのことはまた後で訊くとして。実は、昨日、こちらの古川刑事の後輩がいる警察署に、これが持ち込まれたんだ」
 広田が促すのに、古川刑事が懐から包みを出す。
 開かれた布包みの中身。
 それは、赤ん坊のおしゃぶりだった。

 リンが所長室へ声を掛けに行ったので、麻衣は給湯室へ向かった。
(広田さんはホットコーヒー派なんだよなあ。疲れてるみたいだけど、砂糖もミルクも女子供じゃあるまいしっ! て感じだし。予定どおりちゃんとコーヒー落として、綾子に貰ったお茶菓子、甘々の方に変更しようかな。刑事さんも同じでいいか。真砂子も今日はお客さん側じゃないから紅茶で我慢してもらお)
 お湯はすでに沸かしてあったが、コーヒー三人分と紅茶四人分の用意に少し時間がかかってしまった。
 麻衣が給湯室を出ると、ナルも出てきていた。応接テーブルの上には、小さな、とても奇妙なものが載っていた。
 布を広げた真ん中に、赤ん坊が口にくわえているのをたまに見かける、おしゃぶり。
「渋谷君?」
 広田が、ナルの反応をうかがっている。
 麻衣は、お盆を持ったまま立ち尽くした。
 ナルは、おしゃぶりそのものへは視線を向けていない。広田の脇を見ている。まるで、隣りに誰か座っているかのように。
「・・・・・・女の人がいる」
 麻衣がつぶやくと、ナルと真砂子以外の人々が麻衣へ顔を向けた。
「広田さんの隣りに座ってる。・・・・・・ナルが、見てるところに」
 麻衣の言葉に、皆が今度はナルへ視線を向ける。ナルは、わずかに眉をひそめ、麻衣と真砂子と、同じものを視ていた。
 麻衣は、すたすたと応接テーブルに寄り、お茶を配る。自分用の予定だった紅茶は、広田の隣りに置いた。そうして、真砂子とナルの後ろに立った。そうして、おしゃぶりと、女性とを見比べる。
「・・・・・・まだ、ぼんやりしてる。話すなら、今のうちですよ? 広田さん」
 広田が、はっと我に返る。
「あ、ああ」
 とりあえず、いるだけの状態の霊であれば、そばにいてもどうということはない。しかし、時間が経って動きが出て来たら、どうなるかわからない。麻衣にこれだけ視えているのだから、負の要素を持った霊なのだ。
「実は、母親と赤ん坊がいなくなったと、失踪届が出て。その父親が家の前の道路に子供のおしゃぶりが落ちていたと、昨日、持ち込んだものなんだ、これは。これが持ち込まれた警察署で、妙な音が聞こえたり物が落ちたり、通信が悪くなったりして。それが古川刑事経由で俺に話が回ってきて、今日、相談に来たわけなんだが・・・・・・」
「お母様がそちらにいらっしゃいます。亡くなられたのですね。・・・・・・首に、不自然な歪みが視えます。何か、紐のようなものが視えます。絞殺されたようです」
 真砂子が、ずばりと言う。ナルと同じところに視線を向けて。
「・・・・・・赤ん坊は、少なくとも、お母さんが知っている限りでは生きている」
 麻衣が言う。
「お母さんは、それを伝えたい。恨みもあるけど、子供を助けたい。でも、絶望感もある。子供は助からない、と思ってる」
 麻衣にも、真砂子にも。
 ソファに座る女性の想いが伝わっていた。
 なんのトラブルに巻き込まれたものか、自身は殺され、その前後の母子への扱いから、子供もどうなったことか、と思っている。希望を持ちつつも、絶望している。だから、反応が鈍い。今は、ただ子供を想っているから。
「・・・・・・みんな、離れて。・・・・・・立って、ここから、離れてください」
 ナルが、女性を視たまま、言った。
 ずっと、彼は彼女を視ていた。
『ナル』が。死んだ女性を。
 リンが視線で促し、全員がソファをゆっくりと立つ。遠巻きに、事務室内で様子をうかがう。
 麻衣には、『ナル』は『ナル』に視えた。
 ジーンが統合すると聞いてはいる。霊が視えるのはジーン。霊能力がなくとも視えるレベルの霊なのか、ジーンの眼をナルが獲得したから視えるのかは、わからない。
 女が、ゆっくりと、顔を上げていっていた。ナルは、視線を外すことなく対面の席に一人、座っていた。
 女性は、裕福な家庭なのだろう。綺麗に切りそろえたストレートパーマがかかっている髪に、モデルのような乱れのない高級ファッション。厚く赤く色づいた唇に、アイシャドウに縁どられた強い瞳が、ナルへと向けられている。
 ナルは、ただ、見返していた。
『・・・・・・あの子を、守る。私が』
 女が、上目使いにナルを睨みながら言う。じわじわと、その様子が崩れていく。
 髪が乱れ、服も破れ、化粧もぐしゃぐしゃだ。
『殺させない。私は、殺された、けど。あの子は、殺させない』
 マスカラで目の周りが黒くなり、
 ナルは、ただ、視ている。麻衣にも、誰に視えているのかはわからない。すぐ隣りにいる真砂子には視ているだろうけれど。
「・・・・・・あなたの娘は、どこにいる?」
 ナルの、独白。
 赤ん坊の性別は女なのか、と麻衣は思う。そうなのだ、と思う。ナルの眼は、今、それらを見抜くのだ。
「広田さん、視えます?」
 麻衣は、隣りに立った広田に小声で問う。
「うっすら、視えて来た」
「僕もです」
 ジョンも言う。
「視えませんけど、なんか、空気が重いです」
 古川刑事も、顔をこわばらせて言った。
「広田さんと古川さんはデスクの方まで下がってください。そちらは結界が張ってあります。こちらが指示した時は所長室へ。そちらの方が結界は強いです」
 リンの指示に、広田と古川が了承の意を返す。
『車に押し込められて。ガムテープで目を塞がれて、縛られた。車で一時間は走ったと思う。どこか建物に、普通の家だと思う。連れて行かれた。一時間くらい、畳の部屋に放置されて。結衣は、同じ部屋で泣いていたけど、近づけなかった。誰か来て、私は殺された。結衣は、泣き止んでいた。そのあとどうなったか、わからない』
 すぐに子供にも手をかけたのか。それとも、まだ無事なのか。場所はいったいどこなのか。皆が、ナルに注視していた。
『助けなきゃ。あの子のところに戻らなきゃ。ここはどこ? 戻らないと、助けないといけないのに』
 応接セットが揺れる。テーブルの茶器がカチャカチャと鳴りだした。女は、立ち上がってナルを睨みつけている。
『あの子はどこなの!?』
 麻衣が見ている目の前で、ナルの気配がふっと変わる。体の緊張が緩んだのがわかる。激した霊を見上げる目に、口元に、余裕が見えた。
(ジーン、だ)

TOP次へ小野不由美TOP