麻衣が綾子に避妊具を買ってもらったその日。
ナルは、病院で抜糸をしてもらったあと、まっすぐ自室を目指した。頭痛も動ける程度にはなったものの治まらなかったので、抜糸後の傷痕の痛みを理由に鎮痛剤を処方してもらい薬局に寄ったが、調剤薬局だったこともあり避妊具を求めようとはまったく思いつきもしなかった。
久しぶりに平日日中に八百屋の前を通りかかり、当月分の配達の支払いついでに、客が来ているからと追加でおすすめ野菜を購入する。怪我に気づいた店主が配達してやると言ってくれたが、かさばるけれど重量はたいしたことはなかったので断った。店主が見舞いに、とメロンをくれそうになったので重いしと遠慮したら、じゃあこっち、とマンゴーを一個袋に突っ込まれ、更にかさばってしまった。
元々避妊具のことなど考える余裕もなかったので、片手が使えないところに荷物がかさばり更に買い物をしようとはまったく思いつかず、八百屋の二軒隣りにあった小さな薬局もナルは存在を気にすることもなくスルーした。
マンションのエントランスに入ると、管理人の鈴木氏が作業着で掃除をしていた。手を止めてにこやかに挨拶をしてくれる。ナルはジョンが来ていることと、しばらく人の出入りが多いかもしれない、と伝える。
「わかりました。初めての方はいらっしゃいますか?」
「来たことがある人だけです」
「そうですか。ああ、ブラウンさんは一時間ほど前に出かけられましたよ」
鈴木氏は一度見たら人の顔は忘れないのだという。何度か、ナルの後をつけてきて知人のふりをして侵入しようとした女性を追い出したという実績を持つ。背格好の似た住人と同じ服装で現れたツワモノもいたが、別の住人にくっついてエレベーターホールに入ろうとしたところで捕獲して警察に不法侵入で突き出した。そんなこともあって、ナル関係の人の出入りについては特別気にかけてくれていた。
年に何度か様々な専門業者が入るが、概ね管理人一家でマンションの維持管理とフロント業務をこなしている。鈴木氏は設備管理系の多種の資格を保持しているそうで、フロントでおとなしくしているかと思えば、作業着姿で様々な作業をこなしていたりもする。居住者数も少なく、余分な人の出入りがあまりないのもこのマンションのいいところだった。
ナルがエレベーターホールの自動ドアの暗証番号を入れようとしたところに、ちょうど内側から住人が出て来た。
「こんにちは」
降りてきたのは、ナルの隣りの部屋の夫婦だった。夫はかなり体脂肪が身についた体型をしているが、妻の方は服装も姿もファッションモデルのようだった。
挨拶を交わしてナルはエレベーターへ。夫妻は鈴木氏に挨拶しながら外へ向かった。今日は仲がいいらしい。
あの細い妻がコロコロした夫に対してキレた時はものすごい。このマンションに入居するなり廊下で皿が吹っ飛んで来たことは、なかなか強烈な思い出である。
(出かけたということは、今日は静かだな)
頭痛に騒音はありがたくないので、助かる。
ナルは部屋に戻ると、野菜を片づけて早速寝支度にかかった。
今日は、ジーンがまったく現れない。
頭痛の向こうにいる気配はある。けれども、もはや個として成り立っていない気がする。
同時に、自分が今誰なのか、と思ってしまう。そんな迷い方を自分がすること自体が、すでにナルの個が違ってしまっていると感じられる。
こんな状態で、思考力を使う仕事は無理だ。
統合は勝手に進んでいる。何も手を加える必要はない。ただ、進行するにまかせるだけだ。
できるだけ、寝室でじっとしている。それが一番いい。
何故寝室がいいかといえば、一番物が少ない部屋だからだ。衣類はウォークインクローゼットの中で、その扉さえ閉めてしまえばベッドのみになる。
(PKの制御が、うまくいかない)
暴走はしていないが、コントロールしきれていない。
洗面所で手を洗おうとしたら、水がゆがんで落ちてくる。照明をつければジジジと異音がするし、窓を開けてもいないのにカーテンがゆらぐ。
外であれば気づかれない程度の漏れではあるが、ナルの気力は奪われる。
できるだけ平静に努め、眠って、時間を稼ぐに限る。
そんなわけで、ナルは翌日の麻衣との予定についてはあまり考えることなくその日を過ごした。
夕方までひたすら眠り、ジョンが帰って来た物音で目覚めた。自室なのに違和感を感じ、自分の体なのに何かが違うと思う。
もう、ジーンの気配はわからない。
そうして、自分のどこが死にどこが残りどこにジーンが混じったのか、と考えたが、思考力が働いていなかった。
頭痛はなくなっていたが、どうにもすっきりしない。
ジョンが様子をうかがいに来て、返事をしようとしたらとっさに英語が出て来た。ジョンが驚いた顔をして初めて自分が日本語を話していないと気づいた始末で、日本語に直そうとしても何も思いつけない。ただ沈黙するだけになってしまった。
ジョンの話す日本語はわかったので、やむなく日本語と英語で会話をする。
ジョンは今日は来客がなかったこと、綾子が来てバイトに来た麻衣を買い物に連れ出したこと、本部から報告依頼があったがリンが対応したことをナルに伝え、夕食の支度をするからと部屋を出て行った。
食事に呼ばれて出て行くと、今度はPKが勝手にいたずらをする。スプーンを手にしようとするとテーブルから落ちる。カップが倒れそうになる。ジョンの皿までが動いた。
「かましまへん」
ジョンはなんでもないことのようににこやかに言う。一人じゃなくて良かった、ジョンで良かった、と思う。そう思って、これはジーンだな、と思った。
すでに、統合はほぼ終わりかけているらしい。終わった、のかもしれない。あとは、慣れるだけ、なのかも。
(麻衣には、悪いけれど)
統合前のナルに、こだわっていたから。
食事の後、洗面所で鏡に向かってみた。
見た目は、いつもどおりだ。
いつもどおりだが、自分ではないように感じた。
鏡に触れてみても、チャットで声をかけてみても、それが届く相手は自分だった。
周囲から異音がするので、ナルはそれだけ確認すると寝室へ戻る。
統合がほぼ終わったとして。
PKの能力は残っているらしい。では、ジーンの能力はどうなのか。ナルは、寝室から北側の狭いベランダに出てみた。
かつて、この裏通りに反対側のビジネスホテルから投身自殺をした女性がいる。すでにこちら側にはいないはずだが、ジーンは、本気で視れば今はいない霊の存在も視えると言っていた。
ナルの目には何も変わったことはない。人通りが少ないので、外灯もホテルの裏口のものだけだ。ジーンの目を意識して瞬きすると、わずかに見え方が変わった。
視界に透明感が出て、わずかな空気の歪みが視える。ホテルの上階から通りへと一直線に歪みがあり、路面には形の崩れた波紋がある。そういった歪みは、あちらこちらにあった。うっすらと色のあるものもある。
そうして、ジーンの記憶が呼び起された。それらの歪みを、ジーンがどう経験から判断していたかを思い出す。勢いや色や歪み方で、おおよその出来事を推測する。更に視れば名残をみつけられることもあったのだ。
今は、この裏通りにははっきり霊として残っているものはいない。
(能力も統合されたのか)
研究者としては、これはなかった方が良かった。信頼できる目は必要だったが、自分に備わってしまっては、客観性がなくなる。幸い、視る視ないのコントロールはできるようだが、存在の強いものは普通に視えてしまうのかもしれない。
統合されたばかりだから一時的に強いだけで、いずれ消えるかもしれない。
今は、客観的に自分の状態を把握していくしかないだろう。
ベランダを閉めたところに、ノック音。
「リンさんから僕の携帯に連絡がきてますです」
ナルの携帯電話は鞄に入れたままだった。
ジョンから携帯を借りて話をする。ジョンから聞いていたようで、英語での会話になった。
ナルが携帯に出なかったことから、リンのところに広田から連絡があったのだという。
ジーンのトランクがみつかった場所から、更にバッグが発見されたのだと。サイズの都合でトランクよりもかなり下に落ち込んでいて発見が遅れたらしい。
銀行のカードからジーンのものだとわかり、財布にはイギリスの物を含む小銭が残されていたものの、札がすべて抜き取られていた。
バッグが簡易ながら防水のものだったため中身の状態は良好。ために、指紋の採取が可能なので関係者の協力が欲しいとのことだった。
窃盗罪の時効は七年。ジーンの死に、新たな罪状が加わる可能性。そして、犯人への新たな手掛かり。
捜査が、再開される。