霊の動きが止まる。彼女にも、その変化がわかったようだった。
その表情に浮かぶ、虚につかれた様子、戸惑い、希望と迷い。
揺れが収まり、『ナル』と女性が視線で対峙しているだけになる。
「・・・・・・どうなってるんだ?」
広田が小声で尋ねてきた。
「とりあえず、『彼』に、まかせましょう」
「『彼』?」
麻衣の妙な呼び方に、広田が怪訝そうに問う。
「今、切り替わった。今出ているのはジーンです」
「はぁ?」
そういえば、広田は統合の話を知らないのだった。
リンとジョンが驚いて麻衣を見る。
「・・・・・・ええ、確かに。ナルから霊の気配がします」
真砂子が言う。まだ、ジーンは『霊』なのか。麻衣には、それはわからない。
『あなた、死んでいるのに。何故、生きている人の中に?』
女が問う。かすかに、希望が見える。自分も生き返る可能性を思ったのだろう。
「あなたには無理。僕と、弟は特別相性がいいんでね。これだって、僕が死んで八年も経って色々そがれたからできていることなんだ。余分な期待はしないでね」
希望をざっくりと切り捨てる言葉。これが、ジーンなのか? 麻衣は、自身の戸惑いを感じた。
『私も、誰かに憑りつけば、あの子を・・・・・・』
「だから無理。あなたは相手の体を自由にできるくらいに憑りつけるほど強くない。子供のお気に入りのコレと、子供の区別もつかずにくっついちゃっているようなレベルで、何ができるのさ」
赤ん坊への想いでこの世にとどまる母親に対して、一刀両断。情けのかけらもない。
再び、応接テーブルが激しく揺れ始める。女の霊が怒りに震えている。自身が殺されたことより、子供を想うことより、目の前の男への怒りが上回っているのだ。
それでも、『彼』は余裕でソファに寄りかかって霊を眺めていた。
「な、なんでそんなひどいこと言うの!? お母さんが赤ちゃんを助けたいって、こんなに、想ってるのにっ!」
たまらず、麻衣は一歩前に出た。
「麻衣っ」
真砂子が慌ててその腕をとらえ、麻衣の前にジョンが出た。
「駄目です、麻衣。彼女は今、憑りつける相手が欲しいんですわよ?」
麻衣の耳元で真砂子が小さく言う。女が、麻衣へ視線を向けている。ナルは相変わらず、女だけを視ている。
「無駄だって。麻衣に憑りつこうなんてしたら、あの金髪のお兄さんにふっとばされちゃうだけ。それより、その子の居場所の手がかりはいくつかある。そこにいる二人にそれは伝えるよ。警察と検察の人だから。探してくれるよ」
女が、二人に視線を送る。広田は疑いのまなざしにぞっとしたし、古川も気配が向いたのを察知して身を固くした。しかし、こわばりながらも手を動かし、警察手帳を提示した。見えずとも、ここは警察の人間だと示す必要があるとわかったらしい。
「あとは、この体の主である弟も手伝う。少なくとも、生きているか死んでいるかわかる。生きているならそっちの二人の出番。死んでいるならあなたの出番。言っとくけど、赤ん坊はなんの未練も持たない。だから死んでいたとしたらさっさと上に上がっちゃうから、早く上に行かないと追いて行かれちゃうよ?」
女が、再びナルに視線を送る。まだ霊になったばかりだからなのか、話をきちんと理解しているようだった。
『あなたは、何故、そこにいるのを許されているの? 兄弟だったらいいの? 私にも、妹と弟がいるわ』
「無理。僕と弟は双子なんだ。それも、元々魂の一部を共有していた。だから僕は死んでも上に上がれなかった。光は見えているのに近づけなかった。あなたは違う。上に行ける」
『成仏できなくてもいい。あの子を助けたい』
「あなたが残れば助かるわけじゃない。残っても困るのは家族だよ。あなたの体と、生死はわからないけど子供はみつけてあげる。それは約束するよ。僕の死体は一年以上みつからなかった。弟はそれでも苦労したし、僕がいつまでもこの世に残っていることも良くは思っていなかった。子供のことを思うなら、ちゃんと上に行かないと駄目だよ」
女は首を振る。生にすがりつく理由を求めて。
『何か、できるかもしれない。助かったあの子を抱いてやりたい。せめて、それだけでも』
「そうやって夢を広げないで。入れ物は一人なんだよ? 僕が今回弟の体にいるのは、僕の残された部分が長い年月で削れまくって大分小さくなったからこそ勝手に始まった統合のせいなんだ。強く拒絶すれば避けられるかもしれないけれど、お互いその気がないから進んでいる。けど、僕が一緒になる分、弟の一部が死ぬ。二〜三割は死ぬね。あなたは弟妹を殺したいの? 僕だって一部とはいえ弟を殺したくはない。けど、僕は成仏できない。弟が死ぬまで。死んで六年も経った。もう耐えられない。実際、僕は物理的に弟を殺しかけたこともある。それだけつらいんだよ、残るってことは。だから、あなたは、子供のことはまかせて、とりあえず見守っていて。長くても数日で片はつくだろうから、その間はいても邪魔しない。でも、子供が無事ならそれを見届けて上がって。無事じゃなかったときは子供はもう上に行っているから、早く追いついてあげて」
『・・・・・・』
霊も含め、誰も口を出せない。
ジーンは、一つため息を落とす。しゃべりすぎたと思ったのだろう。ため息で切り換えて、再び霊に語りかける。
「あなたが殺された部屋。殺されてからわずかな間だけれど、あなたは体から抜け出したあと部屋を見ている。それが僕にも見えた。部屋は十畳二間の和室。押入れを改造した奥行きのある祭壇がある。祭壇に置かれているのは、ねじれた木の枝。多分、龍に見立ててるんじゃないかな? 彼らは写真を持っていた。あなたと、ご主人かな? 眼鏡の男性とを隠し撮りした写真。一緒に置かれていた資料も、一瞬だけど見ているね。文字は読み切れないけど、写真はわかる。小学生になるかならないかくらいの男の子と女の人。あと、家の前に花輪が飾ってある写真。小学校の門、もある。男の子の学校なのかな? 区立小学校なのはわかるけど、明るいって字が上で、もう一文字画数の多い字。週刊誌かなんかのコピーだね。建物は二階建ての、グレーの瓦。上からも見てる。隣りは赤い屋根。反対隣りは二階建てアパート。向かいは車の修理工場かな。高層マンション群も近いけど、どこだろ。あとは弟に任せるね。じゃ、ちゃんと上に行ってよ」
言いたいだけ言って、急に黙り込む。今度はナルに戻ったらしい。見ている方が混乱する。ナルは、しばしジーンが言ったことなどを考えているらしく、『彼女』には構わなかった。彼が見ているのは、おしゃぶり、だ。
それを視ることを求められている。赤ん坊の生死の確認。そうして、手がかりを得るために。
「・・・・・・軽く、視てみる。これは、直接触っても?」
ナルが、広田らの方へ首を巡らせる。
何がなんだったのか、広田らにはよくわからない。ただ、雰囲気が変わったのはわかる。広田には、これがいつものナルだとはなんとなくわかった。
「は、話が見えん!」
「こちらのことは関係ありません。触ってもいいんですか? 駄目なんですか?」
「・・・・・・構いません」
古川が言った。状況はわからないものの、必要性はわかったのだろう。
ナルは布の上からおしゃぶりを指でつまみ持ち上げる。軽く、手のひらの上で転がした。そうしてすぐに、布の上に戻す。
「生きています。少なくとも、今はまだ」
グリーンの光は視えなかった。だから。
「いなくなったのは、いつ?」
「昨日の昼前のようです。十一時頃宅配を受け取っていて、昼に夫が家に寄った時には母親と赤ん坊がいなくなっていたそうです。マザーズバッグも携帯も、履物も残されたまま。玄関の鍵も開いていて、家の前の道路にそれが落ちていたんです」
すでに丸一日以上が経っている。
「・・・・・・もう少し、視てみる」
ナルは、おしゃぶりを布に包んで取り、ソファから立ち上がった。
「リン」
「はい」
所長室へ向かうナルに、リンが付く。
「麻衣」
ナルが、所長室の前で振り返る。
「四月七日の新聞記事をプリントアウトしておけ」
ナルはそれだけを言い残し、リンと共に所長室へ閉じこもった。
「あ」
誰もがナルに視線を向けている間に、女の霊は姿を消していた。