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野村は、タソガレドキの二人が去ると、変装を解くために化けた相手の部屋へと戻った。
相手は、すやすやと机に突っ伏して眠っている。
拝借した衣装を着せ直し、自分の衣装を調えて面を外す。そうして、懐から眼鏡を取り出してかけた時、わずかに、気配を捉えた。
「そのまま聞くが良い」
部屋の襖の向こうから、声がした。
気配のほとんどない娘。みお姫の声だった。
「そなたの気を私は知っておるぞ。おぬし、私の兄の近くに居る者であろう?」
野村は答えない。気配を隠したまま、声を聞いている。
普通の者ならば、勘違いだったと思うところだろう。しかし、みお姫はまるで中が見えるかのように話を続けた。
「時に私にも触れられそうなほど兄の気配が強くなったとき、引き戻していくのがおぬしの気配じゃ。兄は今も、忍びの世界におるようじゃな」
確信に満ちた声。朝食のみのプチ断食も五日目になるというが、まだまだ元気のようだった。
「応えは期待しておらぬ。捕らえる気もない。話はさっき高坂らに話したとおりじゃ。私は兄者に問いたいだけじゃ。どんな答えでも構わぬ」
野村は、ただ聞いている。感情の波は起こさない。気配は完全に滅したままだ。
「どんな答えであろうと、私は以後、兄者には関わるまい。逆に兄者にも関わりを許さぬ。だから、協力して欲しい」
野村は、開けたままにしておいた天井裏への口を見る。新たな情報は得られそうにない。
姫の真意と調査のスタートラインはわかったが、忍務としては失敗だった。
話はタソガレドキにすべて伝わってしまった。重要な手がかりである姫の顔までも。なんとか妨害するつもりでお付きに化けたのだが、こうもしきたりにこだわらず我を通す姫であろうとは。読みを誤った。
タソガレドキは一足飛びに半助にたどり着いてしまったろう。それほどに、半助とみお姫は似ていた。男女の差と年齢の差はあれど、その気になれば半助は素顔のまま数年後のみお姫に化けることができるだろう。
次なる手は、勘違いだったと思わせるしかない。
「タソガレドキの報告日は三日後の夜。それまでにおぬしが兄に会う手配をすると確約してくれるなら、タソガレドキへは兄は死んだようだと伝えよう」
その言葉を聞くと、野村は天井裏へと跳ねた。わずかに板の間がきしむ。
城を出るまで、何者も追う気配はなかった。
みお姫は、わざと逃がしてくれたのだろう。
野村は道を逸れ、京を急ぎ目指した。
夕刻、尊奈門は京へたどり着いた。笠を目深に傾け、人ごみに紛れて半助の借家を目指す。大路から小路へと入ると、足を速めた。
半助の借家を、訪ねたことはない。が、口で説明されてもわかりやすい場所にその借家はあった。
調べによれば、その部屋は以前、忍術学園が京における連絡所として使っていた場所であるという。
しかし、そういった場所は長くは使えない。忍びの世界では、いずれバレるのだ。
とはいえ、ある程度使い込んだ場所であった場合、そこを頼りにする者が訪ねてくることもある。
ために、そのような部屋は、その後まったく縁がなくなっていると明らかにわかるように損壊するか、ある程度の機能を残す必要があるのだ。
大家も近隣の者も、半助とその前の借主との関係など知りはしない。
せいぜい、あの部屋はいるんだかいないんだかわからない奴ばかり借りる部屋だ、と思うだけ。
学園の冬休み。
半助が戻っているかどうか。
尊奈門は、半助の借家のある通りに立つ。
半助の借家の、窓がつっかえ棒を立てて開けられていた。
尊奈門はゆっくりと家に近づいて行く。
冬の早い日暮れによって、辺りは夜に近い。窓から灯りは見えないが、人の気配はしていた。
薄暗がりの中、すっと窓の下に身を寄せる。幸い近くに人通りはない。
気配を読む。どうやら、大人の男が一人。せわしなく動いている様子だった。
「誰だ?」
動く流れのままに窓際に来た気配が、そう問いただしてきた。
土井半助の声だった。
尊奈門はすばやく窓から飛び退る。半瞬後には尊奈門のいた場所でチョークが砕け散っていた。
「なんの用だ? 騒ぎはやめてくれよ。おばちゃん達に怒られる」
半助は、ホウキを片手に窓からなさけないことを言う。
「なんだよそのおばちゃん達ってのは」
「知らないのかおばちゃん達ってのはどこでも最強なんだぞ? 無敵だぞ? 言っとくがまだ掃除中で湯も沸かせないからな、茶なんぞ出んぞ」
「誰がおばちゃん怖がる奴なんぞの淹れた茶なんか飲むか! 通りがかっただけだっ。・・・・・・元気だな?」
「ああ? 変な奴だな。病気に見えるか?」
「きり丸はどうした?」
「バイトに決まってるだろうが。掃除も夕餉の支度も私に押し付けてとっとと稼ぎに行った。いつものことだがな。きっと内職を山ほど背負って帰ってくるに決まってるんだ、それまでに掃除しなきゃ掃除する床がなくなってしまう。用がないならとっとと帰れ」
「ああ、邪魔したな」
いつもの土井半助だ。
近づく人の気配に、尊奈門がさっさと立ち去ろうとすると、相手は見覚えのある男だった。
「なんだ、こんなとこまで文房具攻撃食らいに来たのか?」
眼鏡にヒゲの気障男。二年の実技担当だ。
「何をっ!」
「あれ? どうしたんですか? 野村先生」
いきり立つ尊奈門にかまわず、野村は早くも半助に向かっていた。
「きり丸に用があるんだが。いないようだな。バイトか?」
「申し訳ありません、ご想像のとおりで。今日はさすがにもう戻ると思いますんで、中でお待ちください」
「ああ、上がらせてもらう。おい、とっとと消えろよ」
野村は尊奈門に更に一言言うとさっさと戸口に消えた。半助も窓から離れる。
取り残された尊奈門は、しばししょぼんと立っていたが、中で囲炉裏に火がくべられる様子に、急に寒さを感じて体を動かした。
土井半助は、いつもと変わりない。病気も怪我もしておらず、生死の境にいるようにはまったく見えない。しかし・・・・・・。
若いし半助には一度も勝てていないが、尊奈門も一人前の忍びだ。
確かに、土井半助はみお姫に似ている。その兄の履歴に矛盾しない。しかし、みお姫の能力を信じるなら、今その兄は生死の境にいるはずだ。
土井半助がみお姫の兄だという判断が誤っていたのか?
その可能性も、ある。
しかし、もう一つ可能性がある。
ここにいる土井半助が、偽物である可能性だ。
見た目は似ているが、薄暗いし相手は屋内で背の高さもはっきりしない。その程度の変装なら忍術学園の者であればなんとでもなるだろう。
会話に矛盾はなかったか? きり丸と近所のおばちゃんの話。あたりさわりない話だ。尊奈門相手でなくとも、この家と土井半助を結びつける者相手なら成立する話だ。
いきなりのチョーク攻撃。あれは、外の気配を尊奈門と知ってのことだっただろうか?
こちらが攻撃するより先に土井半助からしかけてきたことは、ない。ある意味相手にされていなくて腹立たしい思いをいつもしているのだ、たしかだ。
それを、いきなりチョークを投げつけてきた。
そして、相手は尊奈門が相手である場合にしか成立しない会話はしていない。したのは、あとから来た忍術学園の教師だけ。そして相手は、その教師の名は呼んだ。
尊奈門は、借家を離れる。
少し離れたところで、屋根に飛び乗った。
きり丸を軽く探してみるが、見当たらない。酔っ払いの引き取りまでやるというアルバイターなので、暗くなって戻らないからといって不審と判断もできない。
そっと戻り、借家の中庭へ降りる。
半助の部屋では、土間のかまどに火が入っているらしい。そばに人の気配はない。かまど越しならすぐには気づかれまいと、尊奈門は裏口の戸の節穴から中をのぞいてみた。
囲炉裏端に、男が二人。土井半助と、野村だ。
鍋からも湯気が上がっている。
本当にきり丸を待っているだけなのか、多少言葉を交わしてはいるようだが、声は聞こえないし、たいしたことを話しているようにも見えない。
これでは、判断できないな。
尊奈門は、戸を離れると別の部屋の屋根に上がって、再度きり丸を探しに行く。見当たらない。
尊奈門はそのまま町を外れ、まっすぐ忍術学園を目指した。
「・・・・・・どう思う?」
野村が問う。
「さてな。わしは土井先生のことはよく知らん。その尊奈門とかいう奴が土井先生に詳しいなら、騙されなかっただろうよ」
「・・・・・・そうだな。私は学園に戻る。できるだけ早くきり丸をこっちによこすから、当分は半助のふりをしていろ」
「おうよ。飯はいいのか?」
「ああ。うさぎはどうした?」
「らびちゃんは近所に預けてきた」
「そうか」
野村は、学園長からの依頼で町屋で半助のふりをする大木雅之助を残し、借家を出る。
大木が学園をやめたのは、半助が就職するより何年も前のこと。たまに学園や校外実習で顔を合わせる程度の縁で、一人で長く化けきることはできない。町屋での半助に詳しいきり丸を補佐にまわす必要があるのだ。
尊奈門が向かったであろう道とは違う抜け道を目指して、野村は道を急いだ。