三年ほど前、イギリスに長期帰国したとき。
ナルは、自宅から大学へ通い、SPRの研究室へ立ち寄り、また自宅へ戻り、休みは両親と過ごした。
いつの間にかデイビス家には『ルウ』という名のメス猫が一匹居ついていて、初めナルを警戒して距離を置いていたのだが、三日もするとその膝に乗るようになっていた。
足の怪我のせいで階段がつらかったので、二階の自室への往復回数を減らすためにリビングにいることが多かった。それでなつくのが早かったのだろう。
三週間ほどは、昼は大学、夜は猫を膝に本や資料やパソコンと過ごした。怪我が癒え、階段の昇り降りにもほぼ支障が無くなってくると、養父もSPR本部もナルにいろいろな場所への顔出しをするよう言い始めた。
ずっとあちらこちらからの声を止めてくれていたのだろう。
「僕だけで、価値がありますか?」
ナルは、養父であるマーティンに訊いてみる。
パトロンや本部の関係者には世話になっているので、既に挨拶程度は少しずつとはいえ済ませてある。
中にはナルが日本に長らくいたことさえ知らないパトロンもいる。研究に専念するナルを何かの場に引っ張り出すこともないし、たまの帰国時に素知らぬ顔で研究報告に顔を出せば満足してもらえる。そんなありがたいパトロンだ。
問題は、英国メインで日本への調査出張が多いのではなくほぼ日本にいると知っているパトロンやSPRの上層部だった。
そんな彼らは、ナルの実年齢ももちろん知っているし、それどころか子供の頃のことも知っている。ナルとジーンをセットでパーティに引っ張り出して、余興にしていたこともある。パーティに出てこいと言われても、ジーンはもはやいないのだ。ナル一人に余興の価値があるとは思えない。
「今のおまえを見せてやればいいだけだよ。もう子供じゃないんだ、一研究者としての立場で参加するのさ。あの子供が立派に育ったと、見せてやればいいんだよ」
ナルは、膝から見上げてくるルウを見ながら、考える。
ジーンがみつかって、一年近く経つ。喪に服していると言って避けられる時期は過ぎたのか。
ジーンが生きていた頃だって、ジーン抜きで参加したことはある。なのに何故、自分だけでいいのかと、確認したいと思ってしまうのか。
ジーンの死を、受け入れたから。
だから、心細いのだと。
そんな素直な答えを獲得しつつも、強がる自分もそこにはいる。そんな心弱い自分を認めないと。
ルウが、ナルをみつめながら小首をかしげる。
どちらも自分の考えだと、わかっている。
「短時間でいいなら、行きましょう」
軽い手品のタネぐらいは仕込んで。
マーティンが向かいのソファから立ち上がり、隣りに座り直した。
「ナル。いずれ、おまえもジーンがいないことに慣れてくるだろう。それでも、ジーンのことを思い出すだろう。慣れていいし、思い出していい。おまえはこれからも生きていくのだし、お前たちはこれまで二人で生きてきたのだから」
そう言って、マーティンがナルの頭を撫でた。
ナルは黙って、ただルウの頭を撫でてやった。
「じゃ、ちょっと待っててねー」
麻衣の部屋の前で、麻衣がドアを開けて声を掛けるのに、ナルは沈んでいた思考から覚める。何故か自宅飲み会の準備が進行してしまい、麻衣を一人で帰せないし送るのも手間だからと、麻衣の部屋で飲むことになったのだ。
一段落したら男二人は帰ればいいと。壁の薄いアパートだが、騒ぐメンバーでもないのでいいだろう、と。
そうと決まってここまで歩いてくる間ナルはずっと考えに沈んでいたわけだが、二人は放置してくれていたらしい。ナルは、ため息を落とす。
(心細かったんだ、一応)
(黙ってろ)
ジーンをけん制しつつ、ジョンの様子を伺ってみる。
ジョンはスマホでメールを打っていた。麻衣が部屋を片付けるわずかな間に、ジョンはジョンで片付けておきたい用事なのだろう。
ナルは、また頭が記憶をさかのぼるにまかせる。ほんの少しだけ、前のことが思い出されてきた。
「先日、所長が倒れられたとき、谷山さんの片腕抱き込んで眠ってましたよ。それで安心したみたいに」
夢を見るたび、危険を感じて目を覚ます。ジョンの教会の診療所を退院して、病院跡の調査をした後のことだ。首と足首の不調もひどく、痛みと夢見で寝不足で、何とか出勤してはいたものの休み休み仕事をしていた頃。気遣った安原が、谷山さんに付き添ってもらったら安眠できるのでは? と提案してきて、意味が分からずにいたら説明してくれたのだ。
「・・・・・・」
ナルは、無言を返した。完全に、隙をつかれてしまった。関連する様々を思いだし、結果。
防ぎようもなく、顔が赤くなるのがわかった。
安原が、驚きに目をみはる。
ナルはとっさに手の甲で口元を隠した。そんなことでごまかせるはずもない。
安原は、興味津々といった様子でナルをうかがい、口元をほころばせる。
「やあ、所長も、男の子ですねえ」
一歳しか違わないというのに、余裕の発言をする安原に、ナルは何か言い返そうとし、けれど何も言えず、ただ上目遣いに睨みやった。赤い顔をしたままだったが。
「とりあえず、座って。感情の起伏に対応できるほどの体調じゃないでしょう?」
安原に促されて、手近なソファに腰を下ろす。ナルは、長い息を吐いて、自分の額をなでた。
「おや、落ち着きました?」
次に顔を上げた時には普段どおりの無表情に戻せた。安原はにこやかに片手を挙げる。
「つまんないなあ」
と。ナルは憮然としつつも、ため息を落とす。この越後屋相手では観念するしかないのだろう。ふざけ過ぎることもあるが、気遣いもできる男だ。黙っているべきことは、他人には口が裂けても言わないだろう。
「ちゃんと自覚されていたんですねえ。おっと、これは僕の独り言ですからね」
安原は、体調不良で口を開きたくないであろうナルをけん制する。
「うちの学校の調査の時から、仲良しさんだなあと思ってはいたんですが。けど、谷山さんはともかく所長の自覚はなさそうで。お兄さんがみつかってからのお二人はちょっと 痛々しかったですよ、傍目で見ていて。でも、だんだん、また波長が合いだした感じで。もう他の誰も割り込めないなあって空気なのに、お互い恋愛要素出す気配なくて。どうなるのかなあと思ってたんですけどねえ」
安原は、越後屋スマイルを維持しつつナルを言葉でつつく。ナルは、ただ無言を返す。
「所長が踏み込まないと、谷山さんはいつまでたっても距離を置いたままだと思いますよ? 男なら、どーんといきましょうよ?」
「・・・・・・独り言じゃなかったんですか?」
「願望も独り言してみました。たまにイラつくんですよねえ。僕だって、所長がライバルじゃなかったら、別に谷山さんくらいの女の子だったら守備圏内ですよ。一生とは思いませんが、一時ならね。そういう男はいくらでもいると思いますよ? 高校でも大学でも。谷山さんがずっとフリーでいるのは、やっぱり、所長のためなんじゃないですかね?」
ナルは、ため息を落とす。
「・・・・・・自覚は、まあ、ありました。そうなんだろうと、はっきり判断したのは、誘拐事件の後ですね。帰国して、距離を置いて。考えて・・・・・・。とはいえ、それはそれで。自分が麻衣をどう思っているか知ったところで、どうしようとも思ってはいなかったんです。ずっと」
「何か、意識が変わったんですか?」
「おそらく、少しずつジーンが混ざってきているんでしょう。近頃いろんなことが、一般的になってきて・・・・・・。早い話、以前は男として何も感心がなかったのですが、気になるようになってきてしまった。それで若干困っています」
「はあ。若い男なら普通ですよね。ヤリたいって」
「・・・・・・」
「日本には『据え膳食わぬは男の恥』ってことわざがあるんですよ。もちろん、心得ている男は『男の意地』に変えて自制しますがね。実際、欲求が高まればだれでもいいっていうのが生物的本能で。それが谷山さんにしか気が乗らないっていうなら、まだまだ一般的じゃないですよ?」
「・・・・・・他は、気になりません」
「それはとってもいいことです。でも気をつけてくださいね。落とし穴に落っことそうとしている女性はたくさんいますから。くれっぐれも。それで人生誤った男は大勢いるんですから、一筋と定めているならそれが一番! これからも周辺眼中なしで突き進んでください」
「・・・・・・」
ナルは、軽く安原を睨んだが言葉は返さなかった。ナルにしてはよくしゃべったので、安原は満足そうだった。
「谷山さんはお休みだし、お茶入れますね。谷山さんが最近おすすめしているハーブティはいかがですか? リラックス系や安眠系もありますよ?」
「香料が入っていないなら、なんでも」
「了解しました」
安原は、寝不足諸々で頭が働かないにも関わらず資料ファイルを広げるナルのことなどお見通しとばかりにカモミールとドライフルーツのハーブティーブレンドを出すと、所長室へ向かった。ソファを仮眠用に整えに行ったのだろう。
戻ってくると自分もナルの向かいでハーブティーを飲んでいた。声をかけられてふと気づけば、寝てください、と、笑顔の迫力でのぞきこまれていた。うたたねしかけていたらしい。にこやかに所長室へ追い立てられ、ナルはおとなしく一眠りすることにしたのだった。夢見や寝覚めが悪くとも、人は眠らないと生きていけないのだから。
そうして、安眠できない日々が続いていたところに傷害事件が起きたため、総睡眠時間も不足しすぎている今の状態で。記憶がさまようのをセーブする気にもなれない。
(ナルは、麻衣が好きなんだ?)
(うるさい)
思考も筒抜けだ。
(僕も好きだけど。ナルほど熱烈じゃないかなあ。僕は麻衣をまだ、よく知らないしね)
(麻衣だっておまえのことはたいして知らない)
(そうだね。麻衣をとおしてナルに伝えるしかなかったから、色々。味方にしておくためにできるだけやさしいお兄さんしてたしね)
(詐欺師め)
(でもおかげで麻衣はナルを意識したんじゃないの?)
(最終結論はおまえだそうだ)
(最終っていつのこと? 五年も前のことじゃないだろうね?)
ナルの返事はない。
(それ以降の意思確認はしていないってことだね。困った弟だなあ)
ジーンを好きだった彼女に、自分がジーンに勝る点とは。
(そんなこと、生きているということだけじゃないか)
ジーンが笑う。
(麻衣は、ナルを理解しているよ)
「お待たせー」
麻衣が、にこやかに扉を開ける。
「遅い」
そんな憎まれ口を叩かずにいられない。
「悪かったね! ちょっとじゃん! もー、どうぞ」
ふくれっ面をしつつ、手招いてくれる。
さすがに、部屋に入ったことはない。
「お邪魔します」
一応言ってみると「どうぞ」と、手のひらをひらりとして、麻衣が今度はにこやかに招き入れてくれた。