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ひとり 7

(夢、だ)
 麻衣は、自身が何かを体験している感覚を得た。
 ただの夢ではない。誰かの、経験。
(ナルが、サイコメトリしてる)
 麻衣は、三種類の過去を視る。
 霊から伝えられる過去。
 そして、ジーンから彼が知り得たもののイメージを与えられ、関係者で構成して夢に見る過去。
 それと、ナルのサイコメトリをジーンが中継するものだ。
 何も見えない。ただ、荒っぽい振動を感じている。
 なんの、感情もない。
 麻衣は、変だな、と思う。
 暗闇の中で原因不明の振動を感じていて、なんの思いも動いていない。感じているのだから、意識はあるはずなのに。おかげで、いつもならないはずの自分の意識を維持できている。
 一時停止。ドアを開け閉めする音、敷居を越えて、部屋に引っ張り込まれる。そんな感じ。
(手足を折り曲げて、暗い中。体中痛い。トランクの中?)
 麻衣が想像した状況。ドカッと、体が横倒しにされる。真っ暗な狭い場所に押し込められたまま。
 そうして、音。光が差す。筋状の口がぱっくりと開く。想像通り、トランクの中だったのだ。
 眩しい光の中に、太った外国人の男がいる。
 早口の英語で何かしゃべっている。英語だとはわかるが、スラングがひどくてよく聞き取れない。
 断片的に聞き取れた単語。
『着替えろ』『部屋へ』『寝ろ』『黙ってろ』
 そうして、はっきりと、顔を近づけてゆっくりと言った台詞。
『交代してもいいんだぞ? おまえの兄弟と』
 感情を一切出さない、子供。子供、男の子だ、と麻衣は感じる。
 男の子は、ゆっくりと首を横に振った。
 トランクから引きずり出され、服を脱がされる。放り出された別の衣服。色褪せた、よれよれの。
 服を着て、罵声を浴びながら部屋を出る。真っ暗な廊下。
 彼は、何も考えない。何も感じない。ただ、ゆっくりと移動する。
 体が痛い。麻衣は、そう思う。狭いトランクにどれだけの間閉じ込められていたのだろう。だからゆっくりとしか歩けないのだろう。痛いのに、彼はそれに対して何も思わない。
 階段を上り、ドアを開ける。いくつもある窓から明かりが入っているので、真っ暗ではない。その部屋には、たくさんのベッドが並んでいた。
 彼はまっすぐ、一つのベッドを目指した。隙間を縫うようにして。
 その空きベッドの隣りのベッドを、彼は見る。
 薄明かりの中眠る、黒髪の少年。
 彼は、昼間の少年の姿を思い出す。訪ねて来た女性のそば、視えない何者かに語りかける。そうして、女性がふいに顔を上げる。黒髪の少年はにこりと笑い、女性は感動して彼を抱きしめた。女性が興奮して解放を語るのに、連れの男性が太った男に何かを渡す。先ほどの、下卑た太った男。顔は同じだが、聖職者が着るような服を身につけていた。
 彼は、更に思い出す。黒髪の少年が、訪ねて来た男に泣きながら訴えるさまを。太った男は少年の襟首をつかんでドアの向こうに投げ込んだ。太った男は責められていた男をなだめようとし、その隙に彼は少年が投げ込まれた部屋へ飛び込んだ。少年は、泣きながら怒っていた。男についている霊は、男にひどい目にあわされて殺されたんだ、と。そう、彼にも訴えた。そして、かわいそうに、と。霊に同情している。
 やがて部屋に入って来た太った男は、少年に殴りかかっていった。止めようとした彼のこともいっしょくたにして暴力を振るい、食事抜きだと言い放って立ち去って行った。
 少年が「ごめん」と彼に言う。巻き添えになった彼に。「ごめん、ナル」と。
 思い出から現実に意識を戻した彼、ナルは、黒髪の少年、自身の兄であるジーンの顔から、窓へと視線を移す。
 反射して、自分の顔が映った。
 兄にそっくりの。
 ぼんやりと、何も考えていない、死んだ瞳の。
 そんな自分に気づいてしまった。
 一気に駆け巡る思い。
 迫る男の顔、肌をなでる手の感触、押し付けられる体の熱さ。
 豪華な部屋に置かれたトランクに詰め直されてロックされ、その中で聞く男と神父の会話。金と次回の予定。
 お前が嫌がるなら、ジーンを連れて行く。
 神父は、そう言った。トランクを持ち出す度に。
 幼い彼には、言うことを聞くしかなかったのだ。
 爆発する感情を必死に押さえつける。記憶を頭から追い出す。考えてはいけない。思ってはいけない、でないと、あれがやってくる。
 ナルは、慌ててベッドにもぐった。
 頭から布をかぶって、必死に自分をおさえつける。
 なのに、それはやってきた。
 ガツンと、上から音がする。
 隣りの、教会よりも高い建物から、がれきが降ってくる。
 ガツン、ガツン、と。
 他のベッドの子供達の、何人かが身動きをする。
 しかし、彼らは慣れていた。屋根をぶち抜く心配はない。屋内にいれば大丈夫。外にいる時の方が危険だ、と。
 それは一分ほどの間続き、やがて静まった。
 更に様子を見て、完全に収まったと確信できてから、ナルはようやく布から頭を出し、体の力を抜く。体中に痛みを感じながら、なんとか眠る姿勢を探し、落ち着いた。
 斜めの天井を、ただ、見る。何も考えず。何も感じずに。
 ただ、眠ろう。
 そうして、目を閉じた。
 麻衣は、動揺する自分を感じていた。
 麻衣が視る、三種類の過去。
 これは、どれだ?
(ジーン?)
 一人になろうとしている、ナルとジーン。
 これまでのものとは違う。三種類のいずれでもない。ジーンが体験している、ナルの経験、だ。それを、麻衣に伝えてしまっているのだ。
 おそらくは、自分ひとりで抱えきれずに、眠る麻衣へとこぼしてしまったのだろう。
 次に来たのは、衝撃。
 壁に背中を強く打ちつけ、息が止まるほどの痛み。そのまま、床に落ちる。
 ナルを勢いよく放り出し、その距離を再び縮めるために足音荒く近づく、怒りで真っ赤に染まった神父の顔。
 歩いて来た勢いのまま、つま先が繰り出され腹を蹴られた。続けざまに、肩を、足を、顔だけは避けて蹴りつけられる。
 驚いたけれど、麻衣は自分はさほど痛みを感じないことに気づく。ナルのサイコメトリを視ているのであればそのまますべてを感じるはず。やはり、これは誰かの処理された『記憶』なのだ。
 蹴り続けて片足で立っていられなくなり足を下ろした神父は、今度はしゃがんでナルの襟をつかんで引き起こす。そうして、また壁に打ち付けた。
 激しくののしる言葉。何を言っているか、麻衣には聞き取れない。普通習うことのないようなろくでもない言葉だということだけはわかる。
「ジーンは、もういない」
 ナルが、呟いた。その英語は、麻衣にもわかった。
「だから、もう従わない」
(僕が殺されても、ジーンが身代わりにされることはないから)
 怒りに黒ずんでいく神父の顔。振り上げられた拳が、顔にきた。
(これでいい)
 顔を殴れば、腫れてしまうので人前に出せない。つまり、神父はナルにその役目を与えることは諦めたのだ。それよりも、今は怒りにまかせてぶちのめす。それでいい。
(そのまま、殺してしまえ)
 激しい痛みの中、ナルが思う。自分を殴り殺してしまえ、と。
 麻衣はそんな思いを感じながら、叫んだ。もうやめて、と。
 麻衣は、殺される、と思った。逃れたいと思った。けれど、ナルは、殺せと。このまま殺してしまえと、身の内で叫んでいた。
 ジーンは、もうここにはいない。遠い海の向こうへ旅立ったのだから。もう、二度とここへは戻ってこないのだから。
 ジーンは彼の能力を知った英国人の元へ養子になることになった。ナルは少しだけいたずらをした。その英国人は、悪い人ではないと思ったから。ジーンをここから連れ出してほしくて、彼を騙したのだ。
 事はうまく行って、その英国人はあくまで紳士的ではあったものの半ば神父を脅すようにしてジーンを養子にすると決定し、必要な手続きを強行し、ジーンは今や英国にいる。
 ナルは兄弟間のチャットで、彼が新たに母親をも得て、これまで経験したことがないような環境に戸惑っている様子を聞いていた。ジーンは、もう大丈夫だ。
 何度目かの衝撃で、意識が飛んだ。もう、目覚めなければいい、と、ナルが思ったのが伝わってきた。
 時々夜いなくなり、ある朝戻らなくなる子供達。ナルが知る限りでも、男の子が二人、女の子が三人。彼らは、あのトランクで運ばれていた。最後には、死んでいるか瀕死の状態かで、運ばれていった。ナルはトランクに詰められるようになって、それを知った。何故かそれがわかったのだ。
 今度は僕の死体が捨てられる。
(次はどの子で稼ぐのだろう)
 その誰かにだけ、悪いな、と、最後に思った。
 あまりに哀しいその想いに、麻衣は心のうちで激しく泣いた。彼はジーンを守り通したのだ。役割を終え、解放されるために彼が選んだのは、殺されるという道だった。
 次に見えたのは、ドアを飛び出して行く光景。
 開かれた向こう、所狭しと育てられている草花たちと細い道。左を見れば、一台の車が停まるところだった。
 転げる勢いで細い道を車の方へ。後ろから女性の声がする。車の中には三つの人影。
(イギリスの、ナルの家だ)
 ほとんど周りを見ていない人物に同化しているが、麻衣も訪ねたことがあるのでわかる。ルエラが育てた庭だ。確かに、出て左に車庫があり、行き来が多い時には車を車庫の手前に駐車していた。
 車の窓に飛びついた。後部座席には大きな男がいた。その向こうに、小さな人影。
「ナルっ!」
 その姿を認めた途端、涙があふれてきた。
 運転席から出てきたマーティンに一度引きはがされて、開いたドアからまず大きい男が出てくる。赤毛の格闘技家のような筋肉質の男だった。
 その男はするりと身を避けて、彼らの間の障害がないようにしてくれた。
 車の奥に、ナルがいた。
 片目は包帯に隠れている。頭にも巻かれている。左腕は吊られているし、松葉杖が一緒なので足も怪我しているのだろう。
 ジーンは、車の中に飛び込んだ。相手が怪我をしているとわかっていても、手加減などできなかった。
「ナルっ!」
 痛みを訴えるうめき声が腕の中から聞こえた。そんなことは構っていられなかった。抱きしめて、ぎゅうぎゅうに抱きしめて、もう離れることなどできないくらいくっついてしまいたい。それでも顔も見たくて少し力をゆるめると、そこにナルが顔を出した。痛くて苦しくて嬉しくて。それはそれは複雑な顔だった。
『殺す気か』
 チャットで伝えてきた言葉。
『一緒にいられるならそうしてもいいけど』
 ジーンはナルにキスをした。
『一緒に生きようよっ!』
 ジーンの顔を、ナルがまぶしそうに見返していた。
 ナル側のドアが開き、赤毛の男に、二人まとめて外に引っ張り出された。
 まとめてお姫様抱っこだ。ナルがチャットで痛いと訴えた。ジーンが声に出してナルが痛がってるから自分は降りると訴えた。ジーンはマーティンに抱きあげられ、そのまま二人して担がれたまま玄関まで運ばれる。ドアの前には、ルエラが待っていた。
 二人は、ルエラの前に降ろされる。
「やり直しね。ユージーン、オリヴァー。さあ、今日からここがあなたたちの家よ」
 ジーンはすでに一度経験していた。戸惑うナルに、ジーンは笑みを見せる。ルエラも、やわらかく微笑んで身をかがめる。
「帰ってきたら、なんて言うの?」
「『ただいま』だ」
 ルエラの問いに、ジーンが答える。
「そうね、ジーン。さあ、オリヴァー。帰ってきたら、なんて言うの?」
 ナルが、ただ立ち尽くす。本気でどうしていいかわからなくて。
『ただいまって言えばいいんだよ。声は出さなくていいから、口だけでも動かして』
 チャットで指導され、ナルは口パクでただいまと言ってみる。ルエラが、にこりと微笑んだ。そうして、二人まとめて抱きしめてくれた。
「おかえりなさい、ツインズ。お茶の時間よ」
 まるで、日常の続きのように。
 ルエラが、二人をデイビス家へと迎え入れた。
 麻衣は、ルエラがあまりに温かくて、泣いた。こんな涙ならいくらこぼしてもいいと思えた。
(ナルは、しばらくしゃべれなかったんだよ)
 景色が消えて、薄い闇の世界が広がった。
 ジーンの声。
(僕は何も知らなかった。今回、お互いの記憶が混じってきて、それで初めて知ったんだ。僕は単に、神父にひどい目にあったって、暴力を振るわれただけだとしか思っていなかった。僕を守って、言いなりになっていたなんて知らなかった)
 声だけで、姿は見えない。
(ごめん。一人じゃ受け入れきれなくて。送るつもりはなかったんだけど、流れちゃって)
(いいよ。・・・・・・ルエラと、マーティンが、二人の両親になってくれて、本当に良かった)
(うん・・・・・・)
 かみしめるような余韻に、麻衣は嬉しくなる。本当に、本当につらい過去だけれど。
 本当に、本当に、良かった。
(あの赤毛の人、エルって、マーティンは呼んでいたけれど。僕らが養子になるにあたってアメリカで活躍してくれた弁護士なんだよ、あれで。熱心なクリスチャンでもある。隣の教区の人でね。僕らがいた教会にいやな噂はあったけれど、証拠がみつからなくて。僕の噂を聞いて、留学時代の友人だったマーティンがアメリカに来ると聞いて、エルはマーティンをスパイに送り込んだんだよ。彼はすでにSPRの会員だったからね。マーティンは、養子を探しに行ったわけじゃなかったんだって。ナルはマーティンに会った時に、僕のふりをして僕を売り込んで、自分の存在はばれないようにしていた。僕にもナルのことを話すなって。まずは一人ずつここを出るんだって。僕がまずイギリスに行って、落ち着いてから自分のことを話せって。ナルの作戦はうまくいって、僕がマーティンの養子になることが決まった。僕の霊視能力も金づるだったから、マーティンはエルと二人がかりで半ば脅迫気味に僕を養子にしたんだよ。海を渡って、新しい暮らしになって。でも、落ち着く前にナルは神父に殺されることを選んだ。多分、ナルの計画通りに。僕は暴力に気づいて、マーティンに訴えた。マーティンはすぐにエルに連絡した。エルは即座に警官と自分の教区の神父を捕まえて教会に乗り込んだ。そうして、トランクの中から死にかけていたナルを見つけ出してくれたんだ。悠長に手順を踏んでいたら間に合わなかっただろうね。神父は逮捕された。ナルの記憶には事件の記録がある。カトリックの一大スキャンダルに発展したって、後でカトリックの勉強をしていて偶然、知ったんだ。僕は知らなかった)
 ジーンは、自分のために、と思いつつも、自分じゃなくて良かった、と思う自分も自覚していた。そんな気持ちがすべて、隠し事なく麻衣になだれ込んでくる。
(今、ナルは?)
(自分の過去を、まだ受け入れられないみたい。ちゃんと事実は覚えているし、自分の経験だって頭ではわかってるんだけど。心と体は受け付けない。そんな感じ。ちゃんとわかってしまうとPKが暴走するかも知れないから、制限がかかってるんだと思う。体が拒絶反応を起こしてる。ナルは自分が過去を拒絶しているって気づいてない。それに、僕と通じてないんだ、今。だから僕は今麻衣と話ができる)
 麻衣は、少し考える。
(じゃあ、あたしは起きなくちゃ。ナルを助ける)
 くすりと、笑う気配。
(麻衣は、ナルが好きだね?) (・・・・・・うん。ジーンのことも、大好きだったけど)
(うん、ありがとう。でも、僕は、麻衣にはいいとこしか見せてないよ?)
(そうだろうね。たまにまどかさんとかリンさんとかの話きくと、別人!? とか思ったし。でも、大好きだったよ)
(・・・・・・これからも、好きでいてよ。僕はナルと一緒になるし。もちろん、ナルのこともね)
(うん)
(きっと、ナルは少しは素直になるんじゃないかな。僕は馬鹿正直だって言われてたし。色々、お互い極端なところはあったから、うまく中和されるといいね)
 麻衣は笑う。ジーンも笑った。姿は見えないけれど、そんな気配が伝わってきた。
(じゃあ、起きるね)
(うん。じゃあ、ナルともども、よろしく)
(うん。またね)
(うん)
 会話が途切れる。そばにまだいるのはわかる。けれど、麻衣は目覚めようと意識を変えた。
 ナルを、助けなくてはいけない。
 色々なことを思い出す。
 ジーンの遺体が発見された日のこと。
 森林公園でキスをして別れたこと。
 暗い地下室でナルにキスをしたこと。
 アラレが降る公園で、泣き崩れるジーンを抱きしめたこと。
 自分の気持ちを考えたこと。
 ナルへの思いに気づいたこと。
 そうして、湖に花を投げ、ジーンへの思いを過去に変えたこと。
 どんな過去を持とうと。
(ナル、大好き)
 ずっとずっと、最初から。ジーンと共に、好きだった。
 そんな自分を知ったから。
 けれど、今さら言いだせず。だからと言って自棄になるのも違うし。
 だから、ただ、バイトをしながら、一緒にいた。
 これからも、就職して、時に一緒できればいいかと。
 でも、伝えたい自分もいて。
 ナルが、少なくとも自分を嫌っていないことはわかっている。
 だから・・・・・・。

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