「ポイント、上がりますわね」
とろりと瞳を潤ませて、真砂子が言った。
ナルの部屋。麻衣が男に追われ、ナルが怪我をした晩。ナルが治療のために病院へ行っている間にナルの部屋へ上がらせてもらった麻衣と真砂子。二人の女子呑み会の時のことである。
無機質ながら秩序の整った最低限の家具の配置。部屋のあちこちや冷蔵庫などから、家事能力もほどほどにあることがうかがえる。
「ナルのお料理を食べられる日が来るなんて、想像したこともありませんでしたわ」
冷蔵庫に冷やしてあった菜の花のおひたし。ゆでて絞ってお皿にラップという姿でいたものを、一口サイズに切っておつまみとしていただいている。
「そうだねえ」
なんの味付けがしてあるわけでもない、ただのおひたしだ。上手いも下手もない。
しかし、感慨深いものがあると、麻衣も思う。
醤油もあるし。
「お椀やお茶碗はないけど、平皿は大小で数あるね。スープ皿っぽいのも。同じ柄」
「お母様が送って来たのでしょうねぇ。素朴で上品で、それでいて丈夫そうですわ」
シンプルに、白地に青い丸みを帯びた線が数本入っている。磁器のようだが、丈夫そうに見える。
同じシリーズの食器がシンクの引出しに入っていた。紅茶のセットやおしゃれなティーカップもあったが、それらはあまり使われていないようで、食器洗い機にはでかい白いカップが入っていた。質より量。紅茶を入れに立つ回数を減らすためだろう。
(紅茶は好きなんだろうけど)
自分で入れるのは、やはり面倒なのだろうか。茶葉もあれば、ティーパックもある。
コップもそろいのものが入っていたが、使っている形跡がない。同じ引出しにスパイダーマンやマリリンモンローなどの前衛的な絵がプリントされたカップが半ダース入っていて、そちらは多少使われた様子があった。ぼーさんが引っ越し祝いにあげたという話のものだろう。これをもっぱら来客用にしているようだ。普段の飲み物はもっぱらデカ白カップらしい。
『麻衣が、休みの日とか』
そんなカップを見て、麻衣はナルの言葉を思い出す。
理沙がバイトをする喫茶店でのこと。
麻衣が休みの日に紅茶を飲みに来るのだと、そう言ったのだ。ナルが。
(あたしの紅茶は喫茶店級って、褒めたんだよね?)
きっと、それだけのことなんだろうけれど。
ひそかにドキっとしたことは、ばれなかったと思う。
「何を考えていますの?」
真砂子が燗をつけていたお銚子を運んできながら、麻衣に問う。
「え? や? なんでも?」
「嘘おっしゃい」
にこやかにお銚子を麻衣に向ける。麻衣は、おちょこを差し出した。
「え・・・・・っと」
真砂子はすでにかなり酔っている。麻衣は、喫茶店での短い会話のことを話した。
「あたしの紅茶を入れる腕は喫茶店並ってお褒めの言葉をいただいちゃったよ!」
と。
「馬鹿ですわね。そうじゃないでしょう?」
「馬鹿って何」
「馬鹿ですわよ。わたくし、ずっと言ってますわよ? ナルに麻衣は特別なんだって」
「あたしもずっと言ってるけど? 悪い意味で特別って」
「馬鹿ですわねえ」
「むー。馬鹿で結構! 飲め!」
麻衣はお銚子を掴んで真砂子に突き付けた。真砂子は素直にそれを受ける。
「さすがに少し味が落ちている気がしますわね。三年近く経ってますものね」
「うん。味よくわかんないけど。比較しようにも日本酒はほかにないしねえ」
「いただいた缶酎ハイもビールを終わってしまいましたし。まだどこかに隠してあるんじゃありません? ブラウンさんもよく泊まっているのでしょう? あの方かなり飲めますのに、ないはずありませんわ。あれだけ食器の種類があるのにワイングラスがみつかりませんから、一緒に高いところに入っているのかもしれませんわ」
「あー、破門されて教会出た時にしばらく置いてもらってたんだってね、ジョン。家賃としてもらい物のワイン入れたって聞いたけどさ。あたし、破門された騒ぎもナルん家にいたことも全然知らなかったんだよね。ジョンが今日からSPRの職員だって紹介されるまで」
「わたくしも麻衣から聞くまで知りませんでしたわよ。ナルとリンさんくらいじゃありませんの? 知っていたのは」
「ぼーさんも知ってたみたいだよ。安原さんも」
「男どもは知ってたわけですわね。ずるいですわっ」
なんの手助けもできなかったではないか。
「ちょうどあの頃、真砂子って安原さんといい雰囲気じゃなかったっけ?」
真砂子が、一瞬ひるんだ。次には、ぎっと麻衣を睨みつけた。
「ええ、雰囲気だけですけども。安原さんは、あの人は、ちょっと私の様子をうかがってみて、結局やめた、って感じですぐ元の距離に戻ったんです。本当にちょっとだけでしたわ、一か月もなかったです。私が渋谷に寄った帰りにお食事やお茶をご一緒した程度。それだけですっ」
軽く話を振った麻衣に、真砂子が一気に吐きだしてきた。
「あー、お試しで、終了、て感じ?」
麻衣は、真砂子の反応にたじろぎつつも、先をうながしてみる。
「そうですわっ! わたくしも人のことは言えませんけども。そちらがその気ならちょっとつきあってみようかって。うまくいかなくても周囲にばれない範囲でちょっとって。確かにわたくしも思いましたわ。でも、本当にお互い様子をみてそれだけで終わるとは。わたくしだって少しは恋に憧れがありましたのよ! ナルはどうせ麻衣しか見ていないし、そろそろ諦めようかって、それで。おかげで、ナルへの気持ちも一緒に無くなりましたわよ」
「あ、そ、なんだ?」
聞き捨てならないことも言っているが、それどころではない。真砂子のテンションはどんどん上がっていく。
「そうですわよっ。二十歳も超えて、芸能界を生きているっていうのに、わたくし、まだ男性とちゃんとつきあったことがありませんの。もちろん、清い身ですわよっ?」
能力が失われる可能性を考えて、マネージャーである叔母が過剰なほどガードし続けた結果だ。神秘性を保って売り込んできたのだ。真砂子はおかげで芸能人や政治家の中で仕事をしつつも、清い身を守ることができてきたのだ。
「それは、あたしもだけどさ。なんせ、初恋の人がこの世の人じゃなかったし?」
麻衣とて、言いよってくる男どもがいなかったわけではない。麻衣は一切、相手にしなかった。
「あれから何年経っていますの? まだ初恋を引きずってるとは言いませんわよね? 大事な初恋を大事にすることに文句を言ってるんじゃありませんわよ? わたくしだってナルを好きだった思い出は大事ですわ。でも、麻衣っ。あなた、ナルが好きでしょう!?」
ずばり言われて、麻衣はぱくぱくと口を開いたり閉じたりする。
真砂子とは、事務所以外でも待ち合わせて出かけたりする仲である。お酒を一緒に飲むこともあった。多少恋愛話をすることもあった。けれど、ここまで露骨に突っ込まれたことはない。
「真砂子、大丈夫? 飲み過ぎじゃない?」
「わたくしを飲み過ぎだと思うなら、あなたはお酒が足りないんですわよ! 飲んで、麻衣っ」
「は、はい」
飲みかけのままおちょこを向ければ「空けてからです!」と言われ慌てて飲み込む。小さいおちょこなので飲めと言われれば飲めてしまうのだ。空けて両手で捧げ持てば、真砂子が満足そうにお銚子を傾けてくる。
「さあ飲んで。今日こそ白状させますわよ。実のところ、みんなイライラ見ているんですわよ? お二人のことは」
「あの〜、なんかいろいろ、前提間違ってない?」
「間違ってるのはあなた方二人だけです。周りから見ればイラつくだけですわよっ」
きっぱりと真砂子が言い放つ。麻衣は、お猪口片手に反対の手で頬をかいた。
「いや〜、だって、あたしはジーンが好きだって真砂子と綾子には言ったよね? そりゃ、ずいぶん前のことだけどさ。ナルなんか、全然、恋愛とか興味なさそうだし。実際、ジーンがいたおかげでみんなそっちになびいて、助かってたみたいだし?」
麻衣は真砂子のお猪口にお酒をつぎながら言う。真砂子は、それをぐいっと空けて、再び一気にまくしたてた。
「わたくしも大人になりましたわ。ジーンがみつかった頃、本気でわたくしがナルを好きだった頃、あの頃は、ナルとジーンは別物、別々だと・・・・・・。わたくしはナルを好きで、麻衣はジーンを好きだって、そのまま思ってましたわよっ」
「うん。間違ってないよ?」
「わたくしはナルしか知りませんでしたから、ナルを好きでした。ジーンのことは知らなかったんですもの、ブラドの屋敷でジーンに会った時のことは、あれだけの状況でしたから、現実とも思えないもので。あの時のことは恐ろしい記憶と一緒でしたし、そもそも私のナルを好きだという気持ちの中には入っていない出来事です。でも、麻衣、あなたは違いますっ」
お銚子をつきつけながら、真砂子は麻衣に断言する。
「えー、と」
「お飲みなさい」
「はい。あ、真砂子もね」
「ええ」
二人して、ぐいっとお猪口を空にする。
「あなたは、リアルに存在するナルと、調査時の夢の中に現れるジーンとを、混同していた。両方を併せて好きだった。その二人のギャップから、優しいジーンを好きだと選んだ。けど、聞いてくださいまし。二人を一人と認識していて、本当にそのうちの一人だけを好きだったなんてこと、有り得ますの? わたくしは確かに、あの頃、麻衣はジーンが好きなのだと、納得しましたわ。お子様でしたわ。大人になった今では、有り得ないとわかりますわよ。それはあなたも同じでしょう? 麻衣」
「まあ、ギャップも、良かったんだと思うよ、うん」
「ギャップ萌えは一見悪い方が実はいいという法則ですわよ、麻衣」
「それはどうだろ。安全パイはいい方じゃん」
「その時の麻衣はそうだったんでしょう。高校生だったんですもの。けど、麻衣。あなたはナルとジーンを区別できた。だから、ナルをナルとして見るにようになった。そうして、ナルのことも好きなんだと、気づいたでしょう?」
「『も』ね」
「ええ『も』でしょうね」
二人ともが好き。どちらも選べない。一度はジーンだと思ったものの、ナルのことも好きなのだと、自分の思いに気づかずにいることはできなかった。
「でも、それってひどくない?」
ひどいと、麻衣は思う。だから、ジーンに片思いし続けているふりをしてきた。事情を知るSPRの仲間たちに対しても。何も知らぬ高校や大学の友達たちには好きな人は今は遠くに住んでいる、と。だから別の男に寄り道する気はかけらもないと、合コンなど男女絡みの場には一切出たことがない。ジーンのことを盾にして、ナルを思う気持ちも守り続けたのだ。気持ちも、自分の体も。
「ひどくても仕方ないですわ。生きているんですもの」
麻衣は、もう真砂子に対して諦めることにした。内緒にし続けることを。
「死んじゃったジーンが悪いみたいじゃん。生きてるナルも悪いみたいじゃん。でもって、あっちが死んでるからこっちって、わたしも悪いじゃん」
「良い悪いを考えても仕方ありませんわ。正直になればいいのです。悪いと思うなら悪いと思い続けた上で成就なさいませ」
「それってきつい」
「きつくて当然です。二人が出会う前のこととはいえ、人一人死んでいるんですもの。彼の存在がなければお互い惹かれることはなかったし、彼の死がなければそもそも出会いもありませんわ。キューピットですわよ。そうお思いなさいませ」
彼が生きて、死んだから。
だから、ナルとも出会えたのだと。
「うーん。きゅーぴっと、ねぇ。でも、ここにきて、も一つ問題が」
「統合、ですわね」
「うん」
麻衣が好きになった人。実は二人だったとわかって、片方を選んだ。けれど、もう一人のことも好きなのだと気づいた。その二人が、一人になるという。
「びっくりですわよね」
「うん」
「選ぶ必要も相手に悪いと思う必要もなくなりますわ」
「だけど、さ」
「その点だけは話がうますぎるほど、ですけれどね」
「うん。だけど、さ」
なんかずるいようなひどいようなうますぎるような、という、麻衣の言いたいことはわかる。が。
「どんな一人になるかわかりませんのよ? 麻衣」
真砂子は、意地悪い笑顔で言った。
「え、あ、そう?」
「ナルのいいところとジーンのいいところだけでの一人になるわけじゃありませんわよ、麻衣。どちらでもあり、どちらでもない、第三の人物になるんですから。麻衣が好きになれない人になる可能性だってあります」
「ぅえっ!?」
そこまでは考えていなかったらしい。
「ですから、考え過ぎないで。統合されるのが決まっているのなら、統合されてからもう一度考えて、それから行動すればいいんですわ」
「そ、かな」
「ええ」
「でも、さ」
「なんですの?」
「あたし、統合される前に、ナルに、伝えておきたいとも、思うんだ」
「・・・・・・そう」
二人は、お互いにお猪口を空にする。真砂子は、一升瓶からお銚子にお酒を移す。最後の一滴までを。
「・・・・・・ジーンを好きだと思った。けど、ナルのことも好きだったんだって。優柔不断だし、生きている方に気持ちが動いたのかとか思われるかもしれないけど、ちゃんと、言いたいなと、思うんだ。ナルがナルでいるうちに」
「でしたら、早い方がいいですわね」
「・・・・・・うん」
真砂子は、またコンロの鍋にお銚子を入れに行く。麻衣は、空っぽになった一升瓶を眺めた。空っぽの中身。
ナルの心には、何があるんだろう。
自分が何を言ったところで関係ないのだろうけれど。
ただ、自分は、きちんと伝えておきたいと思う。
褒められた話ではないのだけれど。
二人それぞれを、好きなのだと。
「もう一つ問題がありましてよ? 麻衣」
真砂子が座り直して言う。
「何?」
これ以上?
「・・・・・・ナルはあの能力のせいで、いろいろな経験をしているでしょう? それこそ、無理やり、という経験も、ナルは体感していると思います。傍目から見ればナルは麻衣を好きですわよ。けれど、男女の仲になろうと積極的になる気配がまったくないのは、そういった経験のせいなのではないか、と。そういう問題です」
「・・・・・・」
「けれど、麻衣。さっき、麻衣が言っていたこと。麻衣がいない時だけ喫茶店に紅茶を飲みに行く、なんて。そんなこと、これまでのナルなら言うはずもないことですわ。統合が進んでいるせいかもしれませんけれど、ナルも、少し積極的になってきたのではないかしら? 麻衣といい仲に、って?」
麻衣は、複雑な顔をした。つまり、ナルが麻衣に女としての関心を示し始めたのではないかと、真砂子は言っているのだ。それがどういうことなのか思うと、複雑にならざるを得ない。
「男と女が好き合えば、ゴールは決まってますわよ? お互い今のところ清い身ですからね、気持ちはわかりますわ。けど、だからこそ、一つ忠告しておきますわよ?」
「な、何?」
「好きなら、拒絶してはいけません。ナルに対しては、決して」
「・・・・・・」
「拒絶しながらも強制された経験を知っているナルが拒絶されたら、きっと、立ち直るのはかなり大変ですわよ。ですから、その気がないなら決して二人きりにならないことです。不自然にならないように。これまでどおりに。いざとなったら、ちゃんと向き合いなさいませ。その時には、これまでの悩み、すべて解決しますわよ?」
「・・・・・・うん。わかったっ」
麻衣は、ふんっと力強く立ち上がる。そうして、最後の熱燗を取りに行った。
先のことを、想いながら。ナルを受け止める覚悟を、固めながら。
ナルが、自分を思ってくれているという、真砂子の言葉を思いながら。