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ひとり 16

(明日の晩。処女じゃなくなるのかなあ・・・・・・)
 大学四年。花の二十一歳の麻衣の、目下の関心ごとである。
 講義を終え、バイト先へ向かう。
(ナル、来てるかなあ)
 来ていなかったらナルが心配だが、来ていたら自分が心配だ。
(ふ、普通に、できるかな?)
 講義中も頭半分がそちらに行っていた。
 ちゃんと生理は終わるだろうか? 話に聞くように痛いのか? 避妊はどうするか? 生理の終わりかけだからオギノ式でも大丈夫か? アレを自分が用意するべきか? ベッドも畳もダメならどこで? うち? ナルの部屋? 一緒に帰る? ナルは明日出てくる? 夕飯は?
 疑問符だらけだ。
 事務所に着くころには、すっかり疲れ果ててしまった。
 それでも、気力を振り絞っていつもどおりを取り繕い、オフィスのブルーグレーの扉を開ける。
「お邪魔してるわよ」
 そこには、目下妊娠中の、百戦錬磨の綾子様がいた。
 綾子の前には、ホットのほうじ茶。相手をしていたのは、ジョンだった。
「こんにちは、麻衣さん。松崎さんが心配して来てくれはりました。あ、所長はお休みです。リンさんはいてます」
 今日は安原は出勤日ではない。鋭い安原の目がないだけで、ちょっと気が緩んだ。
「わー、綾子だ。ちょっとおなか目立ってきた? あ、ナル休みなんだ?」
「とりあえず、普通の服はきつくなってきたわね。今日はマタニティ服の買い出しよ。ナルは色々重なって具合悪いんですって? 怪我したって聞いたけど」
「うん、十二針。あれ? 今日抜糸だっけ?」
「へえ。リンさんのところから直接病院へ行って、マンションに戻られたそうです。昼にリンさんが電話で様子を聞いたところでは、傷は順調に回復中だそうですが、頭痛が治まらないので今日は休むそうです」
「十二針かあ。じゃあ、さすがに痕が残るわね」
「手のひらから手首にかかる辺りが深いので、残るやろう言うてました。キーボードを打てればどうでもいい、とも言うてましたけど」
「ナルらしいわねえ」
 麻衣のために負った傷だ。抜糸したばかりでは、傷もまだ痛いだろう。
 おまけに頭痛が収まらないとは。
(明日、大丈夫なのかな)
 とっさにそう思ってしまって。そっちかい!? と自分の心中で一人突っ込む。
 いや、とりあえず、約束を守って赴き、そばに身を置き付き添っていた方がいいだろう。
(看病ってことで。ナニはいいし、別に、いつでも)
 いつかは、だが。
「麻衣は怪我もなく無事だって聞いてはいたんだけど、姿を見てようやく安心よ。昨夜は真砂子が泊まったんですって?」
「うん。アパートの部屋も脇塞いでくれたし、もう大丈夫だよ。しばらく出てこないと思うし。うーん、でも、引っ越した方がいいのかなあ?」
「前歴ありとは聞いたけど、一応初犯だしねえ。実刑出るかわからないし、そりゃ引っ越した方が無難よね。沿線も変えた方がいいんじゃないの?」
「でも、大学と職場バレてるしなあ」
「四年でしょ? 真面目に通ってたし、もうたいしてやることないでしょ?」
「卒論っつーもんが残ってんの」
「出す時だけタクシーで行けば? ああ、就職でアパート解約も近いんでしょう? 礼金敷金なしとかじゃないとかなり損ねえ。とっとと卒論だして行っちゃえば? イギリス」」
「・・・・・・あたしに早く去って欲しい? 綾子の赤ちゃん見たいのに〜〜〜」
「戻ってくればいいじゃない、幸い、日本支部はこのままあるんだから。あんたの就職先は本部なんでしょう?」
 日本支部は所長副所長以外はアルバイトだ。規模として、更に正規職員を入れるほどの体制ではない。あくまで、研究対象事案多発地域の調査拠点に過ぎないのだ。
 調査が入れば必要に応じてあちこちから召集するのが本来なのであるが、そこを現地アルバイトで賄っているという体裁である。
「うん、まあ、そう、だけど。あ、でも、まだ就職試験してないんだよ」
「落ちるの?」
「入れなかったら奨学金全額一括返還!!」
「入れないって、ありえないでしょ」
 入学金までお世話になっているのだ。就職して功績を上げれば返済免除だが、ただの利用しただけのスポンサーだというのならばこちらの役に立っていないのだから還せ、という仕組みである。
「えーと、本部ゆうても、僕も本部採用ですし。研究員でなければ結構フリーです。固定給は安いですけど、出来高払いで、働けば働いただけ、いただけますです」
「まあ、だから、ジョンみたいに日本支部付であちこち出張ってのもありらしいんだけど。あたしは外国慣れてないから。どうせなら行っちゃって少しでも慣れた方がいいと思って、一応本部希望になってるんだよねぇ。まどかさんも押してたし」
「就職時期より早めに渡英して慣らしてもいいんじゃない? 残される方は寂しいけど、麻衣の未来を思えば、たまに会おうね、て感じねえ。今はネットで離れてても身近にいられるしね。選択肢はたくさんあるんじゃない?」
「うん。一応、それも考える・・・・・・」
 渋谷サイキックリサーチから離れて、SPRの本部に入る。奨学金の話が来た時点から、そういう話で進んでいる。長期の休みにはイギリスに出張し、現地の調査に参加したことも何度かある。まだまだ未熟だが、やって行ける、と思う。
 麻衣には、引き留める家族もない。友人たちは、こうして、前へと送り出してくれる。寂しさをにじませながらも。
「それより、買い物よ。荷物持ちについてらっしゃい。ジョンには話つけてあるから」
「へ?」
「お留守番はまかされました」
 ジョンがにっこりと言う。
「いいのがあれば荷物持ちのバイト代に買ったげるから、つきあいなさい」
 綾子さまの厳命に、麻衣はお茶の一杯も飲むことなくそのまま渋谷の街へとUターンさせられた。綾子は事前にチェックしていたらしく、渋谷の街では希少なマタニティウェアを何枚もゲットする。ちょうど、春秋用と夏用の両方が入手できた。
「休憩休憩。ご苦労っ」
 短期間しか着ないというのに結構なお値段の服をぱっぱかと買う綾子に、麻衣はめまいがしそうだった。お値段分重たく感じる紙袋を、カフェの椅子にまとめて置いた。
「ここ、デザートボリュームあるのが多いのよ。奢ったげるから遠慮なく食べなさい」
「遠っ慮っなくっ!」
 麻衣は、本気で遠慮なく、一回くらい注文してみたいと思っていた超豪華なプリンアラモードを注文した。プリンだけでもお椀サイズで、冷やし中華の皿のようなガラスの器にこれでもかこれでもかと多種の果物と生クリームとアイスクリームが載っているというシロモノだ。
「いっただっきまーすっ」
 対する綾子は、上品に小さなベイクドチーズケーキと紅茶だ。
「綾子ぉ、カフェインって駄目なんじゃないの?」
「控え目に、よ。神経質になりすぎてストレスになったら元も子もないじゃない。まあ、選べる時はノンカフェインがローカフェイン選ぶけどね。ケーキに紅茶。いい組み合わせでしょ? 無理はしないわよ」
「そっかあ」
「まあ、麻衣に妊婦生活のレクチャーはまだまだ早かったわねえ」
 綾子は、特大プリンアラモードに視線を投げる。
「なんだよ?」
「別にい。バージンのお嬢ちゃん?」
 ぶふっと、麻衣は口に入れたばかりのチョコ掛けの生クリームを吹き出しかけた。
「んな、なっ、う、え?」
「別に悪いって言ってないからね。あたしだってこの力なくなるかもって、大事にしちゃったし。それほどの男探してもなかなかみつからなかったもんだから、長引いちゃった。結果として、なくならなかったしね」
「え? あ、そ、か」
 いきなりなんだ、とも思ったが。多分、海外に行ってしまうかもしれないから、先々のことを考えて先に教えて置こうと思ったのだろう。
(これって、相談する、チャンス?)
 今まさに処女喪失間近かもしれないのだ。
「真砂子もそんな感じじゃない? 麻衣も心配?」
「えと、いや、それは気にしてなかった、なあ。でも、昨日真砂子もそんなこと言ってた。マネージャーが心配してガードしてるんだって。で、どうせなくなるなら進路変更可能な大学生のうちがいいっのに、て」
「就職の心配かあ。麻衣だって、SPRの就職かかってるじゃない?」
「んー。でも、既婚者の霊能者も普通にいるし。だから、気にしてないよ。機会もどうせなかったし、さ」
「あら? 過去系?」
「う・・・・・・っ?」
「あらやだ。単に突っ込んでみただけなのに、何よ、予定あんの? ちょっと相手大丈夫なの? 力消えなくたって自分大事にしなさいよ? 相手だれよ?」
 麻衣は、お皿の上の真っ赤なチェリーに視線を固めたまま、真っ赤になって顔をひきつらせている。これは本当に何かある、と、綾子は組んでいた足を解いた。
「だ、れ、な、の? あたしが知ってる、だれか?」
「う・・・・・・う・・・・・・ん」
「どっちよっ!」
「う、ん」
「え? て、ナル?」
 麻衣は、唇をわずかに開けたまま、真っ赤になって言葉に詰まってしまっている。
「は、あ〜〜〜〜〜〜。いつの間に。でも、まだ、なの?」
「うう、えと、ま、まだ」
「いつからおつきあいになったの?」
「いや、それは、どうだか?」
「は?」
「えと、明日、泊まる、約束」
「はあ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
 真っ赤になって固まってしまった麻衣は、綾子の視線を感じながらもどこまで話したものかと脳みそをぐるぐるさせた。こんなことを相談できる相手は、綾子しかいない。
「まあ、とりあえず、食べながら。アイス溶けるわよ?」
 落ち着いた声で、綾子が言う。自ら、チーズケーキにとりかかった。
「う、うん」
 麻衣は、薄紫色のアイスを口に入れた。ブルーベリー味だ。冷たい塊が、口の中で溶けて様々な味と香りを醸しだす。
(おいしい)
 ピンクのアイスはイチゴ味。生クリームとプリンで小休止。黄緑色は抹茶味で、こげ茶色のはチョコレート。
 イチゴにパインにブルーベリーにラズベリー。プリンにチェリーは王道で。生クリームとチョコレートもたっぷりと、かつオシャレに使われていた。
(うう、贅沢)
 一通り味を見て、溶けるアイスと競争を始めた頃、綾子がつぶやいた。
「避妊は、しなさいね」
と。
 途端、麻衣は固まった。
 麻衣はまだ二十一。ナルは一歳違いだ。さすがに、就職を控えて妊娠は、まずいと思う。
「あ、あの」
「うん?」
「あたし、今日、まだ、生理で。明日、五日目で。まあ、だいたい、終わるかな、て。で、オギノ式、だと?」
「そんなもん期待しちゃダメよ。精子が十日も長生きした例あるんだから。初めてで身構えて排卵早まればそれはそれで精子寿命範囲で受精よ?」
「う、うう・・・・・・」
「ゴムでしょ、主流は。感染症予防も兼ねて。男が用意しなくて困るのは女なんだから、一応用意しておきなさい」
「う、うう・・・・・・」
「帰りに薬局寄りましょ。買ってあげるわよ」
「ううう・・・・・・」
 さすがに、言うに言えなかった。
 買う買わないの迷いの中には、サイズの問題があるのだとは。

 外見は完全に日本人の、ナル。
 一緒に売り場に行った麻衣は、多種多様なコンドームを見た。薄さ違いやら、サイズ違いやら。
 綾子は、お値段もいたって普通のものを一箱、レジへと持っていく。
 麻衣は、サイズが有効でありますように、と祈りつつ、自分があれをナルに渡せるのだろうかと、それはそれで悩みを増やしたのであった。

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