麻衣は、ぱちりと目を覚ました。
ナルのベッドで。
西側の狭いベランダに面した掃出し窓が見えた。まだ、外は暗い。
目覚める前のこと。自分は、やらなければならないことがある。
起きて、ナルに会いに行こう。自分の部屋へ。
体を起こそうと体の下に敷いていたバスタオルの感触に気づき、そういえば生理で粗相してないよな、と、点検しようとして。
(へっ!?)
ベッドの手前半分に敷いたバスタオル。その向こうに。
(なんでっ!?)
向こう半分に、ナルが寝ていた。ジョンに言われたとはいえ勝手に借りたので、ちょっと遠慮して端っこに寝ていた。なので、確かに触れることなく二人眠れるスペースはかろうじてあったけれど。
(い、いつの間に!? どうやって!?)
麻衣の部屋で目覚めて帰って来たのだろう。ベッドを盗られていたので取り返したということだろうか? ベッドは部屋の角。麻衣は部屋側に寝ていた。足元から這い上がってきたのだろうか? それとも自分を乗り越えて? ナルが?
想像つかないっ! と麻衣はパニックになりかけ、はっと夢を思い出す。
体が拒否反応を起こしている、と、ジーンが言っていた。
こちらに背を向けたナルの頭が、汗に濡れているのがわかる。
枕はタオルをかけて麻衣が使ってしまっていたので、ナルは枕なし。頭の傍のシーツに触れると、濡れている。
眠りの、深いところにいるのだろう。すぐそばでベッドを軋ませても、目覚める様子はない。
そっと肩に触れてみると、パジャマもじっとりと濡れているが、冷えてしまっていた。掛布団なしで寝ているのだから、暑くて汗をかいたとは思えない。
(今は汗をかいてない。こんな冷たいの着て寝てたら風邪ひいちゃう)
「ナル・・・・・・」
軽くゆすって声を掛けても目を覚まさない。
更に強くゆすっても変わらない。
(どうしよう)
以前高熱で寝込んだ時は自分で着替えていたし、鏡の破片をかぶって着替えたときはぼーさんがいた。麻衣一人では無理だ。
麻衣はそっとベッドを降り、携帯電話を持って廊下へ出た。時刻は五時近い。申し訳ないけれど、ここは状況を知っているジョンに頼るしかない。
ジョンの携帯電話の番号へ架けると、長いコールの後、ジョンが出た。
長期間の仕事と長時間のフライト、更に結構飲んでから教会へ帰って。ほとんど寝ていないはずだ。とても疲れているはずなのに。
それでも、ジョンは話を聞くと、始発で行きますから、と言ってくれた。
麻衣は洗面所からタオルを持ち出す。ベッドに戻ると、ジョンの助言に従ってナルのパジャマのボタンをはずしてゆるめてから、背中にタオルを入れて仰向けに寝かせ直した。
頭の下にも枕と一緒にタオルを入れる。あとは、布団をきっちりと掛けてやった。
相変わらず、目覚める様子はない。
額に触れてみる。熱はない。体温は体も低めだった。
(とりあえず、あたしが寝てたから掛布団あったかいし。目が覚めたら温かいもの飲めるようにしておこう)
麻衣は再び、部屋を出て行った。
ナルを残して。
大勢の人々が、行きかう場所だった。
「前を見ろ」
そんな言葉が聞こえた。
車いすを押す男が立ち止まる。
ナルは、前に視線を向けた。無事だった片目で。
彼の前に、男が立った。
ジーンを連れて行った、彼が騙した、英国人だった。
「やあ、オリヴァー」
彼は、困ったように言った。
「自分の名前を、もう間違えちゃいけないよ?」
と。ナルがジーンのふりをしていたことは、バレたらしい。
「確かに、君たちはそっくりだね。すっかり騙された。君は本当に頭がいいよ。けれど、わからないこともあったようだね」
彼は、しゃがんでナルと視線を合わせた。
「私は、二人一緒に、引き取ることができる。君は考えなかったようだけれどね。もっとも、二人一緒だったらあの神父はどちらも引き渡さなかったかも知れない。今回の事件が発覚することもなかったかも知れない。他の子供達の身の安全も図れなかっただろう。恐らく、あの状況の中では、もっとも救われる人間が多い方法ではあったんだとは思うよ。君の大けがという代償の元、ね」
「おい、マーティン、大けがは甘いぞ。死にかけてたんだからな、本当に」
ナルをアメリカから連れて来てくれた男が、口を挟む。
「ああ、エル、君には本当に感謝しているよ。よくぞやってくれた。本当にありがとう」
「ああ、大いに感謝してくれよ。危うく俺が刑務所行きだ。大量の証拠と子供達の証言と、勇気ある隣の地区の神父の助けがなけりゃアウトだった。俺の人生もこの子の命もな」
「ああ。すべての人々に感謝する。オリヴァー。ユージーンが、お前が死にかけていると必死に訴えてね。おまえは兄弟がいることをしゃべるなと、彼に口止めしていただろう。誰も彼も味方ばかりを騙して。ユージーンが必死にお前とのつながりを説明してくれて、だから私はすぐにこの男、ひねくれ者だが頼りになる友人に即教会に乗り込むよう頼んだのだ。彼もよくぞ信じて行動してくれたと思うよ。大西洋を挟んで兄弟で会話できるなんて、誰が信じる? けれど、まず、私の妻が信じた。だから私も信じた。そうして、この男も信じてくれた。だから、君は今、生きてここにいるのだよ」
マーティンは、車いすからナルを抱き上げた。
彼は、ナルの顔をのぞきこみながら笑顔を見せた。
「まずは体を治そう。我が家でね。予約はしてあるから、一度病院に寄るよ? それから、家に帰ろう。ジーンが待ってる」
そばで、エルが空になった車いすを押して動き出した。
「エル、荷物を。今夜は歓待するぞ」
「ああ、せいぜい歓待してもらうさ。ユージーンとも話させてもらうぞ。奴がずっと黙ってたのもこの子の差し金か。まったく」
そう言って、台車などが置かれた一角へと車いすを強く押す。コロコロと進んだ車いすは、台車の脇の、壁にぶつかる寸前で自然と車輪の回転を止めた。エルはそれを見届けもせずにトランクをつかむ。片手にトランク、もう一方で車いすを押していたのだ。
エルの言葉に、マーティンはふふふ、と楽しげに笑った。目尻の皺が、若くないことを語っている。けれど、それはその穏やかな性格も、強い意思の力をも、物語っていた。
「オリヴァー、悪いが私もそう頭が悪い方ではないのでね。これからはそうそう騙されはしないよ?」
マーティンは、ウインクをしてみせた。
なんの下心もない、自分に向けられた、自然な笑顔。
初めて見る、大人の、自分に向けられた、好意的な笑顔。
ナルは、じっと見つめ返してしまった。包帯におおわれていない方の目だけで。
「さあ、ジーンと、私の妻の待つ家に帰ろう。弟と、母親のところへ。父親と、ね」
そう言って、彼は前を見据えて歩き出した。
つられるように、ナルも前を見た。
広く、遠くまでが見えた。
思わず、視線を巡らした。
天井も高い。そして、とても明るい。
エルが追い付いて来た。楽しげに会話を交わす二人。エルは無理やりマーティンを方向転換させる。そうして、外に出た。
「ほら、坊主。これがイギリスの空気だ!」
マーティンの腕に抱えられたまま。
建物から数歩出ただけのところ。
天気は良くはなかった。曇り空なのに、広く、とても広く。そして、明るかった。
「しばらくは片目だが、ようく見ておけ、新しい世界だ。そっちの目が治ったら、あちこち連れてってもらえよ? お前の知っている世界はとても狭いものだった。これからおまえが生きる世界は、とてつもなく広い! 覚悟しておけよ!」
殺されるしか道はないと思った。
なのに、今はこんな明るくて広い場所にいる。
世界は広いと言う人と。
優しい目線で見守る人と。
「さて、駐車場へ行こうか。車からもよく見ていなさい。広いけれどね、それでも、これから君が生きていく世界の、ほんの一部だよ」
三人は、再び空港内に戻った。駐車場へ向かうために。
空港内も広く、明るく、そして大勢の人がいて。
それぞれがそれぞれの表情で、目的に向かって歩いていた。
たくさんの笑顔が、そこにはあった。
ナルは、目を覚ました。日本のマンションの寝室。いつものベッド。
イギリスへ渡った、一日目。
エルに連れられて、マーティンに迎えられた。
あの時。過去は、過去になった。
うっかり思い出しそうになっても、嫌なことはできるだけ抑え込んでいた。
事実を覚えてはいたけれど。
向き合ってはこなかった。
(ジーン)
声を掛けると、気配だけ伝わってきた。
(どうだった? 僕の、アメリカでの過去は)
返事はない。
何も言えない。受け止めきれない。そうだろう。
自分でさえ、そうなのだから。
(あれが、この体の過去だ。感染症の類の検査は受けた。向こうもそのために高い金を払っていたんだろうな。相手は一人だったし、病気も持っていなかった。どこの誰だかは知らない。神父は逮捕されてからも相手について沈黙を守り通したからな。教会の客は彼一人だったようだ。僕の前の子たちは神父に逆らって殺されたけれど、客の側は病気を持っていない手つかずの子供なら男でも女でもいいし、新しくなる分には文句を言うこともなかった。僕はあのトランクから、死んだ子供たちがどんな目にあったか見たけれど。自分の能力をよくわかっていなかったから、なんの証言もしていない。気づいていた他の子供たちが警察に話して、警察が遺体をみつけだしたらしい)
そうして、大事件に発展した。その頃には、ナルはすでにイギリスに渡っていた。裁判の類にも出なかったし、警察に聞かれたのもアメリカにいた間だけだった。ナルを事件の影響から守るためだったのだろう。
(僕は、相手が男でも女でも、自分に性的関心を向けられることに嫌悪感がある。おまえはよく女の子の話をしていて、僕のことを変だと言っていたけれど)
(・・・・・・悪かった)
(構わない。同じである必要はなかった。おまえの経験ではないのだから)
自分だけの。ジーンには味あわせたくなかった、経験だ。
(僕は、ナルに守られた)
固い調子で、ジーンが言った。
(ナルは、僕を守り切った)
(・・・・・・おまえは、僕の幸せになりたい部分だったから)
(・・・・・・)
二人は一人になるという。もとより、一人だ。
体は二つあったけれど、二つの人生だったけれど。
自分の半身に幸せの部分をまかせて、それで満足していた。
(僕は守りたかった。自分勝手に。おまえに守られる立場を押し付けた。そうと知らせもせずに。おまえが霊視をしてつらい目にあった時には、馬鹿だと思った。おまえはそんな思いをするべきじゃなかった。そんなのは僕の役目なのだから。おまえが笑っていられないのであれば、僕はあんなことには耐えられなかった。おまえが笑っていられるようにするには、あそこから出さなければならなかった。ようやく出したら、お前の笑う顔を見ることができなくなった。離れ離れにわざとなったのだから、当たり前なのに。・・・・・・なのに、僕は耐えられなくて、殺されようと思ったんだ)
ナルの告白には、長い沈黙があった。とても、長い。
ナルは、ただ、様々な出来事を思い出す。ジーンが、泣いたり、笑ったり、困ったり。
自分が怒ったり、傷ついたり、苦しんだり。
(・・・・・・僕は、ナルを幸せにできたのかな?)
自分が笑うことで。イギリスでの新しい人生を楽しむことで。
(ああ。僕はそれだけで、満足だった)
幸せも、思春期の楽しみもすべて、ジーンが体験してくれれば満足だった。
ナルは自身の探究心を満足させる方へ向かった。年相応の楽しみには背を向けて。
(でも、僕はもう、死んじゃったね)
(おかげで、僕も困っている)
だから。
(体が一つじゃ、やれることに限りはあるよ?)
(仕方がない。少しは楽しみに使わせてやる)
(ありがたいね)
くすくすと、ジーンが笑った。
(ねえ、僕は麻衣を気に入っているけれど、ナルもだよね)
(おまえの身代わり、だな)
(ナルの、幸せになるべき部分? ずいぶん愛が深いねえ)
楽しそうにからかわれても、ナルはただ受け入れていた。
(麻衣も、僕たちを好きでいてくれてる、って。僕も信じているよ)
(・・・・・・ああ)
足音が聞こえる。軽い、忍び足の、麻衣の足音。
(麻衣の幸せが、ナルの幸せなら。・・・・・・僕と一緒になる前に、きちんとお互い、気持ちの整理をしておいてね。後で問題にならないように。しっかりね)
そっと、部屋のドアが開かれる。