「何故、こんな馬鹿な真似を・・・・・・」
16のまま時を止めた兄、ジーン。目の前に立つ少年に、ナルはため息まじりに言葉を吐いた。
「馬鹿? そうかな?」
対して、ジーンは自分より背の高い弟を見上げて言う。自信をにじませて。
「馬鹿じゃなければ、なんだって言うんだ?」
「僕は生きたい」
ずばり言う死者に、ナルはため息を落とす。
「おまえはもう死んでる。知ってるだろう? 遺体も引き上げた。墓は英国だ」
「体のことじゃない。完全に死んでいれば、こんなところに僕はいない。とっくに光の向こうに行ってるよ」
ジーンが指し示す方角に、ほんわりと光が見えた。闇一色だった空間に点された光。誘うようでいて、冷たく感じられる、光。
「迷ったんだろう?」
何度も何度も光へと歩み、どうしてもある一定の距離以上近づけず諦める兄の姿が、ナルの脳裏に浮かぶ。その哀しみまでもがひしひしと伝わってきた。
「なんで迷うのか、考えてみたんだよ。何年も、僕はここに閉じ込められてきたからね」
「閉じ込められっぱなしじゃなかっただろう?」
自らの意思で、麻衣の元に現れていた。麻衣を引き込んだわけではないはずだ。
「そう。調査中だと、ナルのそばにいられた。けど、ここ何年もそれさえなかった。僕は眠ってばかりいたけれど、それでもぼんやりと考えていたんだよ」
完全に眠っていたわけではなく、調査の進行もみつめていたらしいとは、麻衣から聞いたことがある。思考も途切れていたわけでないのだろうとは、ナルも納得する。
「それで?」
「その答えがわかった時、僕は目覚めた。呼ばれなくても、ちゃあんとね」
「・・・・・・・・・・・・」
『誰に』呼ばれなくても、起きたというのか。ナルは、唇の両端を引き上げて笑う少年を注意深く見下ろした。
「僕は、ナルの中で生きているんだ。ここは、僕らの意識の奥なんだよ、ナル」
「勝手に棲み付くな」
「初めから繋がれてるんだよ。僕らが共有していた場所が、ここなんだ。ここを通して互いの心を探り合って、ここで言葉を交わしていたんだよ、僕らは。
この場所がある限り、僕はここにいる。僕は、死ねないんだよ」
ジーンは、にっこりと微笑み、言った。
「ナルが生きている限りね」
と。
その笑顔は、昔良く見た彼だった。
けれど、その意識はすでに以前のジーンではない。ナルは、兄の変化を冷静に見ていた。
言っていることは本当かも知れないが・・・・・・これは、死者だ。
「生きているのは僕で、死んだのはおまえだ、ジーン」
「僕はここにいる。ずっとね。ナルが生きている間、ずーっと。寂しがり屋な誰かさんのおかげで、眠りっぱなしでもいられない。こんな中途半端に、いつまでもいるのは、嫌だね」
「除霊でもされたいのか?」
「無理だよ。だって、僕とナルは繋がっているんだもの。僕を払えば、ナルも死ぬよ」
「どうだかな」
「どちらかしか生きられないのなら、それが僕でもいいじゃないか」
「死んだのはおまえだ」
「でも、ナルの体も使えるよ。僕は、ナルの中にいるんだしね」
ナルが閉じ込められていた間にジーンがその確信を得たのだと、ナルは知る。人の体で何をしていたのやら。
「僕のマネをして生きていくって?」
ナルは笑う。できるはずがない。ナルとジーンでは、性格も才能も違うのだ。期間が長ければ、周囲に気づかれないはずはない。
ジーンも笑う。
「僕は、僕だよ。霊媒のジーン。ナルとは違うけれど、ちゃんと役に立つ、ね」
ジーンは本気だ。
ナルは、言葉の通じない相手との話に、既に飽きはじめていた。
「おまえが僕の体を乗っ取って生き返って、誰が喜ぶと思う、ジーン」
「・・・・・・・・・・・・」
初めて、ジーンが笑みを引っ込めた。
「誰もがもう、おまえが死んだことを受け入れている。僕らが2人そろうことを望んでも、僕を乗っ取っておまえが生き返ることを望む人間はいない」
「・・・・・・いれば、ナルより僕に生きて欲しいと望む人間がいれば、僕の邪魔をしない?」
「いやしないし、いても僕の体は僕のものだ」
「いるかも知れないよ。たとえば・・・・・・麻衣」
「・・・・・・・・・・・・」
押し黙るナルに、ジーンは笑う。
「麻衣は僕が好きなんだろう。ナルと違って、僕は女の子に優しいからね」
「・・・・・・節操がないだけだろう」
「普通だよ。お年頃ならね。ナルの方がどうかしてる」
ナルの冷めた視線も、ジーンは気にしない。何年のブランクがあろうと、生まれた時から一緒に生きていた相手なのだ。睨むだけで、何をするでもない。
ジーンは、不機嫌な弟に、楽しげに提案した。
「ナル、賭けをしようよ。もし、誰かがナルよりも僕に生きて欲しいと思うなら、僕に体を貸してよ。常にとは言わないからさ」
「冗談でもごめんだ」
「それなら、僕は力づくで奪いとるよ。これは、僕からの譲歩だよ? だって、ナルはここから出る方法なんて知らないだろ?」
出る方法・・・・・・。
急に、ジーンの姿が輪郭を失った。薄白い影に、微笑が浮かぶ。
「ジーン!」
「もしも、麻衣が僕の方がいいと言ったら、僕の勝ちだよ」
するりと、影が消える。遠くのぼやけた光も消える。一面の闇がまた、舞い戻ってきてナルを閉じ込めた。
「じゃあね、ナル」
「ジーン!」
もう、なんの気配もなかった。
そして、ナルはまたすべての感覚を奪う闇にまとわりつかれてしまった。
四肢の感覚が失われ、五感に捉えられるものは、ただ、闇ばかり。
(出る方法・・・・・・)
空間を歩む術さえもないナルに与えられた、その課題。
それこそが、ジーンの罠だった。
どれだけの時が経ったのか。為す術もなく長い時を過ごして、ふいに、ナルは意識を奪われた。
抗いきれずに、深い眠りの中へと・・・・・・。
(ここは・・・・・・・・・・・・?)
麻衣は、見慣れない天井と向かいあっている自分に気づいた。
(ああ、あたし、抜け出しちゃったんだ)
下を見れば、クッションを枕に毛布を被りソファで眠る自分がいる。
ジーンに、会いに行こうと思ったのに。
見回すと、滝川がダイニングテーブルに向かっていた。
湯気をあげるカップを前に、思考に沈んでいる。
(アイスコーヒーのストックはないものね)
麻衣は、床に降り立った。
滝川が気づく気配はない。
感触の乏しい床を踏みしめて、廊下に出る。
そうして、寝室に向かった。
物音を聞き逃さないためか戸がすべて少し開かれていたので、その隙間を抜けて、麻衣は寝室に入る。
ナルが、ベッドに横たわっていた。
(ナル・・・・・・か、ジーンか・・・・・・)
目を覚ますのは、誰なんだろう。
呼びかければ、起きるだろうか?
声を掛けようとして、麻衣は、誰の名を呼ぶべきか迷う。
「ねえ、起きて」
誰に目を覚まして欲しいのか。あえて何も願わずに、ただ、声を掛けた。
「起きて。ねえ」
呼びかけに、ナルの瞼が薄く開く。まばたきをして、ちゃんと開いた。そして、麻衣をみつけた。
「麻衣・・・・・・」
麻衣は、息を吸い込む。体から抜けだした、麻衣の姿を見ている、ナル。
(ジーンだ)
それを認めたことが、嬉しくもあり、哀しくもあった。
会いたいと思っていた人に会えた。自分の想いのためにも、この混乱のためにも。
けれど、今、彼がここにあるということは・・・・・・。
ジーンが、ベッドから身を起こした。
ベッドの上に、ナルの体を残して。
「ジーン・・・・・・」
暗い表情を浮かべる麻衣に、ジーンが微笑んで見せる。
「大変だったね、麻衣」
麻衣は、視線を足元に落とした。まっすぐ、彼を見ることができなかったのだ。
「ごめんね」
そっと囁く声に、麻衣は顔を上げる。
「ごめん。僕には、止められなかったんだ」
見れば、ジーンも足元を見ていた。
「そのことで、喧嘩になって。ナルが癇癪起こして鏡を割っちゃったんだ。それで倒れちゃうんだから、ナルも馬鹿だよねぇ」
ジーンが、困った顔でちらりと麻衣を見た。まだ怪訝そうな麻衣に、彼はため息を落とす。
「熱で理性が飛んじゃったのかな、ナルってば。ごめんね。怖かった?」
麻衣はじっと彼をみつめる。彼の言葉をはかろうと。
彼が、ゆっくりと麻衣に歩み寄った。
「ごめんね。大丈夫だよ」
そうして、そっと麻衣を抱き寄せた。
麻衣に不埒な真似をしたのは、ナル。
ジーンは止められず、後で鏡越しに説教をした。
兄の説教に癇癪を起こしたナルは、力を暴走させて鏡を割ってしまう。
そうして、体に負荷がかかって倒れてしまった。
そういうことだと、彼は言っているのだ。
もやもやを吹き飛ばされて、彼の胸に麻衣は顔を寄せる。
彼を疑わずに済む解答を得て。
彼を信じることができる。
それが、麻衣は嬉しかった。
『男の部屋に一人で来て、誘ってるとしか思えないな』
きっと、ナルは警告してくれたのだ。不用意に一人で男の部屋を訪ねたことを。ナル以外の男だったら、どうとられるかわからない。都合よくとられてしまうかもしれないし、何かあった時だって言い訳がしにくい。もちろん、他の男の部屋だったら、麻衣はこんなに不用意に入ることなどしないのだが、そうとは知らず、ナルはそんな麻衣を諌めるためにあんな真似をしたのだ、きっと。
キスだって、お盆を使わなくてもナルは寸止めにしただろう。
ナルは、自分が誤解されることに、頓着しない人だから。
ナルも、ジーンも悪くない。
きっと、自分が深刻に考えてしまっただけなのだ。
ジーンの言葉を信じて、麻衣は考えを変えた。
泣く麻衣の髪を、ジーンがそっとなでてくれた。
「ナルは、しばらく眠らせておいた方がいいと思うんだ」
髪をなでながら、ジーンが言う。
「あの島の事件は、精神的にいろいろ混乱させてしまったみたい。熱や怪我のせいで、ちゃんと頭の中が整理できないんだね。お年頃だからかな」
ジーンがおどけて言ってみせるのに、麻衣はくすりと笑い、顔を上げた。
「ナルでも、そういうことあるんだ?」
「そりゃあ、お年頃だもの。麻衣だって、わかるだろ?」
「そんなに、意識してないんだけどなあ」
くすくすと笑いながら、麻衣はジーンから離れた。
「けど、あのまま眠らせておくんじゃ飲み食いもできないし、衰弱するかも知れない。必要な時だけでも、僕が代わりに出てこようかと思うんだけど。どうかな?」
「代わりって、ジーンが、ナルの体に・・・・・・?」
「飢え死にさせるわけにいかないだろう?」
「そう、だけど・・・・・・」
とまどう麻衣に、ジーンは笑ってみせる。
「大丈夫、今だけだよ。元気になっちゃえば、ナルが僕を表に出しておいてくれるわけないし。ナルの体で、外に出たりしないし、食事なんかの時だけ。約束するよ」
麻衣は上目遣いにジーンを見る。
「ナルが後で困らないように、ナルの振りしてるし。勝手はしない。ね?
僕でも役に立てることがあるなら、やらせてくれないかな?」
そうまでして、ナルを眠らせ続けるべきなのだろうか。麻衣は、自分の心に不安が湧きあがってくるのを感じた。
「・・・・・・でも、あたしが、いいって言うことじゃないし」
「ナルは寝てるもの。それこそ、僕の独断じゃ、さっきみたいなこと、やっぱり僕が勝手にやったんじゃないかって思えちゃうし。他にも知ってる人がいる、ってことが問題なんだよ。許可するんじゃなくて、ただ、わかっててくれればいいんだよ、麻衣がね」
誰かが了解していれば、勝手に乗っ取ったことにはならない。誰か他の人間が気づいても、そういうことだったと、説明できる人間がいれば・・・・・・。
「わかってれば、いいだけ?」
尋ねながら、麻衣は形作られていく不安から逃れる術を探る。
ジーンが、ナルの体を使う。
なんとなく、彼がそのことに固執しているように思えるのだ。
自分が了解したら、どうなるのか。
「そう。ナルに怒られるのは僕。ねえ、麻衣。ナルのために、僕が、ナルの体を使うのを、了解しておいてくれる?」
ナルのために。
麻衣は、笑いかけた表情のまま、言葉を止める。
これは、誰だろう。
目の前の人物。見慣れた顔と、なつかしい笑顔の、この男性は、誰だろう。
ジーンだと、知っている。彼だと、わかっている。けれど、誰なんだろう。
「麻衣?」
小首をかしげる男の人。ジーンであって、ジーンでない、男。
「どうしたの?」
麻衣は、言葉を返す。
「誰?」
と。
「ジーン・・・・・・。あたしが、知ってる、ジーン」
自分はどれだけ、彼のことを知っているというのか。
「ジーンなのに。あたしには、わからない」
彼をよく知っているつもりで恋していたのに。なのに、今目の前にいる人物は、麻衣の知るジーンではない。
「あたしは・・・・・・」
『麻衣っ!』
麻衣を通して声がして、麻衣がジーンの前から消えた。
滝川の声。麻衣は目覚めてしまった。
ジーンは、呆然と立ち尽くす。麻衣は、彼を信じてくれなかった。
リビングの方を睨む。滝川の声がする。もう、どうしようもない。
やむなく、ジーンはナルの体に戻った。
滝川と共に、麻衣が部屋を出て行く気配を見送って、ジーンはベッドに起き直る。
自分と二人きりになる時間を持つことを恐れて、麻衣は部屋を離れた。
(駄目か・・・・・・)
急ぎすぎたかもしれない。けれど、麻衣と二人きりで話すチャンスなど早々ないし、リンや滝川に気配を悟られてしまったら、ジーンは表に出る機会を完全に失ってしまうだろう。
滝川が部屋を離れれば、麻衣と実体をもって二人きりになれる。
そのチャンスからさえも、麻衣が逃げてしまった。
時間を与えれば、または他の人間の考えを入れてしまったら、もう、麻衣はどんなに言葉を費やしても、ジーンの言葉に騙されはしないだろう。
『誰?』
彼をジーンであると認めながら、混乱して吐き出された麻衣の心の声。
麻衣の混乱の正体を、ジーンは知らない。滝川に問われた言葉を彼は知らない。ジーンは、事を急いてしまったための言葉じりから、麻衣が彼をジーンではなく、他の憑依霊が彼を騙っているのではないかと疑念をもったのだと判断した。
誤解を解くことは出来るが、もはや、機会がない。
(駄目か・・・・・・)
麻衣にナルでなく、ジーンにいて欲しいと言わせる機会。うまく言葉を操って、言わせてみせるつもりだったのに。
そうすれば、ナルと体を共有できる。ナルが許さなくとも、麻衣を味方にしてしまえば、麻衣に負い目をもたせておけば、麻衣を通して共有するためのラインは敷けるはずだった。ジーンも生きることができるはずだった。なのに・・・・・・。
このまま憑依し続けることができればいい。ナルは閉じ込められたまま。ジーンが彼の存在を欲しさえしなければ、彼は眠り続けるだろう。が、それには、麻衣が障害になるのだ。
麻衣はジョーカーだ。ナルとジーンの間に繋がるラインの。
彼女の存在なしに、ジーンはナルがサイコメトリして見る映像を見ることができなかった。
彼女がナルを求めた時、ナルを抑え続けることができるとは思えない。
そして、麻衣を味方にできず、憑依を解かれ、ナルが元気になってしまえば、もう、無理やり体を乗っ取ることなどできないだろう。
麻衣を、味方にすることができなかった。
このままジーンがナルを封じ続けても、いずれ麻衣がナルを起こしてしまうだろう。
そうすれば、ナルが戻る。自分は再び奥深くへ封じられる。ナルが求めた時か、意識を手放した時にしか、浮上することなく。光へ旅立つこともできず、いつまでも、中途半端に、いずれ省みられることもなくなり、ただ闇の内にい続けるだけの存在となり、ナルがこの世を去る頃には、光へたどりつくべき意識さえも失われているかも知れない、そんな、長い時を、また過ごさねばならない。
ナルの体を使って、自分が生きることができないならば・・・・・・。
光の元にも行けず、生きることもできないならば・・・・・・。
ジーンは、ベッドを離れた。
時間切れで部屋を出るが、留守番するか、遅れてくる安原を下で待つか、と、起こされた麻衣は、下に降りることを選んだ。
滝川がマンションを出るのを見送って、麻衣は一階ロビーのソファにおさまった。
あれはジーンだった。それは、わかっている。
けれど、以前の彼とは違っていた。いや、自分がジーンはこうなんだ、と信じていたジーンとは、彼は違っていた。
滝川がいなくなれば、また、ジーンと二人きりになってしまう。
麻衣は、それを避けるために、降りてきた。
自分が思っていたようなジーンでないならば、彼が、麻衣を騙すこともありうる。
ナルの体を自分が使うことに固執しているように思える彼の希望に応えることは、できない。
麻衣にとってのジーン。ナルの体に固執するジーン。
真実のジーンは、どちらなのか。
自分の彼への想いが宙に浮いてしまったような、こんな混乱した気持ちのまま二人きりになることは、できない。
少し、時間が欲しかった。
重い息を吐き出したところに、フロントのおじさんが歩み寄ってきた。
「そろそろ休憩にお茶でも、と思っていたところです。ご一緒にいかがですか?
お待ちの方がいらっしゃるのでしたらば、こちらで」
麻衣は喜んでその誘いに応じた。鬱々と考えているよりは、気分転換した方が良いように思われた。
おじさんは、フロントの裏の部屋から二人分の紅茶を運んできてくれた。
「紅茶を誰かとご一緒するのは久しぶりです。家内は、あまり好きではないもので」
香りを楽しみながら、おじさんはにこにこと麻衣に語る。
「お嬢さんは、紅茶でよろしかったですか? 今の若い方はコーヒーの方が馴染み深いのでしょうかね。無理につきあわせてしまったかな」
麻衣は力いっぱい首を振る。
「とんっでもないっ、紅茶は好きです。職場じゃ、お茶といえば紅茶のことですし。おいしいです」
麻衣の言葉に、おじさんは満面の笑みを浮かべる。そうして、二人、マンションの一階ロビーで静かに紅茶の話で盛り上がった。
おじさんお薦めの葉を分けてもらう約束をしたところに、安原がやって来た。
「すみません、遅くなって」
外は、すでに真っ暗だった。雨が本格的に降り出している。
2月の雨に、安原は白い息を吐く。見ただけで、寒そうだった。
「外、すごい寒い?」
「すっごく。真冬の雨だからね」
おじさんにお礼を言って、麻衣はぶるぶると震えて見せる安原をエレベーターの方へと導いた。
上昇ボタンを押すと、箱が降りてくる。おじさんは、お盆に茶器を片付けていた。
「安原さんも、上であったかいのつくったげるね」
「是非お願いします」
降りてきた箱で、三階に上がる。合鍵でナルの部屋に入った。
麻衣は台所へ直行し、安原は病床で放っておかれた所長の様子を見に、教えられた部屋へと向かう。
「谷山さんっ!」
ヤカンに水を入れる間もなく、安原の声が響いた。
「渋谷さんがいないっ!」
ジーンは、エレベーターでロビーに降り立った。
麻衣と安原が上がってきたエレベーターは、二人を降ろしてすぐ、四階で口を開けた。
そこから、彼は乗り込んだのだ。
麻衣と楽しいお茶の時間を過ごしたフロントのおじさんは、茶器を片付けに奥に入ってしまっていた。
誰に邪魔されることなく、ジーンは2月の雨の中へと出て行った。