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ひとり 3

 駅で麻衣と合流し、店の前に立つ。
 ナルにも、守護神の如く入口脇に座り込むおじさんが見えた。
 外国人のジョンを警戒しているらしいが、麻衣にもその姿は見えないようだった。
 ジーンの記憶からして、ジーンにはめったやたらと霊が見えていた。真砂子の比ではないだろう。しかし、それらを見事にスルーしていたので、必要な時以外は見えていても見えていないのと同じだった。それは、生きている人間相手でも同じ。顔見知りやぶつかりそうな相手などしか、見えていても気にしないのは。
「ナル、どしたの?」
 麻衣が店の戸に手を伸ばしながらナルをうかがい、立ち止まる。
 ジーンの影響で見えやすくなっているのかも知れない。金髪碧眼でどこからどうみても外国人であるジョンには、さすがのおばちゃんも驚くだろう。
「さすがに三日連続は嫌だ。テイクアウトできるか相談してみてくれ。メニューはまかせる。ジョン、コンビニへ行こう。麻衣は店で待ってろ」
「ええ?」
 有無を言わさず背を向ける。慌ててジョンがついて来て、麻衣が文句を背に投げてきたが無視して進む。
「どうかしはりましたか?」
 追いついたジョンが隣に並ぶ。
「店を守っている霊がジョンを警戒していた。日本人は外国人慣れしていないからな。今日は一旦諦めて、またにした方がいい」
「そうでっか。お兄さんのように見えはるんでっか?」
「いや。でも、あれは見えた。昨日ジーンが視たからかも知れない」
 ジーンが、ちゃんと認識した霊だから。
(麻衣、目が赤かったよ。パワーも落ちてる)
 ジーンの忠告。事件後、急に現場にもなった部屋で一夜を過ごしたのだ。眠れぬ夜だったのかもしれない。
「八百屋さんの食材は食べられてしもたんですね?」
「ああ。明日の配達まで何もない」 「よろしおしたなあ。お野菜がずいぶん役立って」
「それは構わないが。・・・・・・あまり居合わせたい状況じゃあなかったぞ」
「そうですか。男女関わらず、お酒が過ぎるのはあかんですね」
 ナルも悪酔いして迷惑をかけたことがある。反して、ジョンはいくら飲んでも気安さが少し出る程度。ザルだ。
 ナルも弱くはないが、今の心身の状態でジョンと呑み比べようとは思わない。
 少し行ったところの酒屋の営業時間に間に合いそうだったのでそちらに行先を変更し、ワインと日本酒とつまみを入手する。ナルは買い物をしつつ、何故呑むことになっているんだろう? と思う。
 ジョンも長期出張帰りで疲れているはずだし、ナルも麻衣も寝不足だ。酒など飲んだら寝落ちコースだ。
 しかし、ジョンはにこにこと怪我人のナルの分まで買い物袋を提げて、麻衣の待つ店へと足を向けている。一度教会に荷物を置いてから出勤してきたのだろう。身軽だ。ナルの部屋に少し着替えを置いてあるので問題はない。
 ジーンはおとなしい。眠っているわけではない。ナルの記憶からのダメージは、ジーンには古いものほどひどいはずだ。サイコメトリした犯罪被害者や加害者のものよりも。ジーンにとっては。
 時系列で見続けることによって、当初の衝撃は多少緩和されただろうか。
(ナルは平気そうだね)
 思考が繋がっているようで、ジーンのコメントが入る。実際、ナルの記憶に比べれば呑気なものだ。霊能者としての記憶の中には一般的にはきついだろうものもあったが、しょせん霊の過去は他人ごとだとナルは思っている。ジーンほどの打撃はない。
(おまえも気にすることじゃない。昔のことだ)
 デイビス夫妻に引き取られる前。アメリカにいた頃のことだ。いずれも十年以上経っている。イギリスに渡ってからとの差異が大きすぎて、現実だったか疑いたくなるほどだ。しかし、ナルにはその頃の経験による生理的反応が残されている。
 ナルとジーンは、顔も体付きもそっくりだった。どこから性格に違いができてきたのかといえば、親とまだ暮らしていた頃のことだ。物心ついて、現実を理解するようになった頃には、既に違っていた。同じものを見て聞いて育っていたはずなのに、ちょっとした物事の受け取り方の違いのせいなのか、持って生まれた気質のせいなのか。
 一度、父親にひどく殴られたことがある。
 たまにしか現れない父親は、顔を合わせればなんだかんだと言いがかりをつけて兄弟に暴力を振るっていたが、その時は数日記憶があやふやになるほどだった。
 そんな風に殴られたのは、ナルだけだった。
 父が帰っていると気づかずに、不用意に奥の部屋の扉を開けた。
 母に父が暴力を振るっていた。
 その時は、そう思った。
 だから、止めようとした。
 そうして、ナルは父親にひどく殴られ、蹴られた。何発も、本気で。
 後で思い返せば、荒っぽくはあったようだが、単に二人は夫婦の交渉をしていただけなのだ。止めた方が悪い。
 ナルは部屋の外に放り出され、ジーンは何があったかわからないままナルをベッドに運び、ただ添い寝し続けた。
 そのぬくもりの内でひたすら眠り続け、意識がはっきりしてきたときには、父の姿はもはやなく、母はいつも通り酒を飲んでいた。
 アメリカの医療費の高さを思えば、どこに酒を買う金があるのかわからないような貧困家庭が医者を呼ぶことなどありえない。しかし、母はただ酒を飲んでいたし、ナルを癒したのは、ただ、ジーンの与えてくれる体温だけだった。
 その時から、なんとなく二人に違いが出て来たようにも思う。
 実際、両親に二人の区別がついていたかどうかは不明だ。
 二人がそれぞれの名前を認識できるようになった頃に、母親がジーンが先に生まれたのでジーンが兄でナルが弟だと話したことがあったので、二人はジーンが兄でナルが弟という属性を持つと知っただけのこと。
 けれど、母親が混同したことはなかったように思う。
 もっとも、彼女は子供たちをただ家にいる生き物としか思っていなかった。
 酒と一緒に食べ物や飲み物を自分の分だけよりは多めに入手してくる。
 それらを転がしておいて、酒が切れればまたどこかへ入手しに出かけて行く。
 酒だけを持って帰って来ることも多かったので、二人は常に飢えていた。
 しかし、そのあたりは二人とも同じ経験だ。
 受け取り方が違うようになったのは、やはりひどい暴力を振るわれたことがきっかけのように思う。
「渋谷さん」
 ジョンに呼ばれて、我に返る。もう店が見えている。
「なんや、考え事が深いでんな」
 話しかけられていたのだろうか?
「お一人で考えることも大事ですけど、たまには人に話すのもええですよ?」
 ジョンが、青い瞳でナルを見据え、言う。
「自分の身から、言葉として出すだけで、楽になることもあります。聞き手に解決できるはずのないことでも、自分をいっとき解放するだけでも、狭まった思考が広がってええですよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 ナルは、人に頼ることができる。
 能力や時間など様々な制約の中で、もっとも効率よく最良の結果を出すために、他人にを使う。仕事を振り分けることも、自分にできないことを頼むことも、人に頼ることだ。
 自身の精神的安定のために他人に頼ることも、している。我ながらひねくれた方法をとることもあるが。
 しかし、そのために単純に人に悩みを打ち明ける、ということはあまりしない。
 他人に解決できる問題ではないし、他者の意見を聞き入れるような問題でもない。
 けれど、それでも、ただ語れと。
 そう、ジョンは言っている。
 なるほど、酒がいるな、とナルは思う。ジーンが同意している。ジーンも、誰かと話したいのだろう。
 すべての過去が、今のナルを作っている。
 否定したくとも、それが現実。
 どんな過去をも、忘れたい過去をも礎にして、ナルは今、前を向き先を見据えて生きているのだ。
 それでも、そんな過去などなくただ平穏に過ごせてこれていたら、とは、やはり思うことがある。
 ナルは、ふっと笑った。ジョンは、その美しさに目を離せなくなって、一瞬フリーズする。あいまいな、その笑みに。
 ナルは、ただ軽く手を挙げてみせる。
 そうして、ジョンを置いたまま足を進めた。
 麻衣が待つ、おばちゃんの店へ。

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