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一夜(2016.9.11)

「よっしゃ、完了っ」
 麻衣は炊飯器をセットすると、スタンドの灯りをつけて部屋の照明のスイッチを切る。
 只今の時刻、十一時十分。目覚まし時計のスイッチを入れる。頭の上の棚には、両親と、ジーンとナルの写真が置いてある。
 そちらをちらりと確認してから、ぽふんと枕に頭を落とし、スタンドの灯りを消す。
「おやすみなさい」
 写真立てに挨拶をして、目を閉じる。
 すぐに、おだやかな眠りが訪れた。

 それは、突然だった。
 駅からナルのマンションまでは、歩いて十分とかからない。
 事務所で書いていた論文のきりが悪くて、遅くなってしまった。
 健全な店はすでに閉まっており、駅周辺の酒を置いているあらゆる種類の店は開いていたが、五分も歩かずに住宅街になる。小さな商店は自動販売機と看板が明るいだけ。戸建住宅は高い塀に囲まれ、集合住宅も一階は同様か、明るいが人気のないロビーか駐車場。十一時過ぎともなると、すれ違う人もなく、車もほとんど通らない。
 歩道はないが、かろうじて車両の交互通行は可能、という道の右端を、ナルは歩いていた。車道側に荷物を持たない習慣は子供の頃からついている。
 なので、ありえないはずだった。
 背後から接近する車の音は聞こえていた。
 日本は車は左で人は右。道路幅もあるし、右を歩くナルと左を走る車とは当然距離が開くはずで、しかも車は減速しているようだった。車道側に荷物を持っていないのだから、窓から荷物を奪うために寄ってくることもない。
 なのに、何故か車が右寄りに背後から近づいていると、ナルは気づいた。
 とっさに、背を向けたまま塀にぶつかるほど右に避けた。
 振り返る余裕はなかった。
 踏み切った左足が車に跳ね上げられる。ナルは民家の塀にぶつかり、車と塀の間に体が落ちた。
 車は車体半分ほど進んで急停止する。ナルのすぐ脇で、スライドドアが開く音がした。
 そうして、バチッと電気が体を走る。スタンガンだ、と瞬間思ったが、ナルは転倒から顔を上げる暇もなく、意識を喪失した。

 体の痛みで、目が覚めた。
 わずかに明るい。床はコンクリート。部屋の広さは三メートル四方より小さいくらい。囲われているだけで、天井はぱっくりと開いていた。どこか遠くに灯りがあるようで、上の方はわずかに明るいが、下の方は真っ暗よりは見える、という程度。間近の床の上に人らしき塊が二つ。ナルと同じように、床に転がっていた。
 横になったまま更に気配を探る。やけに静かだ。おそらく、まだ夜なのだろう。それにしても、車の行き交う音も人の声も聞こえない。都心から離れているのか?
 二つの塊のほかに、人の気配はない。その二つはどちらも、意識があるようだ。荒い息遣いが聞こえる。
 ナルは、自分もいつもより呼吸が深く回数も多いことに気づく。痛みのせいだ。車にぶつけられた。左足は大腿部からふくらはぎまで強い打撲。大腿骨や脛骨は大丈夫だろうが、腓骨も無事かはわからない。右肩も塀にあたった時に強打した。右側頭部もだ。更にアスファルトに落ちた時に右腕と腰を打っている。
 全身打撲、か。
 ナルは、左を下にしていた姿勢から、仰向けに体を動かす。痛みに息をつめるはめになったが、それで、自分がドアの近くに転がされていたことがわかった。
 出入口はそれだけ。内鍵は閉まっている。外から閉めたのだろう。この場の三人を閉じ込めているのだから、当然、外側には別の仕掛けがあるはずだ。
 ナルは、右の指先に意識を軽くこらす。
 以前にも、同じように閉じ込められた人々がいる。男もいれば女もいる。人数はどれも三〜四人ずつ。性別ごとに。女は十代から二十代前半。男は全員、十代後半から二十歳程度だ。
 深く意識が潜らないように読み取った情報からすれば、この半月ほどの間にこれらのことが繰り返されており、延べ人数はナルたちを含め六グループ二十二人。
 その前はこの壁はなかった。部屋をつくる工事前の光景は、ここが倉庫の一角であることを教えてくれている。出入りするフォークリフト、梱包された物資、大きな戸の向こうは、障害物がほぼない。恐らく、目の前は港だ。
 攫われてきた少年少女たちは夜が明ける間もなく、部屋から引き出されていく。
 最初の方の人々には暴れる者がいた。中盤はぐったりしていて、歩けない者もいる。前回と前々回は、足を引きずって歩かされていた。拉致する方法や保護している間の対応を、変えていったらしい。
 場所の記憶だけでは、彼らがどうなったのかわからない。物ではなく場所を見るのは、その場が殺害現場であるとか、よほどのところでない限りは、その場の誰かのその場での視覚程度しか拾えない。それでは、自分たちがこれからどうなるのか、がわからない。
 頭を巡らせると、扉の蝶番の近くに小さな塊が見えた。
 ナルは左を下に、体を横にする。少し体をひきずって、左手を伸ばしてそれをつかんだ。
「何、してんだ?」
 倒れていた二人の内の一人が、息も荒く尋ねてきた。
 ナルは返事を返さず、手の中の物を見る。革製のキーホルダー。何か刻印されているようだが、それは暗くて読めない。鍵は家の鍵のようだった。
「怪我、してる、よね? 動けるんだ」
 別の声が聞こえる。ひどくかすれている。どちらも男だ。そして、若い。今回は三人で終わりなのか。静かなところをみると、四人目を捕まえに行っている可能性もある。
「家の鍵が、落ちてる。革のキーホルダー。誰か、落としたか?」
 ナルは、男たちに背を向けたまま尋ねた。体の向きを直すと、またひどい痛みに襲われるのがわかっているから。
「俺のじゃあないよ」
 かすれた声の男が言う。
「俺も違う」
 もう一人も答えた。
「じゃあ、前にこうして閉じ込められた奴のだろうな」
 ナルが言うのに、かすれた声の男が身を起こしながら言う。
「前って、こんな人さらいが? 聞いたことないよ?」
 こちらは、たいした怪我ではないようだ。
「おまえ、て、人が増えると面倒だね。名前教えてよ。俺は佐々木昴」
「・・・・・・鈴木、真佐人」
「渋谷一也、だ」
 昴は足を伸ばして座った。いてて、と呻きつつ。ナルも、体を起こす。痛みはあったが、右腰と左足にできるだけ気をつけて、なんとか壁に寄りかかった。真佐人は転がったままだった。
「一也君、それ、どんなの? ここに連れてきた連中の落し物じゃないの?」
「さあ。・・・・・・あなたたちは、モテる方ですか?」
 突然のナルの質問に、二人はしばし沈黙する。
「・・・・・・ああ」
「うん、まあ、ね」
「家族は?」
「今は一人暮らし」
「俺も」
「僕もだ」
 警察が事件性があると判断しにくい人間を選んでいる。目をつけた相手を軽く調べるくらいのことはしているのだろう。発覚を遅らせ、足がつかないように。
「計画的だ。逃げた方がいいだろう。今すぐ」
 息を切らしながら、ナルは独り言のように言った。その方がいいのはわかっている、が。
「でも、どうやって?」
 昴が呆れたように言う。
「一也君を入れる時、なんか音が二つしてから開いたんだよ、そのドア。鍵以外にも、かんぬきかなんかあるんじゃないかな」
「そう。もう一人連れてくるから、おとなしくしてろって、言ってた」
 真佐人も、動く気はないと言わんばかりに床に張り付いたまま言う。
 だからと言って本当におとなしくしてる奴があるか、と、ナルは思う。が、協力して脱出する必要があるので、言うのは我慢した。
「怪我の具合は? 歩けるか?」
 訊くと、先に昴が答えた。
「両足、いてぇけど。車に軽くぶつけられて、ボンネットで背中打った。ゆっくりなら、自力で歩ける」と。
 真佐人は、苦しげに言う。
「俺は、骨、やばいかも。ぶつけられて転んだところを、左の足首、タイヤに乗り越えられて。すげ、きしむ音聞こえた。腰も、やな感じに捻った。動けるか、わかんねえ」
「・・・・・・そうか」
 言うと、昴が、怒ったように返す。
「お前はどうなんだよ?」と。
「さあ。多分、骨は無事。左足車にすくい上げられて右から落ちた。立てれば、歩けると思う」
「は。なんだってこんな目に」
 真佐人が、自棄気味に呟く。
「どうしたいってんだあの連中? いいとこに売り飛ばす? それとも臓器でも抜かれんのかな?」
「さあ。どちらかというと、売り飛ばされて奉仕させられる方だろうな。臓器なら顔は関係ないだろう」
「それって、女にだよね。年寄りとか?」
「男だろう」
「冗談だろう!?」
「傷害に監禁だ。楽な想像はしないことだな。奴らは何人だ?」
「四人、かな?」
 真佐人が考えて言った。昴が続けて言う。
「うん、四人見た。俺、撥ねられてボンネットのっかってから車の中見たけど、そん時は三人だった。だからもしかしたら、この部屋の外に見張り、いるかもよ」
「そうか。最初に連れて来られたのはどっち?」
「俺」
 真佐人が投げやりに答える。
「昴が連れて来られた時に目が覚めた。多分、それから二時間は経った頃、一也が連れて来られた。おまえが来てから、まだ三十分くらい、かな」
「うん、それくらい。もう夜中は過ぎてるよね? 俺襲われたの九時くらいなんだけど」
「俺は七時過ぎだった」
「僕は十一時過ぎ。なら、東京湾の港か」
 もう一人を待つ必要はないだろう。急げば警察に待ち構えてもらえるかもしれない。
「逃げるぞ。手足を切り落とされて、売り飛ばされて、何年間も死ぬまで、一日に何度も爺どもにレイプされ続けたいなら、別だが」
「・・・・・・」
 二人とも、想像したらしい。
「這ってでも逃げる」
「今死んでもいいから逃げる」
 意見が合ったところで、ナルは二人を手招く。昴は這うように、真佐人は転がりつつ這いつつ近づいてくる。ナルはその間に、壁とドアを調べる。
 先ほど視た範囲では、ドアは外側で鍵で施錠、内側で開錠できる。その役立たずの鍵は全くあてにされておらず、外側のドアを完全にまたぐ形で棒が渡してあるようだった。ドアの両脇に引っ掻ける金具があり、角材を乗せてある。内側からは開かない。
 金具も角材も丈夫そうだった。どちらにしろ外側にあっては、見えないままPKで吹っ飛ばすことになるので、余分な力を使っても的を外す可能性がある。
 ドアや壁ごと吹っ飛ばしたら、こっちがもたない。
 ナルは、PKによる破壊は諦めた。
「二人とも、ドアの両脇に立って待て」
 にじり寄ってきた二人にそう指示を出す。が、昴はなんとか立てそうだったが、真佐人は体を起こすのも必死だった。座ったままのナルが手を貸し、なんとか片足で立ち上がった。
「左足はダメだ、全然立てない」
「昴は?」
「なんとか自力で、歩ける、と思う。でも、人を支えるとか無理」
「じゃあ一人で歩け。真佐人と僕は二人三脚だな。僕も左足はあまりあてにならないが、自分の体重くらいは支えられると思う。右足は一応無事だが、上半身は右側が痛んでる。僕が右側で、真佐人が左側で行こう」
「わかった。けど、どうやって出るんだ?」
 ナルも、ドアにすがって立ち上がる。
「まかせろ」
 そうして、真佐人の脇へ行く。ドアから離れると、こぶしを握る。
 ドアをガンッと殴る。全身に痛みが響いた。
「ねえっ! 誰かいないの! ねえってばっ!」
 ジーンのマネをしつつ、ナルはドアを更に殴る。
「助けてよ死にそうだよ! 一人動かなくなっちゃったよ! 助けてあげて!」
 ガンガンと更に叩いて、しばし聞き耳を立てる。かすかに、人の動く気配がした。
「いるんでしょっ! ねえったら!」
「うっせえ静かにしろ」
 ドアの向こうから、中年の男の声がする。足音も荒く近づいてきた。
「助けてあげてよ、なんか吐いて、喉につまらせたかなんかしたみたい。なんか応急処置すれば助かるよ、早く!」
「吐いただあ? メンドくせえなあ」
 ガタンと、角材が外される音がする。ナルは、右手に気を集める。ドアが開いた。
「ほらあっちの子!」
 開いたドアのすぐ脇で、ナルが左手で端を指さす。踏み込んできた男がとっさに視線をそらした隙に、右手を男の首筋へ伸ばした。
 バチっと音がして、男が崩れるように倒れた。
「行くぞ」
 ナルは、真佐人の右腕をとって自分の肩に回し、さっさと一歩踏み出した。
「な、何、今の?」
「無事脱出してから考えろ」
 外開きのドアから、三人はおぼつかない足取りで出た。そちらは一カ所だけ灯りがついていた。壁に取り付けられた蛍光灯。その前に、大きな机が一つあり、あとはパイプいすがバラバラとある。その脇に、大きな扉があるのが見えたので、そちらへ向かった。
 広い倉庫だったので、足の不自由な三人がそこまでたどり着くだけで、限界に思えた。
「逃げないと、明け方には船に突っ込まれて二度と日本に戻れないぞ」
 途中、ナルは息を切らしつつ、二人を脅しつけた。蛍光灯の下に、たくさんの写真が貼り付けてあった。
「あ、俺だ」
 机にたどり着いて、昴が下の方に自分の写真を見つける。
 真佐人は、視線だけで自分のもあると訴えている。ナルの写真もあった。すべて、隠し撮りらしい。
 ナルは、ざっとすべての写真を見る。全部で二十三枚。男も女もいる。さきほど視たのと、同一人物と思われる写真がいくつもあった。机の上には、書き込みした紙切れがいくつか。それぞれの簡単な計画書らしい。そして、車の鍵が、一つ。
「昴、鍵取って。行くぞ」
 机に近かった昴に車の鍵を拾わせ、ナルは真佐人を促して扉へ向かう。重機も通る大扉。 引き戸の脇の壁につけられた箱を開けると、思ったとおり、扉を操作するスイッチがあった。人間用のドアも少し離れたところにあったが、これ以上余分に動きたくはない。電源を入れ、開く操作をすると、重い音をたてて引き戸が開いていく。
 ナルは、出て来た部屋の入口を見る。倒れた男の足が動くのが見えた。長時間昏倒するほどの力は割けなかったので、この音では起きるだろうと思ったら、案の定だ。
「急げ」
 完全に開いてからでは遅い。開いていく口へ必死に歩き、引き戸が三分の一ほど開いたところで、三人は外に出た。港だった。倉庫が立ち並び、さほど大きくもない船がいくつか停泊しているのが近くや遠くに見える。船の常夜灯と、真っ暗な海。そして、月が空高くあった。
 幸い、建物沿いにすぐ、車が一台停めてあった。昴がリモコンを押すと、反応した。この車の鍵なのだ。
「待て! ガキども!」
 あちらも必死らしい。が、多少ふらつきは残っているはずだ。まだ声が遠い。
「昴、運転は?」
 真佐人は怪我で無理だ。
「免許ないよ! 高校生なんだ!」
 ナルが運転するしかないらしい。
 後部座席に二人を放り込み、運転席に座る。幸い、オートマ車で、左足を使う必要がない。エンジンをかけて、ハンドブレーキ替わりのフットブレーキだけ、なんとか左足で外す。開ききった大扉に、見張りの男の姿が見えた。手に、黒い塊を持っている。それが、自分たちに向けられているのが、わかる。
「うそ! 銃!?」
「伏せろ!」
 ナルはギアをDに入れると、強くアクセルを踏み込んだ。
 フロントガラスと、運転席脇の窓に続けざまに何かが当たる音がする。
 銃声は聞こえなかった。フロントガラスが白く細かく割れ視界を遮る。ナルはとっさにPKでぶち破り、視界を確保する。三十センチ四方ほど開いたところから、あとは風圧で勝手に崩れていった。
 ライトをつけて進むと、道路に出る案内があった。そちらに向かうと、他の車両が行きかう道に出た。
 合流し、最初に見えた門扉へと道を外れる。港湾沿いの工場のようで、きっちりと閉じられた門扉の脇の小屋に灯りが見えたので、そこに寄せる。人影が見えて、年配の男性が出て来た。
「何か・・・んん?」
 若い男が三人。しかも、工場に用があるようにも見えない。おまけに、フロントガラスが割れている。
「警察を呼んでください。僕らは監禁先から逃げてきたんです」
 ナルが言うと、警備員は目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 警備員は大慌てで小屋に戻る。どこかに電話をしているようだが、おそらく内線電話だろう。独断で警察を呼べないのだ。しかし、許しをもらったのか、小屋から手を挙げてこちらに合図をし、違うところと会話を始めているのがわかる。三人は、それを見て一息ついた。
「一也君、免許持ってるんだ?」
「ああ」
 ジーンを連れて帰った時、ついでに免許を取ってきたので、日本でも運転できるよう手続きをしてあった。
 ナルはハンドルに額をつけて前に寄りかかる。体中が悲鳴を上げていた。
「・・・・・・ありがとう」
 真佐人が言った。
「そだね、ありがとう、一也君」
 昴も言う。
「・・・・・・一人じゃ逃げられなかった」
 ナルは言う。
「うん。全員で、逃げられた。良かった」
 昴がまとめて、後は、周りが動き出すのを待った。
 門扉の中から三人ほど人間が走ってくる。どこか遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
 ・・・・・・助かった。
 ひとまず。
 ポケットをさぐり、革製のキーホルダーに触れる。
 ナルは、気を引き締める。
 まだ、仕事が残っている。

 到着した警察官に、最低限の話だけをして四人目がまもなくその現場に連れて来られるはずで、大至急手配をしないと保護しそびれるだろうことを伝える。犯人の一人がその周辺にいることも。
 警察官が無線で手配をする。救急車と刑事の車がやってきて、改めて刑事に話を聞かれる。現場にも別働隊が向かっているという。ナルは根気よく説明した。ほかの二人は先に救急車で運ばれて行ったが、ナルはたいしたことはないと言って現場に残った。そうして刑事に頼んで、検察庁の広田の携帯に電話をさせた。ナルは当然、番号を記憶していたのだ。阿川家の事件から半年。阿川家の事件絡みでもしばらくやりとりがあり、二度ほどは、広田が別件で事務所を訪ねてきたりもした。専門家の意見を聞かせてほしい、と、渋々と言った様子で。片方は、ナルが手品の種明かしを実際にやってみせたことでゼロ班以外のところへ事件が移り、もう一件は説明のつく自然現象と化学反応があると教えた。複数の事象が絡まりあって不可思議にみせていただけで、事件ではなく事故と説明がつきそうだった。その後、実証実験が為されて事故と判断されたと、礼の電話があった。
 刑事は、広田さんですか? 身分を教えてください、と、向こうから言わせて確かに検察庁ゼロ班の倉橋検事のところの事務官であると確認する。会話はスピーカーモードで、と設定され、構わずにナルは電話を代わってもらう。
「渋谷君か? いったい何が起こってるんだ?」
「集団誘拐事件ですよ。総数二十三人。僕は被害者の一人。二人は僕と一緒に脱出した。少なくとも七人は、沖合に停泊する船にまだいます。脱出現場に犯人を一人残してきたので、連絡がどうまわっているかわかりません。船が動き出す前に確保しないと、かなり面倒なことになりますよ」
「・・・・・・君にはその場所がわかるのか?」
「船名がわかります」
「わかった。倉橋検事を叩き起こす。またこの携帯に架けるから」
「お願いします」
 キーホルダーから、コンテナに押し込められるところを見た。倉庫から船で違う港に連れて行かれ、そこでコンテナに押し込められたのだ。船が近くに停泊していて、扉が閉められてからの移動の様子からすると、その船に積まれたとしか思えない。その船名を伝えると、通話を切る。
 日本警察は優秀だが、事の重要度を理解するスピードが遅いと、ナルは長い日本生活で学んでいた。早い話、平和ボケしているのだ。初動のスピードを上げる効力を持つのが、いわゆる権力。検事一人のルートがどこまで勢いづけてくれるかは不明だが、国外からの圧力では遅いし説明も後の始末も面倒だ。重要度がわかって勢いがつけば、その解決力は低くはない。
 刑事の元に、現場がもぬけの殻になっているという情報が届いた。現場確認のためにナルも行くことになった。
 パトカーに乗って、さきほど脱出してきた倉庫へ戻る。
 すべての写真と計画書が消えていた。倉庫内の様子がナルの説明通りであり、薬莢が二つ落ちていたことから、いたずらではないことだけは認められていた。
 彼らの慰留品は、ゴミだけに見えた。
 しかし、そこに、一つだけ忘れ物があった。
 誰のものか、ボールペンが一本。
 ナルは、断りもなくそれを手に、倉庫の壁際に座り込む。
 どこか痛むのか、と問われるのにも構わず、それに集中する。すぐに意識はその持ち主に同化した。
 道路の看板が視界に映る。混雑する道路を、じりじりと走っている。運転しているところに同化している。時間設定はわからない。
「ヤスの野郎は、証拠品かき集めてとにかく国道に出ると言ってる」
 後方から野太い声がする。
「拾うのか?」
 ナルが同調している、運転席の男が尋ねる。
「証拠品色々持ってるし、つかまったらゲロるぞ、あいつは」
「あと五分もすればその辺に着くだろうさ。いなかったら置いて行くぞ、Uターンは無理だし、路駐で待つこともできんし、まして倉庫にゃ行けねえからな」
「ああ。仕方ないだろう」
 現在進行形らしい。落ち着いているようだが、それなりに焦っているのだろう。だから、このタイミングに同調できた。ナルは道路の看板や信号の交差点名を拾い読む。そうして、回線を切った。
「・・・おいっ、大丈夫か?」
 気づくと、刑事が座ったまま崩れかけたナルを支えていた。痛む肩に触れられて、右腕にしびれが走っている。
「・・・・・・この辺りに、四文字の地名で、最初が『二』で、後ろ二文字が新しい町、と書く地名はありますか?」
「は? 二俣新町?」
「今彼らは四人目を乗せて、その交差点辺りを通過している。片側二車線の混雑する道路。鉄道か高速の高架橋の下の道」
「357かな? て、今? て?」
「ここから写真をかき集めて逃げた男はその道路沿いで彼らに拾われるようです。探してください。五分ほどで合流できそうだと言っています」
 人相や服装は伝えてある。広田から、とりあえずこの男の言うことを聞くのは有効だと言われていた刑事は、不審に思いつつも無線で連絡を入れている。357と言われて、ナルは東京湾沿岸の道路図を思い出す。千葉県の湾岸沿いの道だ。渋滞の名所でもある。時間が時間なので事故か工事の影響で渋滞しているのだろう。普段から渋滞しているということは、ほかに道がないということだ。確保できる可能性がある。
 近くてほかの道がないなら、警察はナルに言われずとも注意している道だろう。
 連中が乗っているのは、ナルがはねられた車だ。一瞬しか見ていないが、車種と色は特定できているので伝えてある。逃げている男をみつけられれば、その男を拾う車を捕獲できるだろう。
 ナルは、ポケットを探る。革製のキーホルダーを取り出す。持ち主は、沖合の船の中にいる。続けて、ナルは同調を試みた。
 すぐに意識が吸い込まれる。こんなに続けざまにサイコメトリをするのは、コントロールが効かなかった子供の頃以来だ。
 コンテナの中に閉じ込められている。特に動きはないようだった。ナル自身が連続で行っているために適応しにくいのか、視えているのに、把握しにくい。
 七人が寄りかかったり、寝転んだりしている。足元の方がところどころ明るい、穴を開けてあるようで、空気穴と採光を兼ねているのだろう。異臭がするのは、角に置いてある便座のせいか。袋に入ったパンや紙パックの飲み物が壁沿いに押し込まれたまま放置されている。皆、食欲はあまりないらしい。暇なせいか、同調する男がきょろきょろと周囲を見る。他の六人の顔や姿を確認して、ナルは回線を切った。
 気づくと、ナルは倉庫の壁沿いに寝かされていた。二十三人の写真、そのうちの七人が特定できた。コンテナの内側の色は、オレンジ。おそらく、外側も同じ色だろう。
 伝えなくては・・・・・・。
 そばに刑事はいなかった。ナルたちが監禁されていた一角に人が複数いるのが見える。
 視界が歪む。
 めまいがひどくて、目を閉じた。そのまま、泥に潜るように意識が落ちた。
 ナルは、必死にあがく。気絶している場合じゃない。二十三人の内、自分を含む三人は脱出済み、一人は犯人たちと一緒に救出されるだろう、七人は船から救出されるはず。残る十二人は、早急に特定して何か持ち物を入手してもらわないと。三組分の若者たちを同じ船で移送するつもりだったのなら、残る十二人も一緒かもしれない。まだ目的の港についていないかもしれないし、ついていてもまだばらけていないかも知れない。時間勝負なのだ。
 体中痛いのが幸いして、意識が落ちてもすぐに復活する。それでも体を動かすことはできず、ナルは時に落ちかける意識に抗いながら、そばに人が来るのを待った。ほどなく、大扉のそばに車の停まる音が聞こえ、二つの人影が入ってくる。
「ナル!?」
 駆け寄ってくる長身。広田がどうにか連絡を取って同乗してきたのだろう。リンだった。
 ナルは、すぐわきに跪くリンに、言った。
「船の、オレンジ色のコンテナに、七人いる。女が四人、男が三人」
「怪我をしているんですね? 熱もありますよ?」
「構わない。残る十二人。写真の顔は覚えている。七人より前だから、一〜二週間行方不明の二十歳前の男女、手がかりを・・・・・・」
 広田の顔が、リンの向こうに見えた。怪我のせいで熱が出ているのか、どうりで寒いと思った、とナルは身の内で思う。
 遠くにいた刑事たちが近づいてくる。
「一人でも、特定して、持ち物が、手に入れば・・・・・・」
「どれだけ力を使ったんです? ただでさえ怪我しているんでしょう? もう十分・・」
 ナルは、リンの襟元をつかむ。
「後でまとめて寝れば僕は治る! けど、彼らは戻れなくなる!」
 息がつまって、手が緩んだ。
「ナルっ」
 軽く咳き込んで、それでもナルは再び手に力をこめる。
「まだ助けられる、かも、しれない。今なら、まだ・・・・・・」
 希望があるうちは。
 自分こそが、彼らの希望。この先は、自分にしかできない。
 広田が近づいてきた刑事らに何か話している。リンはナルを横にならせて、自分のコートをかけてくれた。今は説得できないとあきらめたのか、ナルの怪我の具合を確認する。ナルはリンの質問に答えながらも、痛みやめまいで怪しくなる意識に抗っていた。
「渋谷君」
 広田が刑事を伴ってそばに屈む。
「タブレットで該当しそうな少年少女のデータが出せるそうだ。その、目撃した写真から、みつけられるか?」
 ナルは、口元だけで笑んでみせる。かなり無理があるな、とは自分でも思う。
「早く見せて。特定できたら、すぐに持ち物を確保してください」
 タブレットが持ってこられて、ナルはリンに体を起こしてもらう。一画面に大勢一度に顔写真が出るようにしてもらい、その中から該当者を探す。画面のスクロールもリンにまかせた。大勢の家出人、行方不明の少年少女たち。事件性が認められず、表ざたになることなく、裏社会に飲み込まれていったであろう、大勢の。
 ナルは、次々とその中から該当者に似た人物を見つけ出す。隠し撮り写真との比較であるし、ナルも百%の自信があるわけではないので、できるだけ複数を拾いだす。刑事たちがそれらから次々と家族に連絡を取って行く。
 さらわれた少年少女は、選ばれている。いまだに届出されていない者もいるだろう。ナルは、半月のデータの中から十人ほどを選び出す。似ている者もいるし、厚化粧などで印象の異なる者もいる。外れも混じっていることは確実だが、その分当たりも多く混じっているはずだった。
「何か、持ち物を、借りて、ください」
「わかった」
 広田が答えたところに、大扉から慌ただしく新たな人々がやってきた。
 音はまるで聞こえていなかったが、救急隊だった。
 ナルは問答無用で救急車に押し込まれた。

 昴と真佐人は、同じ病院に運ばれた。
 カーテンで仕切られただけの空間で、治療を受けた。なので、お互いの状態がわかっている。
 昴は、背中や腰、足の打撲。
 真佐人は左足首にヒビ。あとは全身の軽い打撲だった。
 昴が連れて行かれた大部屋に、遅れて真佐人が運ばれてきた。
「一也君は?」
 処置室でも、病室でも尋ねたが、もう一人運ばれてくる予定だが、まだ到着していないと言われた。
「真佐人君、大丈夫?」
「高校生のガキが君付けで呼ぶんじゃねえよ」
「じゃあ真佐人」
「・・・・・・いてえ。寒い」
「僕も痛いけど、ヒビも痛そうだね。薬効いてないの?」
「にぶっちゃいるけど、なんかまだるっこしいっつーか」
「そだね。痛みはあんまり感じなくなったけど、超だる。おまけに眠い」
「そうだな」
「でも、一也君の姿見るまで寝たくない」
「そうだな」
「きっと、代表で現場検証とか買って出てくれたんだろうね。僕の方が怪我軽かったと思うんだけどなあ」
「でも、奴は相当お利口さんっぽかったぜ。おまえより役に立ってるんじゃねえの?」
「それは否定しないけどさ。真佐人は二人三脚したんでしょ? 一也君の怪我、どんな感じだった?」
「一見平気そうだったけど、息荒かったし、結構我慢してたんじゃねえかな。頭、血が出てたし。左足は相当痛かったんじゃねえかなあ。俺に楽させてくれてたけど、倉庫で、最後の扉の辺り? 左足引きずるのも言うこときかないって感じだったぜ?」
「弱み見せないタイプっぽかったもんね」
「とっととリーダーシップとってたしな」
「あの容赦ない脅しぶりはタダ者じゃないよね」
「あの演技力もな」
 二人は、声を出して笑いあう。
 後は、じりじりと時間が経つのを待つ。様子を見に来た看護師や、話を聞きにきた刑事らに『もう一人』について聞いても、まだ来ないとだけ言われながら。
 夜が明ける頃、二人はいつの間にか眠ってしまった。

 ナルは二人と同じ病院に連れて行かれた。しかし、治療を受けると所轄の警察署へ向かう。船のだいたいの場所がわかり、海上保安庁が急行中であること、四人目を乗せた車はみつかっていないが、道路沿いにいた不審な男は確保したと、刑事の運転する車中で聞く。 男は一時複数の警察官と追いかけっこ状態となり、その間に男は貴重な被害者情報である写真や書類を引き裂き、ばらまきながら海に飛び込んだのだという。暗い海に散った破片は回収不能だったが、男は引き上げられた。
 あげく、万引きがバレたと思って逃げただけだと、犯行を否認している。
 ナルは、面通しのために警察へ行くという理由がついた。服装はナルの説明どおりだったが、海水で硝煙反応も確認できない。倉庫で指紋がとれたとしても、銃もなく、未成年者三人の証言だけでは動きがとりにくいらしい。三人が溜まり場でみつかって車を盗んで現場から逃走したが事故に遭い、事件をでっちあげたという見方もできる。
 未明の事件発覚で関係者もつかまりにくい。広田を巻き込んだのは正解だったようだ。
 しかし、船がみつかっても、現状では強制捜査はできない。
 まだマスコミ発表もされていない。ナルは警察署に着くと、車いすを借りた。リンと広田が車で追いつき、リンがナルに手を貸す。
 すぐに面通しが行われる。容疑者がいる隣の部屋から、ナルは倉庫の見張り番だと確認した。
「四人目は特定されましたか?」
 ボールペンもキーホルダーも、既にナルの手元にはない。四人目の手がかりはナルの写真の記憶のみで、家出人行方不明者のリストにはまだあがっていなかった。
「らしい届け出は出ていない」
 刑事が二人、対応していた。ナルの能力については、聞いてはいるが信じていないのだろう。本名をネット検索して警察にも協力したことがある超能力者だという情報は得ているが、オカルトとしか思っていない。
「逃げだすのに使った車は今どこに?」
「裏に届いてる」
「見せてください」
 広田が頷くのに、やむを得ず二人は署の裏にある駐車場へ案内する。まだ関係者が調査中だった。
 ナルは、ハンドルを触らせてもらう。
 車はよほどの車好きでなければただの場所だ。役に立つものが視える可能性は低い。それでも、ナルは車いすを開いたドアに寄せ、ハンドルに触れる。座席に伏せるようにして、そこに意識をまかせた。
 すぐに、運転席からの景色が見える。今回の関係者のものかどうかはわからない。朝のようだった。
 疲れているようで、帰って寝るまでの手順を考えている。信号待ちで、運転手は助手席の一眼レフのデジカメを手にした。
 画像を確認している。倉庫にあった被害者の隠し撮り写真と同じものがあった。
 こいつは決まりだな、と運転手が考える。
 信号が変わり、車を発進させた。
 部屋数の多いワンルームマンション住まいで、浅いつきあいの人間ばかり。バイトもしていない。大学は通っているが、熱心なわけでもない。それなりに仕送りをもらって、のんびりと学生生活を送っている恵まれた奴。
 いなくなっても、数日は本格的に探す人間は現れないだろう。
 男は路地に入る。電柱に、青い看板で住居表示が視えた。
 すぐにアパートの駐車場に車を入れる。
 車を降り、郵便ポストを覗く。集合ポストにはアパート名が書かれている。覗いたポストの部屋番号は一○三。男は、鍵を出し、部屋のドアを開ける。一人暮らしらしい、畳の部屋が視えた。
 ナルは回線を切る。途端に、頭がだるくて吐き気がした。ナルが戻ってきたと気づいたリンが、車いすの背もたれにナルを戻す。春先の明け方の空気に、ナルは少し救われる。 「犯人の一人の、部屋がわかった」
 住居表示と、そのそばの路地を入ったところにあるアパート名と部屋番号。刑事がメモをとって一人が駆け戻って行く。替わりに、こちらに走ってくる刑事がいた。
「四人目らしい届け出があった」と。
 コンパで飲み歩いて解散になったものの、始発まで間があるので泊めてもらおうと訪ねた友人が、部屋の近くの道路に本人のスマホが落ちているのをみつけ、部屋を訪ねたが誰もいない。スマホが落ちていた現場に戻ると、擦れた血のような跡をみつけた。独り言を言って困っていたら、早起きの老人が家から出てきて、真夜中すぎに何かがぶつかる音がしたので猫でも轢かれたのではないかと言ってきた。しばし車が停まって出発して行ったので、死体は回収したのかな、と。
 ひき逃げ犯に連れ去られたかも知れないと、友人は一一○番に通報した。現場の所轄が対応中だという。
「東京なら、直接行って後は部屋に帰る」
「スマホが届くのを待って、病院へ戻った方がいいだろう? 面通しのために外出許可が出ただけで、おまえは本当なら入院だぞ?」
 広田がきわめて常識的なことを言った。
「もう朝だ。本当ならスマホで四人目の居場所がわかれば、そのまま飛行機に乗りたいね」
 マスコミが動き出す。
 リンも賛成する。
「くれぐれもナルの名前と協力については出さないでください。漏れれば、すぐに飛行機に放り込んで、二度と日本には戻しませんよ」
「・・・・・・それは困るな」
 ナルが小さくつぶやいた。

 東京の某警察署に立ち寄る。夜が明けようとしていた。こちらは幸い、広田の顔を知っている刑事がいた。すぐにスマホのところに案内される。ナルはまた車いすを借りていた。
 早速、サイコメトリをしてみる。
 話し声で、目覚めた。
 体が痛い。特に足が、なんかめっちゃいてえんだけどなんだコレ?
 走る車の中、ワンボックスカーの後ろに自分が体を曲げて転がっている。三列目のシートをたたんだ空間らしい。
 前列の左端も座席を前に倒したままだった。そこに、自分のバッグがあるのが見える。
「どうせ、ヤスはこの車のナンバーなんざ覚えてないだろう?」
「Nシステムがある。奴はもう道路沿いにいたんだ、その頃通った車を探すかもしれない。すぐは無理だろうが、早めに乗り捨てた方がいい」
「沖の船も逃げるってか?」
「夜が明ける頃すぐ動くそうだ。七人だけ積んで。畜生、せっかくもう一個コンテナ確保してあったのになあ」
「じゃあこいつどうするよ?」
「ほとぼりが冷めるまで次はないだろうからな・・・・・・」
「検問でもあったら、こいつみつかったらごまかせねえ」
 車が左折するのがわかる。荒っぽい運転だ。
 俺は、誘拐されたのか?
 しかも、何かトラブルがあったようで、自分をどうするかでもめている。
「この先、川沿いになる。投げ込んじまおう」
「人目はねえのか?」
「この時間ならないだろう。釣りにも早いし、年寄りがうろついてなけりゃ、防犯カメラの類があるようなとこでもねえよ。不法係留のプレジャーボートが放置されているようなとこだ」
 川に投げ込むって、それ、死ぬし・・・・・・。
 心臓が早鐘を打つように鳴る。気づいているとバレていいのか悪いのかもわからない。狭い悪路を走っているのがわかる。ゆっくりと、寝ている人々を起こさないように。
「気づいて騒がれたら面倒だ、口にガムテープ貼っておけ。ついでに手も。指紋つけるなよ」
 殺す気漫々かよ!?
 前列の男が回り込んでくる。手にはガムテープらしきもの。
 とっさに体を動かした。痛い。けど怖いし。
「こいつ気づいてやがる」
 狭い空間で、バタバタと暴れても簡単に押さえつけられてしまった。怖さと痛さで思うように動けない、声もまともに出せないうちにガムテープで塞がれた。仰向けに押さえられたので、そのまま前で両手を手首から肘近くまでガムテープで巻かれる。ついでのように、膝下辺りもぐるぐるにされた。
「準備いいぞ」
 いつの間にか車が停まっている。車から人が出ていく。ドアを開ける音だけで閉める音がしない。後ろのドアも開けられ、そのまま引きずりだされた。ボロい家が見えたが、暗い。無人なのかもしれない。
 目の前に一メートルほどのコンクリの壁がある。その上に二人がかりで運ばれる。川だ。  幅は十メートルもない。反対側には煙突のある工場。薄明りの正体は少し先の赤い橋の外灯。橋と工場の間に倉庫のような建物。大きな文字で会社名が書いてある。
「せえの」
 宙に放り出された。尻から水面に落ちる。全身が潜り、すぐに尻が川床らしきところにあたる。浅い。もしかしたら立てるかも知れない。
 足を底にぶつけて顔を水面に出そうとする。川の底はヘドロだらけなのか、足が底に潜る。それでも多少反動が効いたのか、上半身は上に向かう。
 瞬間、水面に顔が上がる、次には沈む、必死に体を動かすが、一瞬ずつしか出せない。鼻から水が入って苦しい。わずかにその隙間から空気が入るが、痛い。
 顔を上げるのを一時諦めて一度埋もれた足を軸に川底に尻をついて、足を引っこ抜いた。もう一度尻をついて、ゆっくりとだが浮上する。体を縮めて、手の前に顔を運んで口のガムテープを剥がす。
 剥がれたところで、水面に顔が出た。
 浮かなきゃ。
 できるだけ体を伸ばす。なんとか、ぎりぎり呼吸できる程度体が浮いた。気配を探るが、もう車は立ち去ったようだった。川の流れはほぼ、ない。一メートルほど離れたところに、ボートを括り付ける鉄パイプが見えた。
 意を決して、姿勢を変える。じたばたと泳いで、なんとか両手でパイプにつかまる。
「だ、だれか・・・・・・」
 声を出すも、川沿いの灯りは外灯の類だけ。川の片側の建物はどれも平屋が多いのか窓は見えない、反射もないから無人か寝ているかのようだった。工場が見えた方を見ても、小規模なもので、昼間開いているのかもわからない。
 まだ夜は明けない。
 水冷たいし、ヤバい?
 けれど、川の両側は高いコンクリの壁だ。ボートが離れたところにあるが、この恰好で泳ぎつくのは無理だし、その上によじ登るのも無理だ。ボートと壁の上までも、行き来は梯子でも持ってくるのだろう、二メートル以上ある。視界に入るところには、同様に杭や足場はあっても、上へ上がる手段はなかった。
 足を伸ばしてみる。思ったより川の底は浅い。けれど、立つと足が沈んで底なし沼のようになる。あまり体重をかけずに底に足をついた。
 人が通りかかるのを、待つしかない。
 性根を据えた。

 ナルは、回線を切る。
 緑の色は見なかった。彼はまだ生きている。
 倉庫の名前と、赤い橋、川幅の狭い不法係留の多い川。あらゆる手がかりを伝える。
 後は、警察の仕事だ。

 ナルが手当てを全部ひっぺがしてシャワーを浴びて出てくると、テレビがつけてあった。
 結局部屋までついてきた広田が、テレビの前に体育座りをして、陣取っていた。
「ニュース速報は出た。『連続拉致事件発生、午前一時頃、救出を求めた少年三人を千葉県で保護』て。ニュースはまだ、詳しいことがわかり次第、といってほかのネタをやっている」
 六時のニュースらしい。
 手当てをしなおすために下着一枚にバスタオルをかぶっただけで、ナルはリンにソファへ運ばれる。ナルの部屋へ戻る途中、リンの知り合いのところへ寄った。手当てに必要なものを頼んであったらしく、明け方だというのに白衣姿で大きい道路沿いに立って待っていてくれた。中国人らしかった。
 ナルはぐったりとソファに寄りかかる。脇で、リンが手当てに必要なものを広げていた。
 物の少ない部屋だ。ソファも一人掛けのものが一つだけ。あとはダイニングに二人用のダイニングテーブルセットがあるだけだ。テレビも一応おいてあったものの、床に直においてあり、しかもコンセントは抜かれていた。おまけに、ほこりよけなのか買った時の段ボールを逆さにかぶっていた。かろうじて同軸ケーブルは接続されていたが、どうも、あるだけでほぼ見ないらしい。
 家具らしい家具はあとはソファの前にガラステーブルが一つ。テレビ以外の家電は冷蔵庫だけ。
 ほかにも部屋はあるようだが、廊下も玄関も何もなかったので、どこも最低限しかないのだろうなと、広田は思う。まして、女の影などかけらもない。
「では上から。一番痛いところは?」
「右肩」
 言って、ソファから体を起こす。バスタオルを剥がすと、右肩の付け根のところが青黒く腫れていた。
「腕の方まで腫れていますね」 「塀にぶつかって、更に塀と車の間に落ちたんだ。右側から。左足をすくわれて」
「右足は?」
「少し打っただけ。肩から落ちた。腰も少し」
「背中は?」
「打ってはいないが、ひねったか歪んだ感じはした」
「痛みは?」
「ある」
「そのまま体を倒していてください」
 ナルはおとなしくリンの言うことを聞いている。
 左足にも広範囲に青く痣が出ている。満身創痍だな、と思いつつ、広田はテレビに視線を戻した。株式相場をやっている。
「この辺が少しずれていますね。体を起こして。肩の方は・・・・・・」
「・・・・・・痛い」
「そうでしょうね。脱臼寸前です。もっと痛くしますよ」
 見れば、両手で右肩を動かされている。様子からして、相当痛いそうだ。
「背中も直しておきましょう」
 いやだという余地もない。首と体に手をかけられて、背筋を伸ばされたところで背中に指があてられる。何をどうしたのかはわからないが、腕を離すとそのままソファに寄りかからせたところをみると、歪みは矯正されたのだろう。解放されて、ナルが小さく息をついた。
 あとは湿布を貼られて包帯で肩を固定され、シャツと上のパジャマを着るよう言われている。
 いつものような黒服ではなく無防備な姿でもあることから、その不機嫌な様子はただの少年にしか見えなかった。
 地方のニュースが終わったところ、ニュース速報が流れた。三人とも、テレビに目を向ける。
『連続拉致事件、午前六時頃、更に一少年を江東区××川にて救出』
「やった、みつけたか!」
 広田が喝采をあげた。
 あの、冷たい水の中から。ナルは息をつく。サイコメトリをしたのは五時半過ぎ。散歩中の人がみつけたのかもしれない。恐らく川に落とされたのは二時か三時頃。三時間以上、彼は耐えたのだ。救出とはっきり出ている以上、生きているのだろう。
「良かったですね」
 リンも言う。
「あとは、船だな」
 テレビは、ナルが面通しに行った警察署前からのレポートに切り替わった。ニュース速報の内容を繰り返し、七時から千葉県警で記者会見があると伝えている。救出された四人以外にも複数の被害者がいる可能性があるとして捜査を進めている、と。
「では、いったんベッドへ。腰と足をなんとかしましょう」

 七時のニュースに間に合うように、リンがリビングに戻ってきた。
「渋谷君は?」
「限界です。足の手当中に寝てしまいました」
 中継で記者会見が始まった。
 市川市の工場へフロントガラスの壊れた車で乗り付け、少年三人が保護を求めたこと。三人は全治十日から一か月の怪我。彼らが二十人以上の少年少女の写真を監禁現場で目撃していること。見張り役と思われる男を聴取中であること、保護された少年たちから四人目がすでに拉致されていると思われ、匿名の通報により捜索し、川で少年一人を救出したこと。少年は体温が下がっており怪我もしているが、命に別状はないことなどが発表された。
 質問が続く中、一度スタジオに戻される。少しコメントが入り、後ほどまた詳しく、とほかのニュースになった。
「渋谷君の情報は匿名の通報扱いか。警察の誰かが本当に架けたんだろうな」
「その方が都合がいいです。船の方はどういう情報源になるんでしょう?」
「監禁現場が港だったからな。保安部が出てくるのは違和感ないが、東京湾外まで飛び出す理由づけはどうだろう。監禁現場にコンテナ船は着けないそうだ、浅くて。どこか沖か別の港でコンテナに移されたんだろうな。四人目が話を聞いていると渋谷君は言っていたが、あんな状況で覚えているものかな?」
「どうでしょう」
「誘導すれば思い出してくれるかも」
 リンがコーヒーを入れる。よくぞこの部屋に余分なカップがあったな、と、広田は思う。
「リンは、たまに来るのか、ここ」
「用があれば。たいていのことは事務所で済むので、あまり来ません。このカップはここを紹介してくれた滝川さんからの引っ越し祝いですよ」
 ガラステーブルに置かれたそれには、白地の正面に前衛的なマリリン・モンローがプリントされている。なるほど、趣味が悪い。と広田は思う。リンのカップは、スパイダーマンだ。
 ニュースが再び拉致事件に戻った。今度は警視庁の会見だという。
 千葉県警からの連絡で犯人の一味と思われる男一人の身柄を江東区のアパートで確保。また、都内在住の行方不明者の内少なくとも十人が事件に巻き込まれた恐れがあるものとして関係者から事情を聴取中であること。川から救出された少年から七人の被害者がコンテナ船にいる可能性があると判明し、海上保安部が沖合いで外国船を調査中であると発表された。
「これで救出されれば、わかっている範囲は終了だな」
「ええ。あとは残る行方不明者の物を確保してもらえれば、ナルは視るでしょう」
 リンは、気が乗らない様子で言う。
「普段は、警察協力はしていないよな?」
「基本的にはしません。こちらも受けませんし。まだ救出できる可能性があって、それが自分にしかできないと明らかであるから、なんでしょう。今回は。子供の頃は実験代わりに色々視させられていましたが・・・・・・。一度ひどい被害にあたってからは、積極的には・・・・・・。生き埋めの少年を助けたことが一度ありますが、それ以外の協力は遺体か犯人の捜索です。それも、次の犠牲者を出さないため、でした」
「自ら乗り出すこともあるのか」
「関係者の要望とナルの判断で。そもそも、ナルはテレビも見ませんし新聞もじっくりは読みませんからね。ここ数年はなかったですよ。調査で関わらない限りは」
 コーヒーを飲み終えると、広田は仕事に行くと言って帰っていった。
 リンが自分の携帯を見ると、安原からメールが届いていた。そもそも、広田から安原を経由してリンに今回の事件の連絡が届いたのだ。情報網の一つとして、安原は広田をつかんであったのだろう。見れば、いつでもいいので一度状況を教えてほしいと書いてある。朝一で事務所に行っている、と。
 では、今頃は事務所でテレビを観ているところか。
 リンは事務所へ電話を架ける。すぐに安原が出た。ナルは部屋に戻っていることを伝える。しばらくは部屋に閉じ込めて置くが、万が一ばれたら、すぐイギリスに帰す、と。
 安原からの提案で、ナルの世話をするローテーションが組まれることになった。まかせることにして、リンは電話を切る。
 それから一息つくと、まずはナルの両親の元へ電話を入れる。詳細は改めて報告するが、さしあたって全治三週間の怪我であると。続いて、まどかへ電話をする。ナルの怪我、事件の概要、サイコメトリにより捜査協力したが、いまのところ秘匿されていること。
「わかったわ、こちらからも情報が出ないように手をまわすわ」
 簡潔に電話を終え、リンは氷枕を用意してナルの様子を見に行く。
 ぴくりとも動いた様子がない。熱は三十八度くらいか。元の体温が低いので、つらいだろう。右側頭部の怪我を見るのに触っても、ナルは気づかない。二針止められている。ガーゼをあてて、包帯で押さえる。その作業でも起きなかった。ちゃんと呼吸はしていたので、リンは氷枕にナルの頭を乗せ、寝室を出た。
 時計を見ると、もう八時近かった。

 目覚ましの音で、麻衣は目覚めた。
 七時ジャスト。カーテンの隙間から入る光からすると今日は晴天。ほどよく、炊飯器からも炊き上がりの音がする。
「よっしゃあ、おはようっと」
 起きるとまずは炊飯器のスイッチを切って蓋を開ける。共用トイレから戻ると布団をたたみ、お椀に水をためると炊飯器にしかけた笊の上から卵を取りだし放り込む。ヤカンをセットし、テレビをつけ、手早く着替える。
 何やら慌ただしいニュースをやっている。何か事件があったらしい。
 ニュースを耳でききながら、朝ごはん分のご飯を盛り付け、弁当箱にも詰め、残りは別の茶碗に盛っておく。炊飯ジャーを水に浸け、炊飯器に一緒に入れていた笊からジャガイモやニンジン、ウインナ−を弁当箱に移し、青菜は絞ってから入れる。ゆで卵を剥くと、半分に切って半分は弁当箱へ、残りはご飯茶碗へ。その頃には少量のお湯が沸く。今日はインスタントみそ汁をお椀に作る。ついでに、水筒に紅茶のティーパックを入れてお湯をそそぐ。冷蔵庫から納豆を一パック取り出し、朝ご飯だ。途中、ティーパックを取り出し、湯呑に移して残りのお湯を注ぐ。テレビはちょうど、騒いでいたニュースが一段落したのか、週末予定の選挙戦のニュースだった。
 食べ終わると手早く食器と炊飯器ジャーと笊を洗い、歯を磨き顔を洗い髪をとかす。
 最後に弁当箱にふりかけとマヨネーズとケチャップを絞り入れ、蓋をしてランチバックに押し込む。水筒も持つ。残りご飯のお茶碗にラップをかけ、冷蔵庫に入れる。
 湯呑の紅茶を一気飲みすると、それも手早く洗い、麻衣は荷物をまとめる。
 テレビはまた慌ただしいネタをやっていたが、慌ただしすぎて何か誘拐事件があってスピード解決したらしいことだけは伝わったが、よくわからない。学校に行ったら誰かに訊こう。そう思いつつ、テレビのスイッチを切る。
「行ってきます」
 指定下宿だけに、学校はすぐ近い。
 八時に、部屋を飛び出した。
 今日も、いい一日だといいなあ、と。
 麻衣の、一日が始まった。

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