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声2(2002.1.12)

 ふぅ、と、麻衣は大きく息を吐いた。
 たゆたう湯煙が流れる。吐いたかわりに息を吸い込むと、温泉の香りが鼻腔と咽喉をくすぐってゆく。自然、笑みが浮かぶ。
(ああ、温泉だぁ〜〜〜〜〜)
 もうじき日付が変わる、という時間になって、ナルがようやく本を置いた。その閉じる音で眠りから覚めた麻衣は、風呂支度をする ナルにねだって女風呂の前まで連れて来てもらったのだ。温泉宿に来て、入らずに済ますのはもったいなさすぎる。おまけに、麻衣の 怪我はここの温泉の効用にぴったり符合するのだ。ナルも、さして文句を言わずに連れ降ろしてくれた。
 それほど広くはない風呂場だったが、それでも内風呂の洗い場は六人分あるし、それくらいの人数が一度に浸かれる広さがある。 奥には露天風呂に通じるガラス戸。そこは、あまり広くないようだったし、何より寒かったので、麻衣は体を洗うと内風呂に 浸かった。
(う〜ん、極楽極楽)
 ほとんどご縁のない温泉。しかも、連れ合うことなくゆっくりと浸かるのは初めてだ。男風呂の方は明かりを点けて入って行って いたので誰もいなかったのだろうが、女風呂には先客がいた。しかし、麻衣が体を洗っているうちに露天風呂の方へ行ってしまった ので、麻衣はのんびりと広い湯船に浸かっていられた。
 内風呂は、二方向がガラス張りだった。
 一方は露天風呂につながり、仕切りが見える。その向こうは男風呂なのだろう。正面のガラス張りの向こうは、一面の葦が原。 背の高い葦がライトアップされ、幻想的な風景を見せている。
(う〜ん、綺麗〜〜〜)
 惚れ惚れとひたっていると、露天風呂から先客が戻ってきた。随分早い。露天の方へ行っていたのはほんの五分ほどだろう。彼女 は再び、麻衣の浸かる内風呂に身を沈めた。
「外、寒いんですか?」
 雪こそ降っていないものの、積もった雪が融けずにあることからも、外気温は察せられる。それでも、麻衣はあえて尋ねた。寒さ 以外の理由に備えてのことだ。
 話し掛けられたことに驚いた女性は、ワンテンポ遅れて首をかしげ、言った。
「寒い、けど、お湯に浸かっていればそれは大丈夫ですよ。露天、行くの?」
 見れば、女性は二十代半ばくらいに見える。雪焼けした様子からして、スキー客なのだろう。麻衣を年下と見て、気安げに問い返して くれた。
「うーん、そうですね、せっかくあるから、行ってみようと。けど、随分早く上がって来られたんで何かあるのかなーって、ちょっと 心配になって」
「うん・・・・・・。あのね、気のせいに決まってるんだけど、ちょっと、あの、葦がね。ざわざわ言うのが気になってね。怖くなって 早々と戻って来ちゃっただけ。特別何があるってわけじゃなかったの」
「そうですかあ。んじゃ、あたしもちょっと、行ってきますね」
 麻衣は内風呂を出ると、膝の痛みからぎこちなく露天風呂に通じる戸に向かう。
「足、どうかしたの?」
 問われて、麻衣は転んで膝を打ったのだと笑って言い、露天風呂へと出た。
 急に、空気が冷たい。タオル一枚持っただけの体が一気に冷える。麻衣は、慌てて露天風呂に沈んだ。肩を出したままでは寒いので、 首までしっかりと浸かる。それから、外の景色に目をやった。
 直に見る葦が原は、ガラス越しに見るよりも生っぽい。わずかながら雪をまとわせたそれが、幽鬼じみて見えた。
 ゆるい風に、葦が揺れる。ざわざわと吹かれる音が、水っぽく、重い。不吉さを思おうと思えばいくらでも思える。
(枯れ尾花・・・・・・だな)
 悪鬼の気配はない。麻衣は、ほうっと息をついて湯の中で体をなでた。
 かすかに、背にする竹垣の向こうから、湯を使う音が聞こえた。
「ナル、いるの?」
「・・・・・・なんだ?」
 しぶしぶ返事をした、という風の声が聞こえる。麻衣は、くすりと笑んだ。
「いいねえ、ここ。狐が出そう」
 葦の色合いが金色の狐を連想させる。つまらなかったのか、ナルの反応はない。
「・・・・・・ねえ。ジーンは、ここに泊まったの?」
 ナルが、ジーンの遺体が投棄された湖からやや離れたこの地に滞在する理由は、そういうことなのではないか。
 面と向かっては問えないことを、竹垣越しに麻衣は尋ねた。
「いいや。奴が泊まったのは、バス停前のホテルだ」
「満室だったの?」
「同じところに泊まりたいとは思わなかった」
 一呼吸おいて、ナルは更に語る。
「たどる必要はない。僕はただ、あの場所をもう一度訪ねたかっただけだ」
 ナルの言う『あの場所』とは、どこなのか。
 麻衣にとってのジーンに繋がる場所は、彼が湖に投棄された現場だった。
 けれど、ナルの言う場所は、そことは違う。そう、感じた。
 それは、恐らくはジーンが死を迎えた場所。
 この温泉地から投棄された湖とを結ぶ、どこかの地点。
 麻衣は、目を閉じる。ジーンが車に撥ねられた光景を、見る。ゆるいカーブ。見える景色。膝の痛みや恥ずかしさ、なさけなさで ろくに周囲を見ずにここへ来た麻衣には、どこがその現場だったのかわからない。けれど、それは、この近くにあるのだ。そう、 感じた。
「犯人、探すの?」
「いや」
 もう、何年も経っている。現場から、ナルの能力で犯人を探すことももはやできないだろう。
「奴のドジだ。捕まえたって、生き返るわけじゃない」
 そういう問題ではないとも思う。が、生き返るわけじゃない、というのは本当のことだ。ジーンに幾度出会っても、彼が犯人を 恨む発言をしたことはなかった。麻衣は、湯で顔を洗う。顔を濡らした湯が冷めていくために、濡らす前よりも顔が冷えていく。
「あたし、ジーンにお別れを言ってきたの」
「・・・・・・」
「今でも、好きだよ。ジーンのこと。けど、こだわるのはやめようと思ったの。ずっと好きでい続けようとこだわるのはやめようって。 多分、ジーンのためにも、自分のためにもならないから。だから、ここに来たの」
「・・・・・・奴は、ただの方向音痴の霊だ」
 麻衣は、くすりと笑う。ジーンは好き好んでこの世に留まっているわけではない。方向を誤らせた最大の原因は、双子の弟、ナルの 存在だ。調査時にしか現れなかった彼も、今はそんな弟の発言や、麻衣の言葉を聞いているかも知れない。
 そう。彼は、麻衣が出会った最初から、死者だった。麻衣に誤解させたまま、麻衣の心を捕らえた。ひどい男だ。それでも、そんな 彼に恋した自分を、麻衣は好きだった。だまされた自分が。
「そうだね」
 会話が途切れ、葦の揺れる音が一帯を占める。葦の向こうの闇にも、彼はいない。もっとも、いたら痴漢だな、と、麻衣は一人 微笑んだ。
「十分後に、廊下で」
「あ、うん」
 湯船から上がる音がして、ナルが内風呂に戻ってしまった。麻衣も、中へと戻る。先客はいなくなっていた。麻衣は、また内風呂に 浸かりなおし、シャワーで湯を流してから脱衣所へと戻った。すると、先客が浴衣に着替えていた。
「大丈夫だった?」
 彼女は、ドライヤーのスイッチを切って尋ねてくる。
「大丈夫です、何もいませんでした」
「そう? 話し声が聞こえたから、幽霊と話してるのかと思っちゃった」
「まっさかあ。隣りと話を・・・・・・」
 しまった、と麻衣は笑みをひきつらせた。
「ああ、彼氏と来てるんだ。あたしも連れがいたんだけどねえ、今日帰っちゃったのよねえ。明日仕事だーとか言っちゃってさあ」
「え、あ、そうなんですか・・・・・・」
 男と二人で泊まっているということは、全然『しまった』に値しないらしい。しかし、誤解は解かねばならない。
「あ、でも、私のは彼氏じゃないです」
「ん? 兄弟とか?」
「いえ、えーと・・・」
 職場の上司、とも言えず、麻衣はどう説明したものか思考を巡らす。そうして、思いついた。
「あ、あのですねっ!」
 麻衣は、簡単に事情を話し、女性の部屋に泊めてもらえるよう頼み込んだのであった。

「助かりましたー。ありがとうございます」
 偶然にも、彼女はナルの隣りの隣りの部屋だった。麻衣が寝ていた布団と荷物を女性とナルが運んでくれ、ナルが立ち去ると、麻衣は ようやく安心して笑顔全開で女性に頭を下げる。
「どういたしまして。ね、風呂上りのビールといかない? ちょっと教えてよー、さっきの彼、何? 上司って、随分若いんじゃない の?」
「え? あはははは・・・・・・」
「笑ってごまかしてんじゃなーい。ほらほら、ビールでいい? 水割りもあるよ。酒以外はいやよ?」
「あ、ビールでいいです、ありがとうございます」
 結局、麻衣は諸事情を話させられた。もっとも、ジーンのことや、仕事の内容など、ごまかしたいことは追及しないでもらえた。 どうやらそれは、彼女が、ナルと麻衣の関係、そしてナル自身に興味があるからのようだった。
「上司と部下で、部屋がないからって同室ねー。でもそれって普通さあ、o.k.てことだよね?」
「はい? 何が?」
「えー? 赤の他人の男女が同室で、その気ないってことないでしょうよ。麻衣ちゃんは、ともかく、彼氏はその気だったんじゃ ないのー? 悪いことしちゃったわー」
「そ、そんなこと絶対ありません〜〜〜!!」
「なーに言ってんの、はっきり言って、男なんて女なら誰でもいいのよー。若かろうがフケてようが、それどころか、いざ飢えたら 獣姦でもいいって話も聞くわよ」
「あいつに限ってそんなことはないです〜〜っ!!」
(じ、じゅうかんって・・・・・・)
 漢字変換できた自分を罵りたくなってしまう単語だ。
「あらあら。でもさあ、不能ってわけじゃないでしょう、彼。男にとっちゃあ、恥でしょう、 あれって。企業戦士に多いって聞くけど、若いのにそんなストレス山ほどってことないでしょうし。彼に限ってないなんて、馬鹿に してるようなもんじゃない?」
「そ、そういうつもりでは・・・・・・。少なくとも、あたしは、そんな対象に見られてないと思います。どっちかっつーと、馬鹿に されているのはあたしの方で」
「だからあ、男なんて女なら誰でもいいんだってば。そうでないなら不能かホモよ。二十歳過ぎてその認識はちょっと甘いわよ?」
「そ、そうでしょうか・・・・・・?」
「そ・う・で・す。まして、こんな雰囲気ある温泉宿でさあ。それで一室に男女二人でこもって、その気にならなかったら異常よう。 第一、そんな気なかったー、なんて、その状況で言っても誰も信じないわよ? 麻衣ちゃん」
「はあ、それは、はい、同感ですけども・・・・・・。でも、奴に限ってそれは絶対ないです〜〜っ!!」
「じゃあ何? 彼、ホモ?」
「いえ、そういうわけでは、ないと・・・・・・」
 女より男との距離が近いようにも、普段観察していて思えない。大学で山とカップルは見ている。やはり、一線を越えたと言われる 男女は日常での距離も普通と違うので、なんとなくわかるものだ。けれど、ナルにはそれが見られない。長年の相棒たるリンでさえも 麻衣と大差ない距離感だ。もっとも、ナルとリンという組み合わせでうにゃうにゃがあるとは想像できないししたくもないのだが。
「んじゃ、不能?」
「あー、いえ、その、知りませんけど・・・・・・」
 可能性は、あるかも知れないけれど。
 ナルの能力、サイコメトリ。彼の見た事件の被害者の中には、性的被害に見舞われた者もいただろう。それゆえに、ということが ないとは限らない。
「あのねえ、男の性欲ってのは強いもんなのよ。女だってフェロモン出しまくって男の関心ひきつけようとするのは性欲 よ。種の保存よね。倫理だの品位だの社会的評価より動物的本能よ。そしてそれは優先されてしかるべきものだわ。今は本能を抑える ほど人間として優秀だって評価もあるけどねぇ。そんな人間、お勉強の世界ならともかく、有象無象の人間にとっちゃあなんの魅力も ないお馬鹿さんよ?」
(その、まさに学者馬鹿なんだけどなあ・・・・・・)
 ナルに言わせれば、まったく逆のことを言うだろう。本能を抑止することもできないただの馬鹿、とか。
(性欲どころか、食欲や睡眠もいい加減だし)
「女を一目見たらまず性的魅力をチェックする。それが普通の男よ。触り心地にベッドテク、喘ぐ姿まで想像してから『コンニ チハ』とにっこり笑う。そういうもんだと思ってなさいよ。麻衣ちゃん甘すぎよ。まずヤルことを考えてんだから、 男信用したって強姦された上に和姦だって言い触らされるのがオチよ? 気をつけなさいな」
「えっと、はあ、はい、ええと、肝に銘じておきますぅ」
 ナルと同室でいるよりはと思ったけれど、早まったかもしれない、と、麻衣は密かに思った。
「まったくもう。麻衣ちゃん、処女なんでしょう? その分だと。何か夢持ってる? 白馬の王子様〜なんて考えてないでしょうねえ」
「いえ、馬は道路走れないはずだし・・・・・・」
「逃げ出して高速道路走った馬もいるけどね。そもそも、結婚して子供造って〜っていう幸せ物語だって、必ずセックスはつきものなん だからね。処女懐胎なんて馬鹿な夢もってたら、蹴り出すわよ?」
「いえ、仕組みは、わかってます、はい」
 いっそ蹴り出されたいと思いつつ、麻衣は身を引きつつ答えた。
「そう? 良かったわ。まあ、処女懐胎っつったってさー。結局、子供に処女膜破られるわけじゃない? かえって背徳の香りがする 感じだわー」
「・・・・・・・・・・・・・」
 もはや、コメントもできない。麻衣は言葉をなくし、代わりにビールを煽ってごまかした。
 もちろん、仕組みは知っている。男女が何をして子供をつくるか。そのプロセスも知っている。ただ、実践経験がないだけだ。
(もしかして、あたしって、希少価値?)
 結局、麻衣は女性に男性の性的機能や本能について教え込まれている途中で、詰め込まれる知識の偏り具合とそれに対するために 煽り過ぎた酒によって、ダウンした。

 麻衣の朝食は、前夜と同じくナルと同じ卓に用意されていた。
「・・・・・・二日酔いか?」
 女性の性質を見抜いていたのか、箸の進まない麻衣を見て、ナルが馬鹿にしたような視線を寄越す。
「そんなに、飲んでない・・・・・・」
 悪酔いしたのだ、とも言えず、麻衣は半分ほどを残してひたすら茶を飲んで朝食を済ませた。
「十時に駅まで送る便が出る。それに乗って帰れば?」
 今朝は、すでに壁に張り付きながらも自力で階段を降りられる程度に怪我は回復していた。
「ナルは? まだいるの?」
「明日までの予約。明後日は仕事に出る」
「・・・・・・じゃあ、先に帰るね」
 泊めてくれた女性は、朝食が済んだら早速スキー場へ向かうという。麻衣の布団と荷物は食事の前にナルの部屋に戻してある。少し ゆっくりして、それから、麻衣は一足先に、帰る。
「もう一回、お風呂入っておこうかなあ」
 暗闇にライトアップされた葦が原の風呂。朝の様子を見てみたい。
「一人で歩けるか?」
「うーん、ちょっと大変だけど、多分」
「食べてすぐだと溺れるぞ」
「十時に間に合うくらいに入るよ」
「じゃあ、つきあってやる」
 お茶を飲みながら、ナルが言った。
「うん。ありがとう」
 答えながら、麻衣は、夕べ言われたことを思い出す。
『赤の他人の男女が同室で、その気ないってことないでしょうよ。麻衣ちゃんは、ともかく、彼氏はその気だったんじゃ ないのー?』
 もしかして、あの極端な女性の言うことを話半分に採用したとしても、そういうことがありえたのではないか。
(まさかね)
 朝風呂に浸かって二日酔いを払い、麻衣は送迎バスに乗って帰路についた。
 明後日にはまた、事務所でナルに会える。けど、皆には、今回のことは内緒にしておこう。
 そんな思いを抱いて。

 夜、0時。
 ナルの部屋をノックする音がした。
 戸を開けると、麻衣が世話になった女性が立っていた。
「こんばんは」
 そう言って、携帯電話をナルの眼前に突き出した。
「麻衣ちゃんから。忘れ物ですってよ」
 携帯電話の画面には、メールによる文字。

『夕べはお世話になりまし
た。見ず知らずの私を泊
めくれてありがとうござい
ました。なのに更に申し訳
ありませんがカオリさんに
お願いです。
彼の部屋に忘れ物してし
まいました。よりにもよっ
て夕べ話したアレです〜。
見られないうちに処分して
下さい!お願いします(> <)
谷山麻衣』

「『アレ』が何かは追及しないでね。入ってもいいかしら?」
 にーっこり笑んで、カオリが部屋の戸を更に開く。
 ナルはため息を落とすと、身を引いた。
 彼女が早速トイレのノブに手を伸ばす。スペースがないため、ナルは襖の内に戻っていった。カオリは同じ理由でトイレのドアを 開けるために部屋の扉を閉める。
 予定通りに。
 トイレのドアを閉めると、カオリはそうっと、音をたてぬようにして、部屋の鍵を閉めた。

 もうすぐ、桜が花開く。寒風にさらされながらも日に日に膨んでいく、通りの桜の 蕾に顔をほころばせ、麻衣は道玄坂を下って行った。
 向かいから、ナルが歩いて来るのが見えた。今日は部屋にこもっているという話だったのに、論文に一段落ついたのだろうか。
「谷山、昼休憩です」
 こちらに気づいて顔を上げたところに、手を上げて言う。ナルはただ軽くうなずいてすれ違おうとした。
「ねえ、あたし、これからカオリさんに会うんだけど。ナル、どうする?」
 ナルが、怪訝そうな顔をして足を止めた。
「カオリさんて、ほら、お宿であたしを泊めてくれた女の人。東京久しぶりに来て、新幹線の時間までつきあってって電話あったの。 ナルにも会いたがってたよ?」
「勤め先を教えたのか?」
「教えてないよー。今どこにいるかって訊かれて、渋谷って言っただけ。あいにく、べらべらしゃべれるトコじゃありませんから ねー。携帯の電番交換したけど、連絡あるとは思ってなかったんで、なんかなつかしくなって。ちょっと行って来るね、お昼だけで 勘弁してもらって戻るから」
 当然、来るはずのないナルに軽く手を振って、麻衣はさっさと再び坂を下り始めた。その背を、眉をひそめたままナルが見送って いることに気づくこともなく。そうして、待ち合わせ場所の店にカオリの姿をみつけた。
「お久しぶりですー」
 さすがに、真昼間の混みあう店であの夜のような危ない話題は出てこない。麻衣はカオリと楽しく語り合い、昼休みの終了時間が 迫ってきたことを理由に店を出た。
 新幹線が出るまでまだ時間があるけれど、東京駅に行くというカオリを、渋谷駅まで送る。
「麻衣ちゃん、彼とはその後進展ないの?」
「ありませんよー、ただの上司ですってばぁ、もう」
 最後の最後で、ナルの話題が出てきた。わざととって置いたのだろう。ナルにも会いたいから連れて来いと言っておきながら、 一人で来た麻衣にこれまで何も言わなかったのだから。
「ごめんなさい、彼、忙しいみたいで連れて来れなかったんです」
「あはは、忙しくなくても来ないタイプでしょう、彼?」
「えへへ・・・・・・。す、すみません」
 嘘がバレバレだ。麻衣は笑ってごまかしかけ、慌てて頭を下げた。これに対し、カオリは声を上げて笑いだした。
「麻衣ちゃんが謝んなくていいわよぅ。そうよねえ、会いにくいわよねえ。うふふ」
 意味ありげな言い様に、麻衣はカオリを見上げる。カオリはにやにや笑いながら、麻衣に携帯電話を見せた。
「麻衣ちゃんに教えた電番。これ、プリペイド携帯なの」
「あ、そうなんですか」
「もちろん、普通の携帯も持ってるんだけどね」
 にっこりと、鞄からもう一台の携帯をのぞかせる。意図がわからず、麻衣は首をかしげた。
「麻衣ちゃんの電番はプリペイドの方に入ってるだけで覚えてないから、安心してね」
 そう言って、カオリはプリペイド携帯電話を持った腕を振り上げる。
 振り下ろされた手から電話は投げ出され、二人の足元で砕け散った。
 驚く麻衣の靴に、携帯電話の電池が滑ってきてぶつかった。
「これで、連絡手段は無くなったわ。だから、安心してちょうだい。麻衣ちゃんとはもちろんのこと、彼と連絡をとることもできないわ。 だってあなた、彼のこと何も教えてくれないんだものね。勤め先もわからなかった。これ以上ナアナアするよりは、他の遊べる男探す ことにするわ」
「・・・・・・は、はあ」
「麻衣ちゃん。彼、ホモでも不能でもなかったわよ。会ったばかりのその後縁がないだろう女と寝れる、普通の男だったわ」
「・・・・・・・・・・・・」
「財布にコンドーム入れとけって言ったでしょ、私。彼と寝る予定なら、大きめのを忍ばせておいた方がいいわ。おかげで生でヤッちゃ ったけど、私病気持ってないから。ちゃんと検査してあるから大丈夫よ。そんなわけで、今後二人きりになるときは、ちゃんと襲われる 覚悟でいなさいね。じゃあね。永遠に、さようなら」
「・・・・・・・・・・・・」
 カオリは、立ち尽くす麻衣に笑顔のまま手を振り、去って行った。
 麻衣は、しばらくの間、彼女の言葉を頭の中で反芻し続けた。少しずつ、その言葉を理解していった。
 そうして、道玄坂に向かった。
 昼休み、間に合わなかったな、と、思いながら。

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